冬来たりなば、春遠からじ2
寒い。が、ぬくい。
朝から続く曇り空は先ほど一瞬雲の切れ間から光を地上に届けたが、結局はまた太陽をその分厚いとばりの向こうに隠してしまった。冷え込んだ空気は骨の髄まで染み込むほどだ。そう言えば初雪はこの二、三日の内だと誰かが言っていた。思い返せば屋敷の木々はとうにその葉を落としていたし、芝生も茶色く霜枯れていた。まあ、ゆっくり眺める心の余裕はなかったのだが。
それにしてもこれは一体どういう状況だろう。
客観的に分析すれば、アギーは地面に座り込んで空を見上げている。それも将軍の肩越しに。近くには取り落としたフリントロック銃。掌がじんじんと痛むが、それ以上に身体に回された腕による圧迫の方が痛いし苦しい。骨が軋む音が聞こえそうだ。
痛む手を持ち上げて、アギーはためらいがちに将軍の背に触れた。広い背が小さく震え、力が少し弱まったのが分かる。思い返せばアギーから将軍に触れるのは初めてだったかもしれない。
「サ・・・・・・」
「送れ」
閣下、そう言おうとした言葉は遮られた。定型どおり直立しようにも、抱き込まれた状態ではどうしようもない。仕方なくそのまま答えた。
「人員異常なし。武器に関しては未確認です」
「君に問題は無いんだな」
「はい」
強いて言うなら掌だ。反動が抑えられているリボルバーに慣れていたせいか、フリントロック銃を撃った反動は予想以上だった。掌の中で爆発が起きたような衝撃。おかげで身体の軸がぶれて尻餅までついたのだから、陸軍将校のざまはない。恥ずかしい。
けれど、とアギーは将軍の肩越しに向こう側を見た。そこでは髑髏の徽章を付けた警務隊が、負傷あるいは死んだ襲撃者の後処理を行っている。恐らくアギーの後ろでも同じ光景が見られるはずだ。
あの距離、あの一瞬、たった一発で。仕留められたのはちょっと自慢に思ってもいいかもしれない。なんてことを思う。
―――褒めて下さいよ。ねえ、マダム。
つまり、アギーと将軍は互いが互いの後方にいた襲撃者を撃ち合ったのだ。成功したのはアギーも将軍も早撃ちで高得点を出している実力を持っているからこそだ。
人の気配があることには墓地を出た時から気付いていた。それが襲撃者だと分かったのは、偶然雲の切れ間から光が差したから。反射した硬質な光は間違いなく見慣れた銃のそれだった。やはり改良案を出したのは間違いではなかったな、なんてことをつらつらと考える。複数いた襲撃者は最も接近した二名をアギーと将軍が、残りの数名は張っていた警務隊が始末したらしい。何も知らされていなかったが下準備は入念に行われていたようだ。ユージェニーも人が悪い。
ゆっくりと身体が離され、無理に忘れようとしていた距離感を強制的に思い出さされた。温もり、近い距離で合う目。逸らそうとしても今度は肩を固定されて逃げられない。仕方なく見返してはたと気付く。いつも感情を悟らせない目がほんの少しだけ揺れていた。
そう言えば、と思い出す。アギーが後方に倒れ込んだ時に一瞬見えた将軍の顔は、間違いなく焦っていた。見開かれた目に息を呑んだ口。八歩の距離を一息で詰められ、気付けば抱き込まれていたのだ。
「君が、撃たれたのかと」
「・・・・・・慣れない銃だったもので」
将軍の視線が傍らに落ちた細工の美しい銃に落ちる。その銃口からはまだ黒煙が上がっていた。
「マダムCの形見か」
「はい」
ふ、と将軍の表情が変わった。見慣れた皮肉な笑みだ。マダムにそっくりな。
「まったく、振り回されるものだ。あの女には」
「は?」
伸びてきた指がアギーの髪をすくい上げて耳に掛けた。そのまま自然な流れで額に口付けられる。
「生前、マダムCに言われていた。私が将軍位を継ぎ、盤石な体制を築かねば娘はやれないと。少し前後はしたが、今回のこれで故人の遺言は守ったことになる」
マダムが亡くなったのはもう八年も前の話だ。それほど前から婚約の話は出ていたということらしい。
唖然とするアギーが分かったのだろう。いつもどおり将軍は淡々と言葉を紡いだ。
「ああ、私が”仕方なく”君と婚約したと思っているのだったか。君を妻とすることは、陸士校で教官と士官候補生として会った時から決めていたと言ったはずだが?」
「それは、確かに聞きましたが・・・・・・」
言いたいことが口から出ない。だって何年前の話だと思っているのだ。
「アギー、言いたいことがあるなら言え」
有無を言わせない口調と呼ばれた名前に押されるように、まとまらない言葉が飛び出した。
「っ信じられるはずがないではありませんか!そんな話、私は閣下からはおろかマダムからも聞いたことはなく、あまりにも突然でっ」
「ああ、なるほど」
何かに納得したらしい将軍はふむ、と顎に指を当てた。
