第11話「崩壊の夜」
透子は目を閉じると脳内にひしめく混沌とした感覚に飲み込まれそうになった
目を開ければまるですべてが歪み異世界の扉を開けたような錯覚を覚える
何もかもがひとひらの霧の中に沈んでしまったかのようだった
──どこで間違えたのだろう
透子はその問いがどこか遠くから響いてくるように感じた
思い出せない
記憶の断片が水面に浮かぶ泡のように弾け消えていく
◆
部屋が異常だった
目を開けるとフローリングの床はもはや硬くなくまるで水面を踏んでいるかのような感触が足元を包む
ゆっくりと歩くたび床が微かに波打ち薄く湿った感じが靴裏に伝わる
透子は一歩踏み出すごとに周囲の異常さを感じていた
壁がぐにゃりと曲がり天井は今までの常識を超えて遥かに高く見える
家具は歪んでまともな形を保っているように見えない
まるでこの部屋全体が透子の周囲でゆっくりと変容しているかのようだった
──おかしい
ひどく重たい頭を抱えながら透子は思考を巡らせた
しかしそれを解き明かす手がかりがどこにもない
自分が何者で何をしていたのか
全てが霧の中でぼやけていく
記憶が徐々に塗り替えられている
考えれば考えるほど正しいと思える事柄が不確かになり何もかもがぐちゃぐちゃに崩れていく
透子は静かにリビングへ向かう
ドアノブに手をかけそのひんやりとした感触に驚く
自分の手だと思うがそれが自分のものだと確信できない
開けるとそこにはニャルがいた
いつものように美しく完璧なメイドとしてそこに立つニャル
闇に溶けるように黒いメイド服が透子の目に映りしなやかな髪が空気を震わせる
星のように輝く金色の瞳が何もかもを見透かすようにこちらを見つめていた
透子はその美しさに心を奪われひととき何も言えなくなる ニャルは微笑み問いかける
「ご主人様 ご気分はいかがですか」
透子は何かを答えたくて口を開こうとするが声が出ない
思考が追いつかずただその空気に包まれる
喉の奥で引っかかる感覚があり言葉にすることができない
──私は…誰
その瞬間空気がひときわ鋭く震えた
透子はそれがただの震動ではないと感じ取った
世界が崩れていくような感覚が一瞬にして押し寄せる
周囲の景色が波紋のように揺れ溶けていく 何もかもが壊れ消えていく 鏡のない部屋で透子は「自分」を見た
腕が長い 指が細すぎる 皮膚が透け下から何かが蠢いている
──違う──これじゃない
目を逸らそうとするが視線がその姿に絡みつく どこか遠くから呼ばれる声が聞こえる──いや誰かが私を呼んでいる
しかしその声はすぐに遠のいていく 透子はその声が今や誰かの名前であることさえ忘れた
「大丈夫ですよ ご主人様」
ニャルの声が優しく透子の耳を撫でるように響く
透子の異変をまるで祝うように
ニャルの手が冷たく長い指で透子の頬に触れる
触れた瞬間透子の体内に何かが軋んだような感覚が走るがそれもすぐに消え去る
自分が誰で何をしているのかも分からなくなる
──私は──私は
その問いがますます遠くなる中透子の心は変わり果てた世界に飲み込まれていく
そして透子はもう透子ではなくなった




