8 切符
「君は?」
「水樹一弥といいます」
男は一弥の名前を聞くと、一瞬驚いた顔をした後、顎を触りながらまじまじと一弥の姿を観察した。
「君が、一弥君か」
「僕のことをご存知なんですか?」
「美桜から聞いているよ」
「そう……ですか」
一弥は緊張の糸が切れたように、ベンチに座り込んだ。美桜は実在していた。それがわかって、一弥は安堵していた。
「大丈夫かい?」男が心配して、一弥に声をかける。
「声をかけておいて失礼ですけど、人違いだったらどうしようかと思っていたので」
「ハハハ、君も、随分と思い切ったね」
男は一弥の横に座った。
「美桜の父親の道春です」穏やかな口調で、道春は挨拶をした。
「すみません、手ぶらで来てしまいました」
「気にしなくていいよ。ここの事は美桜から聞いたの?」
道春に聞かれて、一弥は答えるのを少しためらう。
「ええと、交番で教えてもらいました」
「ああ、あのお巡りさんね」道春は苦笑した。
「勝手なことをしてすみません」
「いや、それはいいんだけど……」
道春は少し声のトーンを落として一弥に顔を近づけた。
「美桜から聞いたけど、一弥君は『夢の中』で美桜と会ったとか」
一弥はどう話したらいいのか迷った。
「あの子に不思議な力があるのは知ってるんだよ。ずっと昔のことを、昨日のことのように細かく話したりね。何でそんな事がわかるのか聞いたら、自分の世界でみてきたんだって言うんだよ」
美桜の世界とは、彼女の優れた記憶の産物だと、一弥は思っていた。もしかすると、その記憶が『世界』として夢の中に留まり続けているのかも知れない。
「僕たちが会ったのは、灯篭祭の世界です。幼い美桜さんが家族三人でいる所も見かけました」
道春は寂しげな目をして、小さく何度もうなずいた。
「美桜は病院から出たことがほとんどなくてね。灯篭祭には絶対行くんだって、楽しみにしていたんだ」
一弥は、桜舞島の話を最初にしたときに、美桜の表情が変わったことを思い出していた。
「僕の話、信じてもらえますか?」
「最初から信じているよ。一弥君は女の子みたいに綺麗な顔をしているって、美桜から聞いていたしね」そう言って、道春は笑った。
「あの……美桜さんの病気、良くないんですか」
道春は少し考えてから、口を開いた。
「今すぐどうなる、という訳じゃないんだ。ただ、生まれつきの疾患を持っていて、小さい頃に肝臓の移植をしてね。それがまだ完全には馴染んでいないらしい」
一弥は、美桜が隠していた事を、暴くような真似をしてしまっているのではないかと考えて、胸が傷んだ。
「……僕はここに来てよかったんでしょうか」
「もちろんだよ。美桜は君と会えるようになったって、凄く喜んでいたんだよ。……あの子、ちょっと、引っ込み思案でね。最近は僕とでさえ、あまり口を利かなかったのに」
一弥は迷っていた。このまま会うことで、美桜の心を踏みにじることにならないか。
「せっかく来てくれたんだ。僕としては、是非会って欲しいな。あの子を訪ねてくる同年代の子は、ほとんどいないし、心配なんだ」
一弥は決心し切れないまま、うなずいていた。
美桜のいる病棟と、外部の人間が出入りできる区画は仕切られており、カメラで出入りを監視されていた。一弥は、二つの区画を結ぶフロアのベンチに座って、道春が美桜を連れてくるのを待っていた。どんな顔をして会えばいいのか、一弥は思い悩んだ。美桜は歓迎してくれるのだろうか。押しかける形でここに来てしまったが、本当に良かったのか。
そんなことを考えていると、区画を分ける自動ドアが空いて、道春が車椅子を押して戻ってきた。車椅子に乗っている少女は、紛れもない、美桜だ。車椅子で運ばれる間、美桜はずっとうつむいたままだった。
「待たせたね。ほら美桜、何とか言いなさい」
美桜は道春に促されて、上目遣いに一弥を見た。
「ごめん、勝手に来てしまって。嫌だったかな」
一弥が言うと、美桜は顔を上げて首を横に振った。
「飲み物を買ってこよう。少し待っててくれるかな」
そう言って、道春は自販機のあるフロアへ向かった。二人きりになった途端に、沈黙が訪れる。
「もしかして、怒ってたりする?」
一弥が聞くと、即座に美桜が首を振って否定する。その目は少し悲しげで、何かを訴えているようでもあった。一弥は、美桜の瞳を見ているうちに、その心の内に秘めている叫びを聞いた気がした。この子は、本当は話したいことがたくさんあって、我慢している。そう思ったとき、一弥の中の迷いがすっと消えた。
「……夢の世界について、考えた事があるんだ。聞いてくれる?」
一弥が尋ねると、美桜はゆっくりうなずいた。
「今まで色んな人の夢をみてきたけど、電車とかに例えると、窓の外の風景みたいに、勝手に流れていく感じだったんだよね」
美桜がじっと聞きているのを確認して、一弥は続けた。
「でも、美桜の世界は、はっきりと行き先がわかってるでしょ。自分で切符を買っていく場所なんだ。乗る電車さえわかれば、意識的にそこに行けるんじゃないかと思うんだ」
「……わたしの世界へ行く電車?」美桜がか細い声で聞いた。
「そう。そういうのがあったら、いつでも行けるだろ?」
美桜は何度も瞬きしながら、一弥を見つめた。
「この前、美桜の世界に入ったときは、約束してたこともあったし、美桜の世界の事を無意識の内に考えていたんじゃないかな。つまり、あの時は僕は切符を持ってたんだよ。……どう思う? この説」
一弥はニコッと笑ってみせた。美桜ははにかんで、頬を赤らめた。
「美桜は世界を創る側だから、自由に行き来するには、僕がどうやって切符を買うかって事にはなるんだけど」
一弥がそこまで言うと、美桜がポケットから二本のミサンガを取り出して、一方を一弥に差し出した。
「……これ、切符にならないかな」
一弥がミサンガを受け取ると、美桜は右腕に自分の分を付けて見せた。
「……いいかも」
一弥は美桜と同じように、右腕にミサンガを付けると、美桜の腕に重ねた。美桜が嬉しそうに一弥を見る。その笑顔を見て、一弥は今日ここに来て良かったと、心から思った。