「マンスフィールド将軍から言われていた。当事者である君を置き去りにして事を進めるなと。私としては外堀を埋めてしまいたかったのだが、君にとっては確かに青天の霹靂ではあったか」
両頬を大きな掌で覆われた。見上げればそこにあるのはいつもの冷えた瞳。であって欲しかったのに。アギーが触れたことのない、そこには確かな熱があった。
「不安にさせていたのなら謝罪しよう。アギー、私は君を好いている」
顔が近付く。思わずぎゅっと目を閉じれば唇に柔らかな感触。しばらく触れ合ったそれは数拍おいてゆっくりと離れていった。そっと目を開ければ視線が突き刺さって、頬が熱を持つ。同時に告げられた言葉が頭の中でぐるぐると回る。
好きでも愛しているでもない。「好いている」。
それでも、これ以上ないくらいに伝わるものがあった。それはどこまでもまっすぐな感情だ。
気付けばもう疑っていなかった。「気を急きすぎて、当事者であるアギーを置いて無理矢理話を進めた坊主」。マンスフィールド将軍が言っていた「坊主」とは、アッカーソン将軍のことだったのだ。
もしかしたら、と思う。「好いている」が将軍の精一杯なのではないか。
いまだに両頬を覆っている将軍の骨張った手に、アギーはそっと自分の手を重ねた。途端にやはり小さく震える身体。
「私も今、ブレンダン様を好ましく思っています」
将軍が将軍ならアギーもアギーだ。「好ましく」とはなんだ。それでもそれがアギーの精一杯だ。
熱を持った頬のまま、アギーはふはっと笑った。
今度は将軍が呆然とする番だった。明かりが灯るような、少女のような、周囲の人間からそう例えられていた彼女の笑顔だった。
「私の前で君が笑うのは初めてだ。君は、そんな風に笑うのか」
「え?」
「最後の日、マダムCが私に言った言葉がある。」
―――「あの子の笑った顔は美しい」。
アギーは目を見開いた。
ユージェニーの言葉がよみがえる。マダムも不器用よねえ。
やっと、全て分かった。本当に馬鹿みたいだ。どこまでも分かりにくい、それは不器用なあの人の愛の形。
将軍の唇の端がほんの少しだけ持ち上げられて、目が細められる。アギーにももう分かっていた。これが将軍の笑顔なのだ。
「マダムCの言ったとおりだな。君の笑った顔は美しい」
沸き上がったのは目の前の人に対する愛しさか、マダムCへの恋しさか。
ひらり、ひらり。天から落ちてきたのは空の涙ではなさそうだ。
―――まるで祝福じゃないですか。ねえ、マダムC?
半泣きの笑顔はしばらく収まりそうになかった。
チェスター家の屋敷に到着した二人を出迎えたのは、明らかにほっとした顔のルキウスと意味深な笑みを浮かべたユージェニーだった。
「アギー、初めての共同作業はどうだったかしら?」
「わざわざこんな心遣いはいりませんよ、姉さん」
「ご無事でよかったです、上官殿」
ここに来てようやくのネタばらしは、サールウェル家の粛正という形で知らされた。
「もともと陛下もマダムもサールウェル家には手を焼いていた。焼きを入れるには証拠が集まらず、これほど時間がかかってしまったが」
六年前のカテルディアの乱で、ルキウスの狙撃により戦死した当時の聯隊長はサールウェル将軍の息子の一人だった。アッカーソン将軍は当時からマダムとの約束である「盤石な体制」のために着々とサールウェル家の力を削ぎにかかっていたという。
サールウェル家は由緒正しい生粋の帝国貴族であり、加えて将軍自身が秘密裏に手がけていたカテルディア地方との密貿易のこともあり、ずっと地方部族の帝国軍への導入に難色を示し続けていた。だからこそ筆頭となって軍の改編を行うアッカーソン家とボートン家は目障りだった。皇帝陛下が両家の行いに否を唱えないことも不満だったのだろう。そこにきてボートンの現当主であるアギーとアッカーソン将軍との婚約である。サールウェル家にとってあからさまに不利な方向へ力の均衡が傾いた。
「それでもなかなか行動を起こさなかったから、チェスター家が背後にいる、つまり陛下のご意志と思わせて、サールウェル家の私兵をけしかけさせたのよ」
「アッカーソン閣下には事前にお伝えしていたんだが・・・・・・君にはすまなかったね、アギー」
ライオネルが心底申し訳なさそうに言うから、アギーはとんでもないと首を振った。
「姉さんの態度でなんとなくは分かっていましたから」
それに、とアギーは少し俯いた。最初から知らされていたのならフリントロック銃は持っていかなかった。つまり、よろめくことも抱きしめられることもなかっただろう。きっとあの言葉もなかったに違いない。
少しだけ耳を赤くしたアギーに気付いたのはユージェニーとルキウスだった。
「あらあら。恋に障害はつきものだった、ってことかしら」
