最終話「夜の花嫁」
私はもはや「人間の形」をしていなかった
かつての輪郭は曖昧に揺らぎ、指の先は意思を持たぬ蛇のように伸び、縮み、蠢く
肌はなめらかな陶器のようでありながら、その下では**何かが這い回り、脈打っている
内側に別の何かが住みついているかのように、不規則な鼓動が、身体のあちこちで波打つのが見えた
彼女はニャルのそばで、無音の夜の街を見下ろしていた
ここがどこなのか、いつからここにいるのか、それすらも考えることができない
ただ「ここにいる」
――いや、「在る」としか言いようがなかった
ふと、遠くで自分の名前を呼ぶ声がする
懐かしい、はずの響き
けれど、その音が何を意味するのか、すぐには思い出せない
頭の奥に霧がかかったようで、考えがまとまらない
私はゆっくりと視線を向けた
そこには「人間」がいた
……見知らぬ顔。なのに、なぜか知っている気がする
だが、じっと見つめているうちに、
その顔はゆらめき、
輪郭が崩れ、
液体のように溶けていく
まるで存在そのものが不確かであるかのように、彼女の視界の中で歪んでいく
「もう戻れませんよ」
ニャルが耳元で囁いた
その声は甘く、慈しむようでいて、どこか悪意めいた嘲笑を含んでいる
私は自分の手を見下ろす
そこにあるのは
もはや手ではなかった
形を持たない影
絶えず蠢き、うごめき、どこかへ溶けていこうとする不定形の何か
指を動かそうとすると、それは螺旋を描きながらほどけ、まるで意思を持った生き物のように揺らめいた
それでも、彼女は恐怖を感じなかった。
恐れるべきものが何なのか、もう分からない。
ただ、ほんの一瞬だけ、何かを喪った
その感覚だけが、微かに胸の奥で燻った
「お美しいですよ、ご主人様」
ニャルが微笑む
その笑みは、どこまでも慈愛に満ち、それでいて異様に歪んでいた
私が静かに頷くと、ニャルの指がそっと頬を撫でた
その瞬間――
私の形が、決定的に変わった
触れられた部分から、
彼女の輪郭は溶け、
ほどけ、
空間に馴染むように崩れ始め、
皮膚という概念が失われ、
繊細な霧のような「存在」へと変化していく
それは、もはや「人」ではなかった
それでも、ニャルは微笑み、囁く
「さあ、まいりましょう」
私はゆっくりと頷いた
ふたりは、闇の向こうへと歩みを進めた。
そこは光の届かぬ場所
影が絡まり、時が凍る、世界の裂け目
名もなき深淵の奥へと消えていく
もはや人の目には映らない「花嫁」として
──そして、世界は何も知らないまま、ただ静かに回り続ける




