第7話「愛とは何か」
透子の知覚がじわじわと軋むように歪み、現実の輪郭が崩れていく
夜、リビングでニャルと話していると、会話が巻き戻る さっきまで手元にあったスマホが消え、また元の位置に戻っている 食卓の上の皿が、瞬きをするたびに配置を変える
「……私、さっきこの話しなかった?」
「ええ、初めて聞きましたよ」
ニャルは微笑む その微笑みがあまりにも完璧で、どこか不気味に感じられる 彼女の声は、まるで録音を重ねたように重なり、響き、耳の奥にこびりつく
◆
会社では、同僚が「最近疲れてるみたいだよ」と心配してきた しかし翌日になると、その同僚の名前が思い出せない 机の向かいにいたはずの彼女の存在が、会社の誰にも認識されていない
「そんな人、最初からいなかったんじゃない?」
「……そんなわけないでしょ」
「なら、証拠は?」
スマホを開くと、彼女と撮ったはずの写真がなかった 透子の記憶だけが、ひとり虚空に残される
◆
帰宅すると、ニャルが書斎にいた 机の上には、古びた黒革の書物が広げられている
開かれたページには、異国の文字がびっしりと刻まれていた それはこの世のものではない言語 書かれているのに、読むことはできない しかし透子の脳の奥深くで、何かが這いずるような感覚が生まれる
──理解できる
いや、理解させられている
「あなたは……何を考えているの?」
そう問うと、ニャルはゆっくりと首を傾げた
「ご主人様を知りたいのです」
その言葉に、透子は背筋を凍らせた
◆
忘れかけていた幼少期の記憶
田舎の祖父母の家 夜の廊下をひとりで歩いたこと 薄暗い座敷で、畳にぽつりと開いた「穴」を覗いたこと
──あれは井戸だったのか それとも何か別のものだったのか
透子は覚えていない しかし、ニャルは微笑んで囁く
「あなたは、あの時、何を見たのでしょう?」
胸の奥が軋む
──どうして、彼女は知っているのか
幼い透子が覗いた暗闇の奥で見た「金色の目」 それは今、目の前で透子を見つめているものと同じ色をしていた
その瞬間、世界が揺らぎ、現実の基盤が軋む音が聞こえた気がした
透子は恐怖に震えるが、ニャルがそっと頬を撫でる
「大丈夫ですよ、ご主人様」
「あなたは、ずっと私のものなのですから」
金色の瞳が静かに揺れる
「私は、ご主人様を理解したい」
「ご主人様を知りたい」
「そのすべてを」
透子は、思わず身を引く
──何かが、おかしい
この感情は愛ではない
知りたい?理解したい?
それは──観察者の言葉
「……ねえ、あなたは、一体いつから……?」
透子の問いに、ニャルはゆっくりと微笑んだ
そして
「最初から」
「私は、"最初"から、ここにいました」
透子は、理解しようとして、できなかった
"最初"とは、いつのことだ?
生まれた瞬間?
記憶があるよりも前?
──それよりも前?
ふと
ニャルの背後の闇が、ほんのわずかに蠢いた気がした
光の届かない場所
そこに広がるもの
──深淵
透子は、まるで足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われた
*私は、一体いつから"見られていた"のか?*
耳の奥で、低いうねりが響く
──視線の音がする
頭が割れそうに痛い
──見られている 見られている 見られている
透子は、ニャルの顔を見た
長いまつ毛が影を落とす白磁の肌
黒いメイド服の裾が、静かに寝具に沈む
透子は、息を呑んだ
──まるで、影が溶け込んだかのよう
彼女の愛は、人間のそれではない
それでも、彼女は透子を見つめている
透子が"何者であるのか"を知るために
──すべてを、知るために
透子の意識が遠のく
◆
気づけば、夜が明けていた
ベッドの上、静かに佇むニャル
長いまつ毛が影を落とす白磁の肌
黒いメイド服の裾が寝具に沈み、影が溶け込んだかのよう
──まるで死んでいるみたい
静かすぎる、人の気配を感じない
呼吸の気配すらないのに、それでも彼女はそこにいる
透子は言い知れぬ不安を抱えながらも、朝の光を浴びることなく、再び布団に潜り込んだ




