第3話「メイドの住む家」
透子が目を開けると、周囲の世界が微かに歪んでいることに気づいた 天井の木目が揺らいで見える 疲れ目だろうか、それとも何か別の原因があるのだろうか ゆっくりと上体を起こそうとするが、身体の重さに圧倒される
昨日の夢が、まだ現実と混ざり合っているような感覚が残っていた 肌にまとわりつくような疲労感 まるで自分がもう一度、何かに取り込まれてしまったような不安が湧き上がる
目を横にやると、そこにニャルが座っていた
黒いメイド服を身にまとい、無言で寝ている その姿はまるで静止した時間の中にいるかのようで、息すらしていないように見える まるで死者のようだ それでも異常なまでに美しく、透子は無意識に目を背けた 彼女は眠っているのか、それともただ存在しているだけなのか
◆
透子は、心の中で何かが揺れるのを感じ、無意識に唇を噛んだ
──この部屋、昨日と何か違う
ベッドから静かに降り、室内を見回す 昨日の記憶にあったものが微妙にずれている気がした 壁紙の模様が違う ドレッサーの位置がほんの少しずれている 窓のカーテンの柄が記憶と一致しない
小さく息を吐き出し、考えすぎだと自分に言い聞かせる それでも腹の奥でじわじわと不安が広がっていく
──この部屋は、本当に自分の部屋だったのだろうか?
深く息を吸い、その感覚を振り払おうとするが、疑問は消えなかった 朝の準備を始めようとした、そのとき
──ガクン
空気がわずかに震えたような感覚が背中を走る 振り向いた瞬間、耳元で囁かれたような声が響いた
「……いってらっしゃいませ、ご主人様」
透子は驚きのあまり飛び退いた 震える手が壁に触れ、背中には冷たい汗が流れる
ニャルは依然として静かに横たわっていた その姿に動きはない しかし確かに、彼女の声は聞こえた 現実なのか、それとも夢の中の声だったのか、透子には分からなかった
逃げるように部屋を出た
◆
夜、帰宅した瞬間、息を呑む
部屋の空気が異様に澄んでいる 「綺麗」とは違う どこか異国の館に足を踏み入れたような静けさがあった 立ち止まり、ゆっくりと足を踏み入れる
──昨日と違う それなのに、どこか「当然」のことのように思えてくる
「おかえりなさいませ、ご主人様」
思わず足が止まる ダイニングテーブルには湯気を立てる料理が並んでいた ロールキャベツの香りが広がる
「今日はお仕事、お疲れ様でした」
ニャルの声は静かで穏やかだった その微笑みが透子に不安を与える 言葉を交わさず椅子に座り、食事を取る 料理は温かく、味は心地よい しかしその温かさが、かえって異常に思えてくる
無意識に喉を鳴らした
──違和感が、どんどん薄れていく それが、最も恐ろしいことだった
しばらく黙って食事を続けた後、静かに声をかける
「……ねえ、ニャル」
「はい、ご主人様」
少し考えてから言葉を続けた
「部屋……少しずつ変わってない?」
ニャルは静かに微笑んだ その表情は、まるで何も知らないかのように穏やかだった
「ええ、ご主人様が住みやすいように、最適化しております」
「……最適化?」
疑念を隠せなかった
「ええ、ここはご主人様の家です だから、ご主人様の理想の形へと近づいていくのです」
自分でも理解できないほど冷たく感じた喉を意識する
──私の、理想?
部屋を見回す 確かに壁紙が昨日とは違っている しかし、それが変わったと認識できることこそが異常だと気づく 何度も記憶を辿るが、これが元からこうだったのだと考えようとするたび、違和感が薄れていく
思考が次第に曖昧になり、意識が滲む ふと、耳元で甘やかな声が囁かれた
「おやすみなさいませ、ご主人様」
その言葉が、透子の意識を深い闇へと引きずり込んでいった




