第1話「影より訪れし者」
深夜の零時を過ぎ 倉橋透子はよろけるようにアパートのドアを開けた
長時間の残業で身体は重く まるで鉛を抱えているようだった 靴を脱ぐのも面倒になり そのままソファに倒れ込むように座り込む 少しだけ目を閉じて 無意識に手を伸ばし スマホを取った
疲れた指でスクロールし SNSを開く
──メイドがいればな……
思わず呟いたその瞬間 スマホから通知音が鳴る
「伺います」
指がぴたりと止まる
──誰?
心当たりはない フォローしていないアカウントだ アイコンには黒い影のようなものが映っており ユーザーネームは意味不明な記号の羅列だった
イタズラか こんな短時間で返信が来るなんて どう考えてもおかしい
薄気味悪さが背筋を走るが 疲れきった身体と心がすぐにそれを流し去る 今更考えるのも面倒になり スマホを放り出して そのまま眠りに落ちた
◆
──コン と硬質な音が響いた
意識が水面から浮かび上がるように 透子はうっすらと目を開ける リビングの照明がついており 空気が妙に澄んでいる 肌にまとわりつく冷たい空気 どこからか かすかな囁き声が聞こえた気がした
──誰か いる?
重い瞼を押し上げると 目の前に一人の女性が立っていた
漆黒のメイド服を纏ったその女性は 静かに微笑んでいる
「初めまして ご主人様」
透子の眠気は一瞬で吹き飛んだ
──誰 どうしてここに
慌てて身を起こそうとしたが その瞬間 思考が凍りつく 目の前の女性が着ているメイド服が どこかおかしかった
黒──だが それはただの黒ではない
光を吸い込むような深い闇の色 その襟元には精緻な刺繍が施されており 最初は装飾かと思ったが よく見ると それが言葉のようにも見える
見てはならない
本能が警告する だが どうしても目を逸らせない 刺繍がゆっくりと変化し 意味不明な文字が透子の脳に流れ込んでくる
視てはならぬ されど お前は視るのだ お前は視てしまうのだ
透子は息を呑んだ 喉から奇妙な音が漏れ 頭がぐらりと揺れる 世界が歪んでいく
──だめだ これ以上 見てはいけない
ようやく視線をそらし 呼吸を整える しかし 悪夢は終わらなかった
そのエプロンは 奇妙に生々しい質感を持っていた 滑らかでしっとりとしながら どこか温かみを帯びている それはまるで──
──皮膚?
透子の胃がひときわ大きく跳ね上がる
「……あ あなたは 誰……?」
必死に絞り出した声に メイドは微笑みを浮かべながら 恭しくスカートの裾を持ち上げ 一礼した
「私はニャルラトホテプ ご主人様のおそばに仕える 忠実な従者でございます」
透子の背筋が一瞬で凍りつく
「ニャル……?」
その名前に どこかで聞いたような 覚えのある気がした しかし 頭の中はぼんやりとした霧に包まれていて 何も思い出せない
「ご安心くださいませ これより ご主人様の望む生活をお支えいたします」
ニャルは微笑んだまま ゆっくりと透子の前に膝をついた その足元 メイド服の裾の奥に 深い影の中で何かが蠢いている
細く ぬめり気を帯びたものが 闇の中からひとたびにゅるりと動く
──触手?
「どうぞ ごゆっくりおくつろぎくださいませ」
その声が 透子の耳に絡みつくように響く
透子は まるで逃げるようにソファに沈み込んだ 心臓が異常なほど速く鳴っている
──何なんだ この女は?
悪夢のような存在が 完璧な微笑みを湛えて そこに立っている
視界が暗転し 透子の意識は 深い水底に沈んでいくように すとんと落ちた




