第2話「囁く混沌」
夜の名残が部屋の中にひそかに絡みついていた
湿った闇が黒い霧のように漂い、空気をじっとりと濡らしている 透子は重たいまぶたをゆっくりと開けた
だが、意識が目覚めるまでには長い時間がかかった いつもと違う感覚 妙な倦怠感が身体を覆っている 眠ったはずなのに、体は鉛のように重い 深く眠り込んだような異常な感覚が残っていた
異臭がした 湿った紙の香り 古びた図書館の匂い 鼻腔に染み込んでくる どこか異国的で不安を掻き立てる その匂いに誘われるように、透子は眠い目をこすりながら目を開ける
そして、目の前に現れたのは
異様な姿だった
長いまつげが影を落とす目元 白磁のような肌 黒いメイド服の裾が寝具に沈み、まるで影そのものが形を成したかのようだ
透子は息を呑んだ
──まるで死者のように静かに眠っている
背筋に冷たいものが走り、思わず身体が硬直する 彼女は本当に「眠っている」と言えるのか
静寂があまりにも深く まるで生気が感じられない まるで存在が人間ではなく、何か別の異質なものに変わっているかのように
透子は無意識に彼女に触った
その瞬間
「……いってらっしゃいませ、ご主人様」
その声は囁かれるように脳内に響いた 透子は反射的に飛び退き、心臓が跳ねる 冷や汗が背中を伝い、思わず震える
寝言なのか
だが、その響きはどこか異質で生々しく まるで透子の意識に直接侵入してきたかのような感覚があった
透子は震える指で腕時計を見る
──午前六時
ニャルは微動だにしない 時間が彼女だけを置き去りにしているかのように ただ静止している
透子はそっとベッドを降りて部屋を後にした
◆
通勤の電車内 透子は虚ろな目で窓の外を見つめていた いつもと同じ朝のはずなのに 感覚がぼやけている 乗客の話し声が遠く 何もかもが夢の中にいるようだ
ふと反射した窓の向こうに金色の瞳が映った
透子は息を呑んで振り向く
──誰もいない
寒気が背中を駆け抜け、心臓が嫌なリズムで刻み始める 透子は目を閉じ、深く息を吐いた
──疲れているだけ
自分にそう言い聞かせるが まぶたの裏に焼き付いた金色の残像はなかなか消えなかった
◆
帰宅した瞬間に透子は異常な空気を感じ取った
部屋の中が異様に澄んでいる どこか異国の館のような静寂に包まれている いや、それ以上に空気そのものが不自然だと感じた
「おかえりなさいませ、ご主人様」
透子は驚きと恐怖に息を呑みながら振り向く
そこに立っていたのはニャルだった 白皙の手を前で組み 穏やかな微笑を浮かべている
「ご飯にしますか それともお風呂に」
その声はまるで長年仕えてきたかのように 無理なく自然だった
透子は震える声で言った
「……なぜ、ここにいるの」
ニャルの微笑みがさらに深く 透子の目をじっと見つめる
「ご主人様が 私を望んだから」
その言葉が透子の脳裏を直撃した 確かにあの夜SNSで「メイドがいたらな」と呟いた そして、彼女がここに現れた
こんなことがあるはずがない だが、心のどこかで透子はそれを受け入れてしまっていた
透子は自分でも気づかぬうちに唇を噛んだ 悪寒とともに心の奥底に広がる奇妙な安堵感
──もう 考えなくてもいい
ただ 流れに任せてしまえばいい
透子はゆっくりと息を吐き そして言った
「……じゃあ 先にお風呂にする」
自分でも驚くほど自然な声が口からこぼれた




