第64話:神の影
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魔術、法術、呪術──これら諸々は突き詰めれば一つの目的を達するための話術に過ぎない。
目的とはすなわち、願いである。
天に向かって叫ぶか、地に跪いて乞うか、あるいは理の隙間を突いて言いくるめるか。術式とはすなわち修辞であり、魔力とは声量であり、儀式とは対話の場を整える礼法に他ならない。
レダがしている事はすなわちこれなのだが──では誰に向けてそれをしているのか。
無論、『神』である。
それは人が神と呼ぶ、囁く者どもとはまた別種の化け物に他ならない。
カナン学派の徒たちが遺した記録によれば、この『神』なる存在に対する考察は概ね三つに大別される。
第一に法則説。神とは人格を持った超越者などではなく、世界の歪みや理そのものが残滓として凝固した現象に過ぎないとする論だ。術者が奇跡を乞うのは天候に雨を乞うのと同義であり、祈りとは世界という巨大な自動機械に特定の誤作動を引き起こさせるための符号に他ならない。
第二に集合幻覚説。数多の人々が紡いできた恐怖、祈り、願いといった濃密な情動が澱のように沈殿し、後天的に意思を宿した概念の怪物であるとする論だ。人が神を作ったのであり、法術とは己が拵えた虚像の影に怯えながら、その巨大な腕を借り受ける自傷の所行であるとその学徒は唱え、後に異端として火刑に処された。
第三にもっとも忌み嫌われ、同時に魔導の深淵に触れた者たちが囁く異邦の主説である。神とは人とは知覚の次元を異にする原初の捕食者、あるいは星の外部より漂着した異質なる知性であるとする論だ。彼らにとって人の信仰とは蟻が撒き散らすフェロモン程度の刺激に過ぎず、神罰も奇跡も、彼らが微睡みの中で身じろぎした際に零れ落ちる余波でしかない。
諸説ある上、どれもこれもが胡乱な説ではあるが、神の正体がいかなるものであれ、碩学たちの見解が一致する結論はただ一つであった。
──神とは人の心など持ち合わせていない絶対の他者である。
かの者に善悪などという人間基準の尺度は当てはまらない。触れれば矮小な人の精神など容易く圧殺し、狂気へと磨り潰す巨大な機構でしかないゆえに。
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嗚呼──とレダは嘆いた。
命が心が魂が枯れ果てていく。
レダが結んだのは純然たる商談であった。 相手は絶対の他者にして、無慈悲な世界の機構たる『神』。
祈りなどという美名で糊塗されたそれは実のところ自他を天秤に載せた狂気の売買に他ならない。
奇跡を買い取るための対価は生き残った者たちの存在すべて。肉体のみならず、魂の輪郭、これまで積み重ねてきた記憶、死後に巡るはずの輪廻の権利に至るまで──この場にある一切合切の命を一粒も余さず薪として炉にくべる。その代償として購うのはただ一つ──あの悍ましき悪食の魔、ジャーヒルを絶対的に粉砕するだけの純粋なる破滅の行使権である。
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「ぐ、あ──ハ、ははッ!」
最初に崩れたのはケージだった。青白い燐光が内側から皮膚を突き破り、ピシピシと音を立てて全身の表皮が焼け焦げた羊皮紙のように剥がれ落ちていく。血管は沸騰して干上がり、肉は見る見るうちに萎縮して骨にへばりついた。眼球がジュクジュクと溶け崩れ、硝子のように脆くなった肋骨が内から爆ぜる。余人であれば発狂して地を転がるはずの激痛──だが、痩せ衰えた顎をガタガタと震わせながら、ケージは爛々とした光を宿した双眸で笑っていた。
「おいおい……すげえな、こりゃあ。骨の髄まで綺麗サッパリ毟り取ってきやがる。だがよ、悪かねえ! 俺のくだらねえチンケな人生の残額、全部ブチ込んで大博打だ──頼んだぜ、聖女の姉ちゃん! 特大の配当をあの蛇野郎の面に見せつけてやんな!」
指先からボロボロと灰になり、風に拐われるようにしてケージの存在は霧散した。底抜けに晴れやかな笑みを置き去りにして。
「主よ、我が命を礎として捧げ奉る──」
聖騎士たちもまた、平然と神の胃袋へと沈んでいく。
鎧の隙間から肉が液状化して滴り落ち、血液が金色の蒸気となって立ち昇る。己の肉体が削ぎ落とされ、魂が吸い上げられていく中、彼らは互いに顔を見合わせ、微笑みすら浮かべていた。
「聖女様、感謝を」
「斯様な無残な死地にて、神の御業の切っ先となれる誉れ。騎士としてこれ以上の幕引きはありませぬ」
「どうか──かの魔に裁きを」
朗らかな声と共に彼らの肉体は塩の柱のように白く結晶化し、さらさらと崩れて床に散った。苦悶の色など欠片もない。ただ己の信仰が最も確かな形で世界に刻まれることへの至福に満たされていた。
そして。
「まいったねぇ……。身ぐるみ剥がれるどころか、魂の垢まで綺麗に持っていかれるとは」
