第6話「知覚の崩壊」
──時計の針が、戻る
カチリ、と乾いた音が響いた瞬間、透子の視界がぐらりと揺れた
白いカップに注がれたコーヒーの表面が波紋を作り、わずかにこぼれる
目の前に座る彼女──ニャルが、微笑んでいる
「……どうかなさいましたか、ご主人様?」
透子の目の前にいる彼女の金色の瞳が、琥珀のように鈍く輝いた
透子は、息を呑む
──今、何が起きた?
確かにさっき、時間が巻き戻ったような感覚があった
「……ねえ、いま、時計が」
言いかけた言葉が、喉の奥で消える
おかしい、何を言おうとした?
わずかに頭が重い
透子は、自分の指先をじっと見つめる
微かに震えていた
「……なんでもない」
そう答えた瞬間
ニャルの微笑みが、ほんの僅かに深くなった
透子は、食卓に視線を落とす
冷めかけたスープの中で、溶けかけたパンがゆらりと揺れた
◆
会社に着いても、違和感は続いていた
デスクの上には、未開封の書類が山積みになっている
どれも見覚えのあるものだった
──いや、違う
見覚えが「ある気がする」だけだ
書類の内容を確認しようとした瞬間、視界の端で誰かが立ち上がるのが見えた
「倉橋さん、大丈夫?」
声がする
隣のデスクに座るのは、女性社員
透子は彼女を見つめた
──誰だ?
いや、知っている 名前も、顔も
けれど、その記憶が奇妙に薄い
遠くの霧の向こうにあるような、輪郭の曖昧な存在
「最近、疲れてるんじゃない?」
彼女は心配そうに言う
透子は曖昧に微笑みながら、軽く首を振った
「大丈夫」
そう答えると、彼女は安心したように席へ戻る
透子は小さく息を吐いた
──やっぱり、疲れてるだけだ
けれど、
翌日
隣のデスクには、誰もいなかった
「……え?」
透子は思わず、周囲を見渡す
いつものオフィス、いつもの風景
けれど、昨日、自分に話しかけてきた女性は、どこにもいない
「倉橋さん?」
別の同僚が声をかけてきた
「どうかした?」
透子は、隣のデスクを指さした
「ここにいた人は?」
「……?」
同僚が首を傾げる
「ここ、最初から誰も座ってないけど?」
──嘘
そんなはず、ない
透子は、ぞわりと肌が粟立つのを感じた
「でも、昨日……」
声を絞り出す
「昨日?」
同僚は、不思議そうに瞬きをする
「倉橋さん、昨日も普通に一人だったよ」
透子の脳裏に、彼女の心配そうな表情が浮かぶ
「最近、疲れてるんじゃない?」
──あの声は、何だった?
確かに、聞いた いや、話した
昨日、ここで
なのに
「最初からいなかった?」
頭が痛む
まるで、何かが強制的に"なかったこと"にされていくような感覚
透子は、デスクに置かれたスマホをそっと握る
──仕事をしてたし、記録があるはず
昨日の履歴を確認しようと、画面を開く
通話記録、メッセージ履歴
──ない
どこにも
彼女の存在は、どこにも残っていなかった
透子は、息を呑んだ
◆
夜
透子は、震える指で鍵を回した
静まり返った室内
──帰りたくなかった
けれど、どこへ行けばいいのかわからなかった
リビングの明かりが灯る
食卓には、すでに食事が並んでいる
バターの香り、優雅な盛り付け、美しく磨かれた食器
ニャルが、微笑んでいた
「おかえりなさいませ、ご主人様」
その声が、ひどく心地よかった
透子は、崩れるように椅子に腰を下ろす
「……ニャル」
震える声で名前を呼ぶ
「私……」
話しかけようとして、言葉が喉で詰まる
──何を言おうとした?
ひどく、頭がぼんやりとする
ニャルが微笑む
「大丈夫ですよ、ご主人様」
「疲れているのです 少し、忘れましょう」
そっと、透子の頬に手が添えられる
指先は、夜の冷たさを含んでいた
その温度に触れた瞬間
透子は、すべてを忘れた




