決死の増援
(……息ができない)
突如、ヴォジャノーイの水に呑み込まれてしまったアステ。当然だが水の中で息をすることはできないため、アステは一瞬焦るが不思議とすぐに落ち着いた。
(……なんだろう、これ)
ヴォジャノーイの水の中はとても不思議な光景だった。見た目の壮大さに反してアステの周囲の水は穏やかに循環しているが、外の状態を確認することができなかった。
まるで深海にでもいるかのような感覚で、アステは体をうまく動かせない。
意識は明瞭。そしてヴォジャノーイの台詞から考えても、アステを害そうとしている訳ではないだろうことが分かる。
しかし、ヴォジャノーイを構成する水の中に呑み込むという行動にどんな意味があるのかはアステには全く分かっていなかった。
(どうすればいいんだろう。ヴォジャノーイは私のためにこうしたんだろうし、抜け出そうとしない方がいいのかな。でも、結構息は続きそうだけど、限度はあるし……)
水の中ということもあり、どこかを掴むこともできない。こうしている間にもカペラはアルフェラッツ達と戦闘している。このまま水の中で揺蕩うことが最良の選択なのだろうかと、アステはアステなりに考える。
(とりあえず、どこかに向かってみようかな)
不思議なことに、外の様子が見えずに水の終わりも見えない。だからこそ、行こうと思えばどこまでも行けそうだなと思ったアステはふと、自身の体が先ほどまでよりも動かせるようになっていることを認識し、適当に泳ぎ始める。
ただただ水。当然魚などの水の中で生きる生き物はいない。また、進んでも特に景色が変わらない。
(ヴォジャノーイ、貴方はなんとか保っている薄い意識の中、私を水の中に招き入れた。何かを私に期待しているの? ここにいれば私に何かが起こるの? せめてヒントくらいあれば……)
アステが思考の迷宮に入りかけている時、何かを感じ取った。
(ヴォジャノーイの水じゃない。微かだけど、ヴォジャノーイ以外の誰かの水を感じる。ヴォジャノーイの中には私しかいないはずだけど……。もしかすると、ヴォジャノーイを縛ってる何者かのもの? だとするとその何者かはアデスのアノーツを……)
そこまで考えた時、アステはとある一つの可能性に行き着いた。
(このアデスのアノーツ……。もしかして……!)
その時、急にアステの周囲の水が激しく動き始めた。先ほどまで穏やかだったために何事かと驚いているアステだが、激しい水の動きに逆らうことができない。
(う、どうなってるの? 今私はどこかへ流されてる? いや、その場でぐるぐる回転しているようにも……)
身体能力が異常なほど高いアステだからこそ、肺活量も凄まじいため息は長く続いているが、当然ながら思考するにも泳ぐにも黙って静かにしている時より多くの酸素を必要とする。アステといえど、そう長くは息が保ちそうになかった。
『余計なことは考えなくていい』
「……!」
するとどこからか声が聞こえてきた。水の中で聞こえる音は聞き取りづらいはずだが、何故かその声はとてもはっきりと聞こえた。
(ヴォジャノーイ!? いや、でも何か……)
一瞬ヴォジャノーイの声かと思ったアステだったが、少しの違和感を感じていた。
『自分や外の状況などは考えるな。体を覆う周囲の水の感覚に集中するんだ』
「……」
違和感の正体を探る術がない今、アステにできるのは声の通りにすることだけだった。
(周囲の水の感覚に集中って、水は水だし……。あ、ヴォジャノーイの水だからただの水じゃなくて、アノーツによって生み出された水か)
アステは声に従い、水の感覚とやらに集中してみる。
(水の動きは依然として激しい。けど、やっぱり私を害そうとしているようには感じられない)
もう残り少ない息のことも一度頭の隅に追いやり、水のことだけを考える。
(私を包み込む水からは確かにアノーツを感じる。そしてこのアノーツには覚えがある……。優しさ、欲望、後悔、慈しみ……、色々な感情を感じる、とても不思議なアノーツ。彼女のはこんな複雑な感情の混じり合ったアノーツではなかったはずだけど、でもやっぱり貴方なんでしょう?)
