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第7話「愛とは何か」

透子の知覚がじわじわと軋むように歪み、現実の輪郭が崩れていく


夜、リビングでニャルと話していると、会話が巻き戻る さっきまで手元にあったスマホが消え、また元の位置に戻っている 食卓の上の皿が、瞬きをするたびに配置を変える


「……私、さっきこの話しなかった?」


「ええ、初めて聞きましたよ」


ニャルは微笑む その微笑みがあまりにも完璧で、どこか不気味に感じられる 彼女の声は、まるで録音を重ねたように重なり、響き、耳の奥にこびりつく



会社では、同僚が「最近疲れてるみたいだよ」と心配してきた しかし翌日になると、その同僚の名前が思い出せない 机の向かいにいたはずの彼女の存在が、会社の誰にも認識されていない


「そんな人、最初からいなかったんじゃない?」


「……そんなわけないでしょ」


「なら、証拠は?」


スマホを開くと、彼女と撮ったはずの写真がなかった 透子の記憶だけが、ひとり虚空に残される



帰宅すると、ニャルが書斎にいた 机の上には、古びた黒革の書物が広げられている


開かれたページには、異国の文字がびっしりと刻まれていた それはこの世のものではない言語 書かれているのに、読むことはできない しかし透子の脳の奥深くで、何かが這いずるような感覚が生まれる


──理解できる


いや、理解させられている


「あなたは……何を考えているの?」


そう問うと、ニャルはゆっくりと首を傾げた


「ご主人様を知りたいのです」


その言葉に、透子は背筋を凍らせた



忘れかけていた幼少期の記憶

田舎の祖父母の家 夜の廊下をひとりで歩いたこと 薄暗い座敷で、畳にぽつりと開いた「穴」を覗いたこと


──あれは井戸だったのか それとも何か別のものだったのか


透子は覚えていない しかし、ニャルは微笑んで囁く


「あなたは、あの時、何を見たのでしょう?」


胸の奥が軋む


──どうして、彼女は知っているのか


幼い透子が覗いた暗闇の奥で見た「金色の目」 それは今、目の前で透子を見つめているものと同じ色をしていた

その瞬間、世界が揺らぎ、現実の基盤が軋む音が聞こえた気がした

透子は恐怖に震えるが、ニャルがそっと頬を撫でる


「大丈夫ですよ、ご主人様」


「あなたは、ずっと私のものなのですから」


金色の瞳が静かに揺れる


「私は、ご主人様を理解したい」


「ご主人様を知りたい」


「そのすべてを」


透子は、思わず身を引く


──何かが、おかしい


この感情は愛ではない

知りたい?理解したい?


それは──観察者の言葉


「……ねえ、あなたは、一体いつから……?」


透子の問いに、ニャルはゆっくりと微笑んだ

そして


「最初から」


「私は、"最初"から、ここにいました」


透子は、理解しようとして、できなかった

"最初"とは、いつのことだ?

生まれた瞬間?

記憶があるよりも前?


──それよりも前?


ふと

ニャルの背後の闇が、ほんのわずかに蠢いた気がした

光の届かない場所

そこに広がるもの


──深淵


透子は、まるで足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われた


*私は、一体いつから"見られていた"のか?*


耳の奥で、低いうねりが響く


──視線の音がする


頭が割れそうに痛い


──見られている 見られている 見られている


透子は、ニャルの顔を見た

長いまつ毛が影を落とす白磁の肌

黒いメイド服の裾が、静かに寝具に沈む

透子は、息を呑んだ


──まるで、影が溶け込んだかのよう


彼女の愛は、人間のそれではない

それでも、彼女は透子を見つめている

透子が"何者であるのか"を知るために


──すべてを、知るために


透子の意識が遠のく



気づけば、夜が明けていた

ベッドの上、静かに佇むニャル

長いまつ毛が影を落とす白磁の肌

黒いメイド服の裾が寝具に沈み、影が溶け込んだかのよう


──まるで死んでいるみたい


静かすぎる、人の気配を感じない

呼吸の気配すらないのに、それでも彼女はそこにいる

透子は言い知れぬ不安を抱えながらも、朝の光を浴びることなく、再び布団に潜り込んだ



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