2 花霞の少女
夢の中での自分は、意識があるだけの傍観者ではなかったか。一弥は、頭から足先まで一通り触って、自分の体が確かにそこにあることを確認した。
唐突に自分の体をまさぐっている姿は、傍から見れば滑稽だったのだろう。その様子を見ていた少女がふっと笑った。正確に言うと、笑ったように一弥には見えた。すぐに元の無表情な顔に戻っていたからだ。しかし、彼女が一瞬見せた笑顔は、さっきまでの無機質な印象とは違い、人間らしさが宿っていた。
「もっと笑ったらいいのに」一弥が言うと、少し彼女の視線が泳いだ。
「ここって、君の夢?」彼女は少し間を置いて、ゆっくりと唇を動かした。
「ゆめ?」やっと聞き取れるぐらいの、か細い声だった。見た目は十歳前後ぐらいなのだが、向き合う形で立つと、彼女の頭が一弥の胸ほどしかない。背丈だけで言えば、鈴華やあかりと、そう変わらない。
「君いくつ? 名前は?」
一弥が聞いても、彼女は何かを探すように瞳を小刻みに動かすだけで、答えない。一弥はため息をついて、周囲の様子を観察した。彼女に気を取られて気づかなかったが、並木道の向こうから、風に乗って微かに笛と太鼓の音が聞こえてきていた。
「向こうで何かやってる。行ってみようよ」
一弥は、少し強引に彼女の手を引いて石畳の上を歩き始めた。彼女は無表情のままついてきていたが、笛の音が近づいてくるにつれ、次第に彼女の足取りが重くなり、そのうち立ち止まってしまった。
「どうかした?」一弥が屈んで顔を覗き込むと、彼女は並木道の向こうを見つめながらつぶやいた。
「……向こうにはお父さんたちがいるの」
ゆっくりとした口調で彼女は言った。
「お父さんたちって、君の?」
一弥が聞くと、彼女は小さくうなずいた。
「わたしは、行かない」
そう言って、彼女は来た道を引き返していく。
「待って」一弥は引き留めようとしたが、彼女の姿は花霞に溶け込むように見えなくなっていた。
仕方なく、一弥は笛の音の聞こえる方へ歩き出した。桜の並木道は、どこまでも終わりなく続いているように思えた。しばらく歩くと、桜の木が周りを取り囲む広場にたどり着いた。中央に櫓が組まれ、その上では桜の花びらの意匠を凝らした装束を着た男たちが、笛や太鼓を演奏している。桜の木の円に沿うように、様々な出店が並んでいて、多くの人で賑わっていた。
一弥は広場の人だかりを注意深く観察し、一組の家族に目を留めた。三十代ぐらいの男性が、女の子を肩車して笑っている。今より少し幼いが、先程の少女に間違いない。そのそばには、髪の長い女性が寄り添っている。一際目を引く美人で、どことなく少女に似た雰囲気がある。少女とその両親であることはすぐにわかった。
一弥は彼女たちのもとへ歩いて行った。広場は人でごった返していたが、誰も一弥を気にする様子はない。一弥と体が触れても、空気のようにすり抜けて行く。彼女の父親たちもまた同様で、一弥が目の前に現れても、気づくことはなさそうだった。
「ミオ、次は金魚すくい、やるか?」
「やるやる!」
女の子が嬉しそうにはしゃぐ声が響く。その笑顔は、先ほどの少女が一弥に見せたものと同じだった。
これは彼女の夢の中なのだろうか。一弥は並木道を戻りながら考えた。少なくとも、自分が見てきた夢は、誰かが作り出した、誰かの夢だった。この夢の持ち主が彼女だったとしても不思議はない。しかし、彼女自身がここにいて、一弥と話すことも出来るとなると、話は別だ。一弥はこの不可思議な状況も気になったが、彼女自身の境遇が気になっていた。
少女は最初に会った場所で、花びらを零す桜の木を見上げていた。
「ミオって君の名前?」
一弥が声をかけると、少女は少し驚いた様子で振り返った。一弥はそれを見て取ると、少女の隣に立ち、同じように桜を見上げた。
「僕は一弥。水樹一弥」
しばらくの沈黙の後、彼女が口を開いた。
「……ミオはわたしの名前。美しい桜って書くの」
「いい名前だね」
美桜は一度桜に視線を戻したが、何か言いたげに、一弥の横顔を盗み見ていた。
「どうかした?」視線の端にそれを捉えていた一弥が聞くと、美桜は小さい声で答えた。
「女の人だと思ってたから」
「ああ、よく言われるよ」
一弥は頭をかいて照れ笑いをした。生来の色の白さと中性的な顔立ちは、一弥にとってはコンプレックスなのだが、彼女に言われると、なぜか嫌な気がしない。
その時、体の奥に響くような大きな音が鳴った。それを合図に、並木道を多くの人が通り過ぎていく。
「何か始まるの?」
「灯篭流しの花火」
美桜が人の流れに乗って歩き出したので、一弥もそれに続く。人の波の到着地点は土手になっていて、石段が設けられていた。土手に上がると、眼下に大きな川が横たわっており、水面に大小様々な形の灯篭が浮かべられていた。側面に貼られた和紙から漏れる灯りが、ぼんやりと水面に映って揺らいでいる。夜空には、海へと旅立つ灯篭たちへのはなむけのように、無数の花火が打ちあがる。一弥はその幻想的な光景を見つめながら、流れ行く灯篭の明かりに寂寥感を覚えていた。
どのくらいか時が過ぎ、灯篭の灯りが遠方にかすみ始めた頃、一際大きな音と共に、天上のキャンパスに桜色の大輪が花開いた。刹那の輝きの後、夜空の星屑となって消えていく。その様子を見守った人々は、それぞれ、ゆっくりと帰路についていく。
「終わったね」一弥は、隣の美桜に声をかけようとして、思いとどまった。彼女の右の瞳から、涙が一筋流れていた。美桜は天を仰いで目を閉じ、肩を揺すっていた。感情が溢れて抑えられない、そんな印象を一弥は受けた。かける言葉が見つからず、一弥はただ見守るしかなかった。
夜風が肌寒く感じ始めるころ、美桜はようやく落ち着いた様子で、遥か遠くの灯籠の灯りを見つめていた。
「大丈夫?」一弥が聞くと、美桜は静かにうなずいた。
「あなたはどうしてここにいるの?」
美桜の問いに、一弥は言葉に詰まった。なぜ自分が他人の夢をみるのか、今まで何度も考えた事だが、明確な答えは出ていない。
「何でだろうね」一弥は自重気味に笑って言った。
「ここはわたしだけの世界だと思ってた」
「君の世界か」
一弥は周りの景色を改めて見渡した。川辺りに連なる提灯に照らされた桜が、水面にも自らを映して輝いている。これ程美しい『夢』を見たことはないと、一弥は思った。
「……また、来てくれる?」
美桜は、少し首を傾げるようにして、一弥に聞いた。同じ夢には一度しか訪れることは出来ない。能動的にみる夢を選んでいたわけではないが、一弥はそういうルールだと思っていた。それでも、もう一度ここに来たい。美桜に逢いたい。願いを込めて、右手の小指を差し出した。
「約束」
美桜は嬉しそうに微笑むと、その指先に自分の小指を重ねた。二人の小指の先に淡い桜色の光の粒がはじけ、その瞬間彼女の姿は見えなくなった。