第10話「名を呼ぶ声」
──倉橋透子
その名を呼ばれるたび、どこか遠くで、だが確かに存在する声が響く
それは、薄闇の中で、忘れ去られた鐘が鳴るような、湿り気を帯びた低い音だった 無遠慮に響き渡るわけでもなく、ただひたすらに、耳元で響き続ける
名を呼ばれるたび、その音は次第に重なり合い、まるで重力に引き寄せられるように、記憶の隙間に沈み込んでいく
──それは、私の名なのだろうか
◆
会社の廊下を歩きながら、透子は無意識に胸ポケットの社員証に手を伸ばした
いつものルーチン、いつも通りの動作 指先でカードの縁を撫でる まるでそれが自分にとって唯一の確かなもののように
目線を下ろし、社員証に記された名前を確認する
──読めない
何度も瞬きをしてみるが、それでも変わらない そこにあるのは、確かに「文字らしきもの」だけ
文字が滲んでいるわけでも、印刷がかすれているわけでもない ただ、それがどう読めばいいのか、何を意味するのか──わからない
心臓が不安定に跳ねる 急に背後から、肩を叩かれた
「倉橋さん?」
振り向くと、そこに立っていたのは同僚のはずだった けれど、
その顔が、識別できない
輪郭はぼやけているわけではない 目も鼻も口も、はっきりとそこに存在している
──なのに、「誰なのか」がわからない
頭の奥に、白いノイズが響く
「……!!」
透子は息を呑んで、足早にその場を離れた 背後で何かを言ったような気がしたが、振り返る気にはなれなかった
◆
帰路につく 沈みかけた夕日が街を照らし、影が異様に長く引き伸ばされる
歩道を行き交う人々が、すれ違うたびにどこか不自然な既視感を感じさせる
──いや、違う
彼らは皆、同じ顔をしている
個々の差異がある 髪型も服装も、表情すらも違う けれど、それを「人間」として認識した瞬間、透子はその差異が単なる反復でしかないことに気づく
まるで、何者かが、ひとつの鋳型から無作為に形を取り出しているかのように すべてが、決まりきった型に従って繰り返されているだけ
喉の奥が乾く 歩を速める 街の景色が異質に感じられる
建物の角がわずかに歪んでいる気がする 標識の文字が、瞬きのたびに変わる 信号の赤が、ひどく艶めかしく光っている
──現実が、ゆっくりと剥がれていく
玄関の扉を開けた瞬間、その異常な感覚は消えた
いつもの部屋、見慣れた家具、整然とした空間が透子を迎える
「おかえりなさいませ、ご主人様」
黒い髪、金色の瞳、完璧なメイド服
そこにいるのは、紛れもなくニャルだった
透子の中に安堵が広がる どんなに世界が歪んでも、ここだけは変わらない
「ただいま」
それだけ言って、靴を脱ぐ 洗面所に向かい、鏡を見る
──違う
そこに映るのは、自分のはずだった
けれど、
──これは、私なのか
髪が、少し暗くなっている
爪が、わずかに鋭くなっている
肌の質感が、どこか冷たく、異質に感じられる
いや、それだけではない
──目が違う
透子は息を呑む
瞳の奥に、「自分」の理性がない
そこにあるのは、底知れない「何か」だった
背後に、また気配を感じる
「大丈夫ですよ、ご主人様」
静かな声 振り向くと、ニャルが微笑んでいた
「何も、心配はいりません」
その声は、穏やかで優しく、それでいてどこか、抗えない響きを帯びていた
透子は震える指先で、もう一度鏡を見た
──そこに映っていたのは、
名を失った「何か」だった