小さく呟かれたユージェニーの言葉にルキウスがそっと俯いたのは、幸運なことに誰にも気付かれなかった。
チェスター家からの帰りはアギーがアッカーソン家の馬車に、ルキウスがチェスター家の馬車に送られることになった。アギーの屋敷とルキウスが帰る官舎がチェスター家から見て真逆にあるからだが、何となく弾んでしまう心はもうごまかせなかった。
どうやら自分の頭の中には冬をとばして春が来たらしい。
そんなことを分析したらいたたまれなくなり、逃げるように夜空を見上げた。午後に降り始めた雪はまだ止まない。恐らく一晩中降り続けて明日には帝都を白く染めるだろう。
コートを着込み、屋敷の前で馬車を待っていたアギーに近付く大きな影があった。
「―――上官殿」
ためらいがちな声に横を見れば少し後ろにルキウスがいる。最近購入したらしいマフラーに口元を埋める姿は愛嬌があったが、のぞく目元はどことなく暗く沈んでいる。夜の闇のせいでないことは分かっていた。
「ああ、中尉か。この調子だと明日まで降りそうだな」
「そうですね」
やはり沈んだ声だった。晩餐の時から気になっていたがその場で直接聞くこともできずにいた。
「何をそんなに暗くなっている、中尉。雪が降れば本格的に冬が来たということだ。冬が来たということは君の好きな春も遠くないぞ」
「ええ、春は好きです」
視線は合わなかった。ルキウスの目は雪を落とす空を見上げたままだ。わずかにマフラーの下の彼の唇が震えた気がした。
「あなたに出会えた春が好きでした。でも今は冬が終わらなければいいと、そう思います」
冬が来て、春が過ぎて、夏が来れば、あなたは、閣下のものだ。
区切られたひとことひとことがアギーに刻みつけるようだった。まだ合わない瞳が雪を映している。
「ご存知ですか、上官殿」
「何を」
「我らエフェソス族は、雪の降る日には女性を外に出しません。白の魔物に心を奪われ、雪の国に閉じ込められてしまうからと」
ようやく合わされた目は街灯の光のせいでそう見えるのか、潤んでいた。
「"雪の魔物になって、あなたを攫ってしまいたい。閉じ込めてしまいたい"」
「中尉?雪が、何だ?」
それがカテルディア地方の言葉だとは分かった。雪という単語も分かった。けれどそれ以外は分からなかった。困惑した表情を隠さないアギーを見てルキウスは小さく笑った。笑ったように見えた。目が少しだけ細められたから。切なげに細められたその目は、もしかしたら泣き顔だったのかもしれない。アギーがその答えを出すよりも早く、ルキウスはいえ、と首を振った。
「上官殿にとって白の魔物はアッカーソン閣下だったのだと思いまして」
「私が閣下に心を奪われたと、そう言いたいのか」
ルキウスは頷くのにためらわなかった。
「認めたくはありませんが、そうです。今日の上官殿を見ていて分かりました」
「そう、か。・・・・・・私もまだまだだなあ、そんな簡単に分かってしまうとは」
「いいえ」
身体ごとアギーに向き直ったルキウスはマフラーを押し下げた。表れた唇から吐かれた息が白く立ち上る。
「私がいつも上官殿を見ているから分かっただけのことです。―――私は、六年前からずっと、単眼鏡の向こうの上官殿を探していました。立場とか階級とかそんなものを無視した姿をあなたが私に見せて下さるのを待っていたんです。でも、それができたのは私ではなく閣下でした。私は結局、あなたの副官としてでしか側にいられなかった・・・・・・」
今度こそ笑ったと分かる顔はいっそ清々しかった。
「悔しいですが、もういいんです。これまで、いえこれからだって、私があなたの側にいられる時間はきっと長い。私は上官殿の右腕です。―――だからいつでもおっしゃって下さい」
もしも上官殿が閣下の隣で笑えないのなら、私は冬でなくても雪の魔物になってあなたを攫いに行きますから。
いつかと同じ、硬質な靴音が二人の間を裂いた。
「―――中佐」
どこまでも低い、苛立ちを隠さない声。
思わずアギーとルキウスは顔を見合わせ、そして吹き出した。けらけらと笑う上官の笑顔を、ルキウスも同じく笑いながらほんの少しだけ将軍に対する優越感を混ぜて見つめたのだった。
翌年の夏、晴れ渡った青空の下、軍人貴族であるアッカーソン将軍の結婚式が執り行われた。いつも無表情で恐れられている花婿も、この日ばかりは花咲く笑顔の花嫁の隣で分かりづらく微笑んでいた。
式の最中から男泣きに泣いていた地方部族出身の青年は、会食の席で花婿の胸ぐらを掴んでこう言った。
「上官殿を泣かせるような真似をしたら、私が攫いますから!」
「君、そもそも私が君に妻の泣き顔を見せると思うのか?」
そして花婿は、心底意地の悪い笑みを浮かべて静かにこう付け加えた。
―――まあ、安心したまえ。寝室以外では泣かせないと約束しよう。