水曜日・イ血
気がついたら朝になっていた。
黒次郎の為に少し開けていた玄関から朝日が部屋の中に差し込んでいた。
玄関のドアを少し開けているのにも関わらず、エアコンが激冷えになっていたので、エアコンの電源をオフにする。
何遍クーラーをオフにしても、暫くすると ピッ と電源がオンにされてしまったのだ。
そんな中で目覚めたので、とても体調が悪い気がする。
頭がガンガンして、吐き気もする……。
しかも、昨夜は電子レンジや洗濯機、その他がうるさかった所為で、ほとんど眠れなった。
――最後に子供の声で話し掛けられた気がするけどその後の記憶がないのは、僕が気を失ったという事だろうか?
そして、黒次郎は帰ってきていない様だ……。
「おはよう」という相手がいないのはとても寂しい事だと思い知らされる。
――黒次郎、お前どこ行ったんだよぅ。
今日も昨日と同じく、玄関の靴は今朝も裏返しになってなかった。
これだけが唯一の素晴らしい出来事。
普通が幸せな事に改めて気付かされました。
――さあ、体調最悪ですが、出社しますか。
今日はふらつきながらの出社だった為、少々遅刻してしまった。
職場では同僚にかなり体調を心配された。
そして、「顔色がとても悪いから帰れ」と糞上司にまで珍しく心配されてしまった。
職場に備えてある体温計で検温すると、微熱程度だったが、それでも帰れと言ってもらえた。
今日だけは糞上司が仏様に見えた。
ありがたく今日だけは定時退社させていただきます。
平日にこんな早い時間に帰れるなんて、一体いつぶりだろうか。
良かった、早く帰宅出来る事になって。
そういえば、僕は早く帰って黒次郎を探さなくてはならないのだ。
――無事に帰宅できればだけど。
無駄な抵抗かもしれないが、自分からはもう二度と女性専用車両には乗ったりしないでおこうと思った。
ぜひ『任意協力』させていただきたいと思います。
大変申し訳ありませんでした。
もう、二度と女性専用車両には乗りませんので、許してください――。
――電車がホームに入ってくる。
時計を見ると18時20分だった。
この時間でもう結構混んでいるんだな……。
ガタッ ダン
ガタッ ダン
キー キー
ガタッ ダン
ガタッ ダン
キー キー
女性専用車両の方は少し空いているが、僕は一般車両の方に乗車する。
これが普通なんだと自分に言い聞かせた。
もう手遅れかもしれないけど、万が一助かったら、これからは毎日一般車両に乗るんだ……。
電車に揺られながら、ここ最近の自分の身に起きた出来事を色々思い返していた。
僕はなんでこんな目に会っているのだろう。
もしかして、僕は何かの引き金を引いてしまって、その結果悪いモノに呪われてしまったのではないか。
特に昨日はひどい目に会った……。
そうだ、お祓いとかしてもらった方がいいかもしれない。
しかし、僕はなぜ呪われてしまったのか……。
それには、心当たりがあった。
『女性専用車両』
コレじゃないだろうか。
そして、あの時間の女性専用車両に乗っている男性の乗客は、僕を残して全員が連れてかれてしまった……。
どういう理由かはまったく分からないが、女性専用車両に男が乗ることが、あの女子高生――痴漢を苦にして電車に飛び込み自殺した渋谷真莉子かもしれない――の気に障った説。
でも、女性専用車両と痴漢というのが、どうも結び付かない。
ふと、またこういう事もあるかもしれないと、僕はある可能性を思い付いた。
『女性専用車両に男が乗ったから呪われたのではない。
男が乗ったら呪われる車両だから女性専用車両にしたのだ。』
僕はそのヘンテコな思い付きには自分自身、さすがにコレは無いか、と思った――。
ガタッ ダン
ガタッ ダン
キー キー
ガタッ ダン
ガタッ ダン
キー キー
そんな事をぐるぐると考えていると、
ヒューヒューゥヴゥゥウヴヴゥルルル――
浅見無駅が近づいてくる。
「次は浅見無駅、浅見無駅に止まります――」
プシャーッ
左のドアが開く。
めちゃくちゃ人が乗ってきた。
ほとんど満員になった。
彼女は乗ってこなかった。
僕は思わず胸を撫で下ろす……と。
うんっ?
そういえば、さっきからずっと目の前にある、後ろ姿の女子高生の旋毛には見覚えがある気がしてきた……。
ガタッ ダン!
ガタッ ダン!
キー キー
ガタッ ダン!
ガタッ ダン!
キー キー
目の前の女子高生がこちらを振り向く気配があった。
――ああっ。
やっぱり彼女だった。
さっきまで気付かなかったが、彼女はプールから上がったばかりのように、まだ髪が濡れている。
――ここは女性専用車両じゃないのに現れた……。これからまた、女性専用車両に移動させられてしまうのだろうか……。
彼女は満員電車の人の圧力に押されるままに、僕に体を密着させてきた。
僕の目の前には髪の毛が艶やかに濡れているセーラー服姿の美少女が、妖しい微笑みを浮かべている。
満員電車の中、僕は彼女とほとんど密着してしまっていた。
さっきまで無かった筈の濃いプールの塩素臭が鼻を突く。
今日の彼女のセーラー服は水を吸っており、肌が密着して、瑞々しい肌が透けて見え、僕に触れ触れと誘っているようだ。
そして、スカートからは恐ろしい老婆の顔をした黒い塊が此方を覗いて舌舐めずりしながら待ち構えているのも見える。
そもそも、どうして僕は助かったのか。
僕と同じ様に痴漢しなかった『研究助手氏』は連れていかれてしまった。
僕は痴漢しなかったから連れていかれなかった訳では無かったのだ。
痴漢をしてしらばっくれた『小太りオタク氏』。
痴漢をして正直に答えた『バーコード氏』。
痴漢をしなかった『研究助手氏』。
結局、何をしても連れていかれるのではないか。
――僕を「残念だ」と言って連れていかなかったのには、全然別の理由があったのだろうか。
例えば、僕が何かに守られていて手を出せなかったとか?
――それは有り得るかもしれない。
そう言えば、朝の『靴の裏返し』事件。
あれは会社に行かせない様にしてた訳で、僕の守護霊か何かが僕を守ろうとしてくれていたと考えられないだろうか。
しかし、一昨日を最後に、『靴の裏返し』はされていない。
僕が『靴の裏返し』がされていない事を喜んでいたのは逆だった……?
もしかしてこれは、もう僕は守られていない事を意味するのでは……?
チチ……
あの音がし始めた。
――どうする。
僕は彼女に手を出すのが正解なのか逆なのか。
そもそも僕はこんな恐ろしい相手に手を出せるのか?
彼女の本当の姿は恐ろしい化け物なのだ。
しかし、押し付けられている女子高生の瑞々しい体は、僕から正常な思考力を奪っていく。
視界の隅で黒い塊が舌舐めずりをしているのに。
どうしたらいいんだ……。
ああ、あの音が僕を急かす……。
チチチ チチチ パチッ
バチッ! バチッ!
車内の明かりが明滅を繰り返す。
チチチ バチッ! バチッ!
彼女とスカートの裾から覗く彼女がグニョリと顔を歪めて嗤った。
僕の選択は――――。