アステは少しずつではあるが、体に張り付くような周囲の水が入り込んでくるようなむず痒い感覚を覚え始めていた。
体に水が馴染む感覚。水が馴染むなんて、普通は理解し難い表現であるが、アステにはそんな表現が合っていた。
(こんな短時間で馴染むなんて、やっぱり貴方は私と何かしらの関係がある。それも友達とか仲間とか、そういうレベルの話じゃない……)
アステは一度目を閉じる。視覚が遮断されたことでより周囲の水の感覚が鋭くなり、更に体に水が入り込み、一体化していく感覚すら覚えていた。
そんな時、アステは自分を呼ぶ声を聞いた。
『アステ』
ゆっくりと目を開く。そこには相変わらず水しかないはずだった。
しかし、アステの目には確かにとある人物が映っているように見えた。
(まだ別れてから全然時間は経ってないはずなのに、なんだか久しぶりに会った気がするよ)
『アステなら、自由に操れる』
(どういう思惑があるのかは分からないけど……)
『力を引き出し、世界を変えるんだ』
(ありがとう、ディア)
ディアスティマ。突然姿を消し、どこかへ行ってしまった謎多き女性。アステがその目にディアを入れた時から、不思議な感覚を覚えていた。何故か初対面のはずなのにディアを知っているかのような気持ちになり、好意的な印象をすぐさま抱いた。
しかしプラナはアステと真逆の印象を抱いており、ディアのことをかなり怪しんでいた。
実際、ディアと出会った時の状況やその秘めているであろう力、色々と見透かしているような言動などを考えれば普通は怪しい人物だと思うことだろう。
アステもディアが清廉潔白な聖人などとは思っておらず、自然と好印象を抱いてはいるが、隠していることが沢山あるであろうことは分かっている。
ほぼ間違いなく今回の大災害やヴォジャノーイの出現にディアが関わっていると思われる。そんなディアが、アステをヴォジャノーイの中に引き入れ、そして力を与えようとしている。
アステは上手く説明はできないが、自分に語りかけてきている者がディアであると、感覚的に強く確信していた。
(温かい……、けどやっぱりそれだけじゃない……)
アステの目に映るそれは、ゆっくりとアステの鎖骨あたりに触れる。触れられたところからは暖かさだけではない様々な感覚を感じ取れる。
周囲の水がアステの鎖骨あたりに渦を巻くように動き、キラキラと光り始める。
そんな幻想的な光景を目の当たりにしながら、アステはまた目を閉じた。
(それじゃあ行ってくるね)
もう声は聞こえなかったが、それは笑顔とも悲しみの表情とも言えないような、なんとも言えない顔をしているのだろうとアステは思った。
息はいよいよ限界だ。しかし、もうその心配をする必要はないと分かっているアステは特に焦ることもなく、自分に入ってくる感覚に身を委ねた。
**
カペラがフェンガリの三人と戦闘している頃、騎士団の方は非常に慌ただしく動いていた。
災害の規模から考えれば当然だが、まだまだ救助活動が終わる目処は立っていない。そんな中、更に混乱に陥る状況になってしまった。
そう、ヴォジャノーイの出現である。
「おい、あれって……」
「い、いやいや、ありえないだろ!」
「だけど、仮に違うならあれはなんなんだ?」
騎士団員達は明らかに動揺している。あまりにも現実離れした光景であるため、その混乱を責めることはできないと一人思いながら今後のことを必死に考えるのは、カペラに騎士団のことを任された副団長のルデルである。
ルデルは現在、騎士団の建物の中の執務室におり、窓から城の方を見ている。
「ヴォジャノーイ……、いや今はあれが何であるかを考えている場合じゃない。あれを意識しながらも今できることを考え続けなければ……」
今の騎士団の指揮権のトップはルデルになっている。ルデルが声をあげ、指揮をして適切な判断をする必要がある。
「彼らにも救助を手伝ってもらっていますが、あれについての調査をお願いする必要がありそうですね」
ルデルが目線を変え、窓の下の方を見ると、騎士団員に混じっている者達がいた。その者達は騎士団の制服を着ていない。そう、冒険者達である。
(彼らはアノーツが使えたり、豊富な知識や経験を持っている者達ばかり。冒険者の中でも優秀な人物だけを集めました。とはいえ、あれに襲われでもしたら生きて帰るのは難しいかもしれない。そんなところに向かってもらおうとしても、頷く者は少ないでしょう。そもそも今は私の指揮に従ってくれてはいますが、彼らは利益のために従っている。自らの命と天秤にかけることはしない)
ルデルは頭を抱えた。これまでなんとか必死に頭を使って判断を下してきた。それによって助かった者達は沢山いるが、どうしてもこれではダメだとマイナスに考えてしまうのはカペラの存在が大きからである。
カペラに騎士団の行動を任されたルデルは、その期待を確かに感じ取ったからこそ、しっかりと応えたかった。だからこそ、もっと自分にはやるべきこと、やれることがあるとどんどん自分自身を追い詰めていたのだ。
