私は桜
私は桜。春になれば、この場所で風に吹かれる。小さな村の山の麓に私はいる。長い年月で、ここに住む人も変わっていった。それでも毎年、私はここで少しずつ変わりゆく風景を眺めている。風を感じながら、思い出すのは懐かしい日々。刻まれた古い記憶……。
「けんちゃん。はい、桜餅」
そう言って、泥で作った和菓子を向かいの男の子にあげる。桜の木の下で、毎日一緒に遊んでいた。幼馴染で、親同士の仲がいいから二人でいつも遊んでいた。
「私、大きくなったらけんちゃんのお嫁さんになるの」
泥のついた顔で笑えば、けんちゃんは少し困った顔になる。
「お嫁さんって……毎日泥団子は嫌だなぁ」
「これは泥団子じゃないのよ! 桜餅!」
そう言ってから、二人とも吹きだして笑い転げる。素直に、これからもずっと一緒にいるんだって思っていた。
桜の花は散って、何度目かの春。二人の顔に幼さはなくて、学校の制服を着ていた。
「けんちゃん……これ、お弁当作ったの」
「お前……この年でけんちゃんは恥ずかしいから止めろよ。それに弁当も」
小学校の時は桜の木の下で待ち合わせをして、一緒に登校していた。お弁当も、たまにつくる桜餅やよもぎ餅も喜んで食べていたのに、中学になると急によそよそしくなった。二人でいると、顔が赤くなって言葉もちぐはぐになる。制服を着ただけなのに、なんだかすごく大人になったような感じになって、急激に変わったように見える。本当は、中身は一緒なのに……。
そして春は巡っていく。背が伸び、顔立ちは大人になり、二人の関係も変わった。手をつないで桜の木の下で寄り添っている。
「けんちゃん、おまんじゅう作ったの。甘さは控えめよ」
「ありがと。お前の作るまんじゅう大好き」
話していることは他愛もないこと。だけど、それがいい。幸せな雰囲気で、花が散ると成るさくらんぼも甘くなりそうだ。
時は目まぐるしく過ぎていく。蕾が膨らみ、満開となり、散っていった。毎年毎年、それを繰り返していく。いつしか訪れる時は三人になっていて、小さな命が桜の枝の隙間から光る木漏れ日も掴もうとしていた。
「お父さん、ほら……陽子も桜が好きなのね」
「そりゃそうだろ、お前の子だ」
「お父さんは?」
「……当然だ」
小さな命も照れた顔をした彼も、両方可愛らしくて、笑みがこぼれる。親子三人、未来は明るくて希望に満ちていた。
子どもが大きくなれば、桜の木の下で焼き肉をした。煙が目に染みて、花も葉も、桜の木ごと燻製になりそうだった。お父さんは活発に動き回る陽子を抱き上げて、桜の枝に近づける。陽子は喜んで桜の枝に手を伸ばし、その香りを楽しんでいた。顔を近づけても、全部焼肉の匂いなのに。
そして子どもはどんどん大きくなる。訪れる頻度が減って、少し寂しくなった。人の人生は山あり谷あり。それでも、桜は毎年花をつける。変わらずここで、待っていた。
何十回もの春が過ぎ、ここを訪れる人はめっきり減った。村に残ったのはおじいさんやおばあさんばかりで、子どもの笑い声は久しく聞いていない。
「あなた……好きなお酒よ」
もう声はしわがれていて、お酒のビンを持つ手も皺が寄っている。力も弱くなっていて「よっ」と掛け声をつけて、ビンの蓋を開けた。木の根元に注いで、ふわりと笑う。
「浴びるほど酒が飲みたいって、よく言ってたものね」
返って来る言葉はない。それでも、一緒にいる気がする。それぐらい二人はこの桜の木の下で、長い時間を過ごしたから。
「けんちゃん……」
彼の灰はこの木の根元に撒かれた。きっと養分になって、根から吸収され、枝葉を伸ばす力になっている。花弁はみずみずしく、変わらない美しさを保っていた。
「また来るわ。そして私も灰になったら、いっしょに桜の木の一部になるの」
二人が大好きな桜の中でまた、一緒になる。桜の木へ向けて微笑めば、風を受けた枝が揺れて頷き返してくれたみたい。そして最後に、もう一度だけここからの景色を目に焼き付けて、家へと帰る。あと何度、ここからの景色を見られるだろう……。
私は桜。この村で生まれ育ち、最愛の幼馴染と結ばれ子どもを授かった。けんちゃんには先立たれたけど、ここに来れば近くにいるような気がする。たくさんの思い出が眠る桜の木。私の人生にそっと寄り添ってくれている。これからもずっと、私も桜の木の一部となるその日まで。