ザンクードが乾いた笑い声を漏らす。彼の皮膚はすでに生気を失って青黒く干からび、唇は裂け、腕の筋繊維は一本ずつ解けるように虚空へと吸い込まれていた。内臓が光の粒子となって口から溢れ出しているというのに男の佇まいは酒場で茶飲み話をしている時と何一つ変わらない。
「ザンクード殿……」
「湿っぽいツラすんじゃないよ。あんなデカい蛆虫の腹の中で腐るよりはよっぽど洒落た死に様だ。……おいしいところは譲ってやるよ、お嬢さん。俺たちの命で作ったそのデカい刃、派手にぶち込んでやりな」
ひらひらと振られた手が手首から先へと崩れ去る。満足げな薄笑いを残し、ザンクードという探索者の輪郭は完全に迷宮の闇へと溶けて消えた。
悲壮感などこの場には微塵もなかった。あるのは全てを賭し、全てを投げ打ち、ただ一撃に己が全存在を託して逝った者たちの、狂気じみたまでの清々しさのみである。
かくして集った命のすべてが純粋な『破滅の祈り』という名の濁流となってレダの両の掌へと収斂していく。
そして──残る薪一つもまた。
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闘技場の中心で巨躯が揺らいでいた。
白い長虫の群れは飢えた蝗の如くグロッケンの肉を貪り続けている。皮膚を食い破り、筋繊維を千切り、骨の髄へと嘴を突き立てていく。全身から吹き出すのは赤き血潮ではなく、ドロドロとした黒い腐汁。獣の膂力を支えていた鉄肉は見る影もなく削ぎ落とされ、誇り高き剛毛は粘液に塗れて抜け落ちていく。
『ヨく、耐エまシたね』
『モうイいノですよ。ワたしの中で永遠に眠りなサい』
甘ったるい腐臭を帯びた声が脳髄の奥深くまで浸食してくる。思考が泥濘に足を取られるように鈍り、視界が昏い闇に覆われていく。このまま身を委ねてしまえば、どれほど楽だろうか。かつて路地裏の泥水の中で震えていたあの頃のようにただ丸まり、消え去ってしまえば──。
──ふざけるな、と。
濁りかけたグロッケンの双眸の奥、燻っていた残り火が爆ぜた。
「……誰が貴様なんぞの……糞袋に収まるものかよ……ッ!」
若造どもに先に逝かれて、ギルドマスターがノコノコと化け物の腹に収まってたまるかという憤怒がまだこの男を二本の脚で立たせている。
豚鬼族と罵られ、石を投げられ、それでも己の剛腕一本で切り拓いてきた我が半生。守るべき街があり、帰るべき場所があり、何より己にはサー・イェリコ・グロッケンという確固たる矜持がある。魔の家畜として喰い散らかされるなど、断じてあってはならない。
「──神とやら!!! いるか!! 聞いているのか!!」
喉を食い破られ、血泡を吹きながらもグロッケンは咆哮した。
「くれてやる! 儂の肉も骨も豚鬼としてのこの魂魄も──余さず全部、持って行けッ!!」
瞬間、グロッケンに群がっていた幾万の長虫が一斉に甲高い悲鳴を上げた。青白い燐光がグロッケンの体内から噴き出したのだ。貪り食っていた肉がジャーヒルの糧となることを拒絶し、瞬時にして『神の薪』へと変質を遂げる。
『ギ、ギャアアアッ!?』
『熱イ、冷たイ、ナにを──ッ!?』
貪り喰らっていたはずの長虫どもが逆にグロッケンという供物を通じて神の炉へと引きずり込まれ、ボロボロと消し炭のように崩れていく。
グロッケンの巨躯が内側から弾け飛ぶように崩壊を始めた。
だがその歪んだ豚頭に苦痛の色はない。牙を剥き出しにし、歴戦の冒険者としてのタフな笑みを浮かべている。足が結晶化して砕け、剛腕が光の灰となって天へと昇る。己という個の輪郭が世界という巨大な機構の歯車に噛み潰され、磨り潰されていく。それでも最後までグロッケンの瞳はジャーヒルの貌を見据えていた。
「ぐふ、ふふ、これまで随分好き勝手してくれた……ツケを払う時間だ」
そう言って、巨大な質量を誇った豚鬼の肉体はただの一片の塵も残さず、純然たる対価としてするりと虚空へと吸い上げられ、消えた。
そうして闘技場に散ったすべての命を喰らい尽くした結果──レダの両掌の上には今や、星を穿つが如き白銀の、絶対的破滅のエネルギーが凝縮されていた。
これを以て何をするのか。
叩きつけるのか──否だ。
投げつけるのか──否である。
これを供物として、喚ぶのだ──神を。
正確には、神の影を。
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む、と君は不意に身構えた。大きな気配を感じたのだ。気配は一瞬で世界を覆い、圧倒的な存在感を放射しているではないか。
これは「外側」にある者の影。
君たちとは異なる存在。
§
気をつけろ!
決して遭遇してはならない!
§
君の本能がそう警鐘を鳴らす──が、直ちに影響があるわけでもなさそうだし、こちらに向かってくるわけでもなさそうということで、君はキャリエルらを促して先を急ぐのだった。




