火曜日・前編
黒次郎がいつでも帰ってこれるようにと、昨晩は玄関のドアにスポーツシューズを挟みこみ、鍵は開けっ放しで眠った。
しかし、翌朝になっても黒次郎は戻ってきた様子はなかった。
とにかく、もう出勤の時間だ。
今日は、ここしばらく悩まされていた『靴の裏返し』がされていなかった。
ようやく収まってくれたか……。
黒次郎が戻ってきたら食べれる様に、玄関の外に黒次郎のご飯皿と飲み水の皿を出しておく。
ゴミ捨て場の僕の捨てたテレビはまた無くなっていた。
どうやら新しい持ち主に出会えたらしい。
今日は仕事で信じられないくらいミスを重ねてしまった。
うーん、最近良く寝れてないからだろうか。
上司にかなりお叱りを受けた。
優しい同僚は心配してくれたけど。
今日はいつもの電車にわざと乗り遅れることにした。
この次が最終電車でかなり遅めに来るので、乗るのは避けていたのだが、流石に参っていた。
ぼうっとホームに立って最終電車を待っている。
スマホで時間を確認すると、23時21分。
今頃は浅見無駅について、ドアが開いて――。
――えっ?
不意に、塩素臭を嗅いだ気がした。
トントントン――細い女性の指で肩をつつかれた感触がしたので振り返った僕は、あっ、となった。
そこにはあの女子高生の彼女が僕の事を見て、微笑みを浮かべていたのだった。
一番見つかりたくない相手に見つかってしまった――。
彼女は僕の手首辺りを強い力でしっかり握ってきた。
絶対に逃がさないということなのだろうか。
僕はこの世の者でないと思われる存在に対して、果たして言い訳すべきなのだろうかと悩み始めていたその時、最終電車がホームにやって来た。
ポポン♪
「――間もなく次の電車がホームに参ります。危ないですから白線の内側に下がってお待ち下さい」
信じられない事に、電車が僕の目の前に差し掛かろうとしたその時、彼女は僕の手を握っていた手をパッと離し、白線を超え、さらに電車の方に身を投げ出した――――
一瞬の事だった。
ベシャッというトマトが潰れた様な音がした。
それ以外の音が消えた。
僕の顔やシャツに彼女の血と肉片が飛び散った。
僕の目の前で彼女はスローモーションでペシャンコになり潰れながら視界から消えていった。
――――音が戻って来る。
ファ――――――――ン!! ヒヒューイ゛イ゛ィ――――
辺りには電車の警笛音とブレーキ音が響き渡っていた。
若い女性の悲鳴が上がる。
サラリーマンの男が非常ベルのボタンを押して、途端にうるさいベルがホームに鳴り響く。
――彼女が電車に飛び込んだ場面はどうやら僕以外の人間にも見えていた様だ。
そんな事を僕が呆然としながら考えていた時だった。
少し先の天井近くの上空から、くるくると回転しながら飛んで来るラグビーボール大の黒い物体があった。
僕は瞬時に察した。
アレを落としたら真面目に、文字通り呪い殺されてしまうかもしれない。
ある意味僕はツイてる。
僕は大学時代の体育でラグビーを選択していたのだった。
しかし、人の頭の重さというのは4、5kgの重さはあると前にテレビで見たことを思い出した。
彼女は小顔だから10ポンドのボウリングの球くらいだろうか。
かなり破損しているからもう少し軽いだろうか。
僕は絶対に落とせないと気合いを入れた。
必死に落とさない様にと構えた。
ドシャンっ
――胸と腕全体で受け止め、衝撃を逃がすためにわざと地面に倒れ込み回転する。
受け止めた瞬間に何とも言えないヌルプニュグシャサラとした感触とドシャグシャッベチャッという音が同時にした気がした。
――何とか無事に落とさず受け止めれた様だ。
僕が再び立ち上がった時には、僕は埃と肉片と血飛沫まみれになっていた。
生の血と肉とはみ出た脳ミソの感触が僕の両腕にグチョグチョヒタヒタとダイレクトに伝わってくる。
僕の腕の中で、破損が激しい生首が僕に微かに微笑みながら何かを伝えようとしていた。
――声が出せないのか? 彼女の口パクを読み取ると……
『ナイスキャッチ』
と言ってる様だ。
少し可愛いと思いつつ、また、そんな可愛げあったの? と驚きつつも、僕はリアルな生の血と肉と脳ミソの触感に……
かなり破損状態が厳しい彼女の生首を胸に抱いて――ここ暫くオフに出来ていた恐怖を感じるスイッチがオンに入ってしまった様で、意識がフッと遠のいてしまったのだった……。