しかしそれは思考を塞ぎ、むしろ悪影響を及ぼすのだが、その状態に一度陥ると案外抜け出すのは難しい。
「これが私ではなく、団長だったら……。きっとこんな情けない姿は見せず、もっと……」
ネガティブな思考はパフォーマンスを下げる一因である。ルデルはそんな状態で部屋の中を歩き回る。
その時だった。
「……!」
ルデルは何かに気づき、窓に駆け寄った。
「これは間違いない。団長……!」
ルデルは城の方から感じるカペラのアノーツに気がついたのだ。だがそれと同時に激しい戦闘が行われていることも察せられた。
「他にも非常に強力なアノーツを感じる。恐らくはフェンガリ……、それ以外の可能性も考えられますが、とにかく今、非常に重大な局面にある」
そう直感したルデルは急いで部屋を出て騎士団員や冒険者達がいる外へ出る。そこはアノーツや瓦礫など様々なものを活用することで洪水の脅威を逃れているため、騎士団の周辺は安全区域としてなんとか保たれている。
(いい加減、シャキッとしなければ。このまま勝手に落ち込んでいていい訳がない)
そこでルデルは一歩を踏み出した。それにより、状況は変わる。
「……!」
カペラは目の前の光景に驚いていた。少し前にアステがヴォジャノーイに飲み込まれ、そんなアステとヴォジャノーイを守るためにアルフェラッツ達をなんとか抑え込もうと必死に戦っていた時、だんだんと近づいてくる複数の実力者の雰囲気を感じ取った。
それは当然アルフェラッツ達も感じ取っており、一瞬戦いが止まった。そして、現れた。
「団長、すみません。この判断が正しいかどうかは分かりません。しかし、こうした方がいいと、直感したのです」
大剣を顕現させ、構えるその姿と目からは確かな覚悟を感じ取れる。更に、その周りにいる数名も同じく覚悟を決めた面持ちだ。
「ルデル……!」
カペラ達のいる城の最上階に現れたのはルデルとルデルが率いてきた数名の冒険者達だった。
「他の騎士団員と状況は?」
「今も冒険者達と協力して救助活動をしてもらっています。また、洪水を防げるようなアノーツを持つ冒険者には残ってもらい、現在も安全区域を広げているところです」
カペラは色々と聞きたいことがあったが、そんな暇はないと判断して冷静に聞くべきことだけを聞いた。こういった予想外の事態が起きてもすぐに冷静になれるところはカペラの優秀さの一つである。
「分かった。詳細を話している時間はないけど、簡潔に話すわ。後ろにいるのが正真正銘のヴォジャノーイで、その中にアステが取り込まれた」
「取り込まれた……!?」
「えぇ。けど、とにかく今私たちがやるべきなのはあいつらを退けること。まずはそれだけ考えて」
「了解……!」
ルデルは難しいことを考えるのをやめ、とにかくフェンガリを何とかすることに集中する。
「マジかよ、これが本物のヴォジャノーイなのか?」
「というか、団長さんが未だ勝てていない時点であいつら相当ヤバいぞ」
「まぁ、冒険者であればこういうとんでもなく危ない状況なんてよくあることだ」
冒険者達は少し怖気付いているところもあるが、実力者であることは確かであり、それ故の自信がある。それに、冒険者は危険と隣り合わせの仕事であり、突然自分よりも遥かに強敵の生物に襲われることもある。そのため、こういう出来事は特段珍しいことでもないのだ。
「……なるほど。まぁ、これだけアノーツを使ってりゃこうなるのも当然だわな」
ため息をつきながらアルフェラッツが喋り始めた。
「良い増援だとか思っているかもしれないが……、カペラと比べればお前達はいてもいなくても大して変わらない実力だろう? 見れば分かる」
「っ……」
アルフェラッツはルデル達がカペラと比較してしまうと大した実力ではないことを一瞬で見抜いた。
間違いなく実力はある者達なのだが、アルフェラッツとカペラの実力が飛び抜けすぎているせいである。
「これじゃあ俺たちの優位は変わらん」
アルフェラッツはアノーツを威圧の意味を込めて放つ。ルデルや冒険者達は明らかにそのアノーツに圧倒されそうになってしまっているが、カペラは微動だにしない。
「ほらな。これが実力の差だ」
するとカペラが一歩前に出て、アルフェラッツに大して不敵な笑みを浮かべる。
「アルフェラッツ、貴方は歳を取ってどんどん実力を上げ、経験を積んだことで逆に見失っていることがあるんじゃない?」
「何?」
「強くなると、だんだんと見えなくなってくるものがある。周りの人たちが弱く見えて、見下すようになったり無関心になったりする。そういう人を実際に見たことがある」
「……」
「でもね、そういう奴ほど足を掬われるのは一瞬で、なかなかその事実に気づけないのよ」
「……つまり?」
「舐めんな」
その瞬間、カペラはアルフェラッツと同等のアノーツを放って威圧する。また、カペラの言葉を聞き、ルデル達の士気が完全に良い方向に変わった。
「全力で行きます」
ルデル達の強い目から漲る闘志が感じ取れ、アルフェラッツは自信喪失させることに失敗したことを自覚した。
「さぁ、行くわよ」
そして再度、フェンガリとの戦闘が始まる。




