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冬来たりなば、春遠からじ






 青空の下で微笑む天使のような容姿ではあったが、マダムCには曇天が似合った。

 最後の日。馬上、銃声と共にゆっくりと傾いだマダムの背。その頭上に重く立ち籠めていた雲をアギーは覚えている。灰色に塗り固められた空を見て理由の分からない不安を感じたことも、生ぬるく湿気を含んだ風が不快だったことも覚えている。

 帝都の郊外、高い鉄柵に囲まれた墓地の中、目の前の墓石は頭上と同じ重い灰色をしていた。あの日のような曇天だ。心の中で語りかけてみる。

 ―――すみません、マダム。あなたの娘はまた死に損なって帰ってきました。

 はっ、と馬鹿にして鼻で嗤う姿が見えた気がした。

 そもそも、容姿はどうあれマダムの浮かべるあの嗤いに青空など似合わない。腰のフリントロック銃が重みを増したような気がして、何となくホルスターの上からその形を掌でなぞってみる。

 曇天。今にも泣き出しそうな空とはよく言ったものだ。

 あの日、最後まで空はアギーの代わりに泣いてはくれなかった。

「それ、まだ使えるの」

 マダムの眠る墓地を一緒に訪れていたユージェニーが、まじまじと腰のフリントロック銃を見つめていた。アギーがこの場所を訪れる時、軍支給の六連発リボルバーではなくこの銃を持ってくることは姉たち全員が知っていることだ。

「手入れは欠かしていませんからね。古い銃ですが問題なく使えるはずです」

「大切にしているのね」

 どうしたって今の戦場では使えない物でしょうに。

 付け加えられた姉の言葉に、数日前のパーティーで見た遺物を思い出して胸が重くなる。

「そう、ですね。それでも」

「マダムの遺した物、だから?」

「はい」

 生前に何か言われたわけではない。それでもマダムが最期に撃ったこの銃を持ってここに来れば、分かりそうな気がするのだ。あるいは教えてくれそうな気がするのだ。

 マダムがアギーに遺した、この銃とあの言葉。

 何度訪れても結局教えてくれたことなどないのだが。

「アギー、あなたここに来るたびに同じ顔をしているの、分かっている?」

「え?」

 きょとんと見返せば姉はやれやれと首を振った。

「自覚もなし、か」

 姉の視線につられてアギーも墓碑銘に目をやった。そこにはマダムの名とは別に、丁寧に刻まれた一文がある。

 “帝国軍の未来と栄光に命を捧げし稀代の女傑、ここに眠る。”

 何度も見た墓碑銘だった。マダムCを知る者なら誰もが納得する一文であるはずだ。しかしユージェニーは裾が地面に付くことも厭わずにしゃがみ込むと、膝の上で両指を組んで顎を乗せた。

「アギー、あなたからマダムの死に様を聞いた時、私思ったのよ。墓碑には”ミズリー将軍への愛を貫きし女”って刻んでやろうかって。”帝国の未来と栄光に命を捧げ”?・・・・・・全く、くそ食らえだわ」

 ふん、と鼻息荒く姉は言い切った。

「辛気くさい顔をしないで、アギー。マダムのやったことは全てあの人の自己満足よ。言い換えればそれがあの人の愛、なのだけれど」

 また思い出した。曇天。伸ばされた腕。銃声。傾ぐマダムの背。

 マダムの撃った弾がミズリー将軍のための弾だったことは分かっていた。逆もそうだ。ミズリー将軍が撃った弾はマダムCのためだけの弾で。ユージェニーの言葉を借りるなら、それが自己満足、それが二人の愛だったのだろうか。

 いつか見た、塀に貼られたちらしが浮かぶ。艶やかな流し目と薔薇のように真っ赤な唇。あの劇の作品名は何と言ったか。そう、『ルクレツィア~愛に生きた女~』。なんだかおかしくなってきた。

「マダムCは愛に死んだ女だ、とでも?」

「あら、流行に乗ったことを言うわね。でも・・・・・・そうね、考えてみて。愛に死んだということは、愛に生きたことになるのではない?」

 考えてみれば確かにそうだ。

 神話に出てくる英雄たちが悲劇の英雄になるために必要なのは、悲劇的で悲惨な死だ。

 つまり終わりが全て、ということか。

「あなたたち軍人もそうでしょう。戦場に散れば戦場に生きたことになる」

 愛のために死ねば愛に生きたことに。

 戦場に死ねば戦場に生きたことに。

「・・・・・・ひどい話です」

「人生、生きても死んでもひどい話ということね」

 顔を上げたユージェニーは、アギーを見て片目をつむって見せた。

「まあでも、だからこそこんな言葉があるんでしょ。終わりよければ全てよし、なんてね。マダムの心の内なんて分かりはしないけれど、満足していたのではない?」

 マダムCが若い頃にミズリー将軍と同じ士官学校に留学していた事実は一番上の姉が教えてくれたことだ。想い合う二人が抗えない力で引き裂かれるが、二人の愛は何かしらの形で昇華され、最後は永遠に結ばれる。それはなんて、・・・・・・なんてよく聞く話だろう。

「私には分かりません。結ばれないからと言って、互いの命を奪うことが愛でしょうか?」

「あらまあ、かわいい妹は早くから男社会に放り込まれたせいで、心の成長が少しばかり遅いようね」

 他でもない、愛する夫と結ばれた姉は仕方がないなあとでも言うように苦笑した。ちょっとむっとしたものの事実そのとおりだとは自覚していたから、アギーは無言で続きを促した。

「マダムとミズリー将軍がどう考えていたか、本当の所は知らないわ。でも理解できるような気もするのよ。相手の命を奪うということは相手の生を、相手の全てを手に入れるということに等しいのではないかしら。互いが互いの物になる、だなんて。・・・・・・ある意味究極よねえ」

 マダムCとミズリー将軍の愛は互いの命を奪うことで昇華された、ということか。

「なんだか、脚本になりそうですね」

「『愛に生きた女、マダムC』?」

 あまりにも似合わなすぎて、アギーとユージェニーは思わず顔を見合わせた。

「どうせなら宣伝文句も必要じゃない?」

「そうですね―――あ、こんなのはどうです」

 『愛に生きた女、マダムC ~それは鉛一発分の愛だった~』

 今度こそ二人は吹き出した。曇天の下、墓地に笑い声が反響する。

「鉛一発分の愛って何!?でも聞こえがいいのが逆におかしいわね!ああもう苦しい、許してちょうだいマダム!」

「かんかんになって怒るでしょうね。きっと今日の夕食は抜きで、一時間は廊下で気を付けです」

「嫌よ、勘弁して!気を付けも敬礼ももう聞きたくないわ!」

 信頼する姉と二人きりだからだろうか。間違いなく気が緩んでいたのだろう。しばらく二人で笑い合った後、アギーは今まで誰にも言ったことがなかったあの言葉を口にした。

「・・・・・・最後の日、」

「え?」

「最後の日にね、マダムに言われたんです。”お前は完成品だ”って。でも、最近いつも思うんです。私はまだ、マダムの完成品でいられているでしょうか」

 落ちた沈黙が怖かった。ユージェニーの目がアギーを見つめているのが分かったが、アギーは顔が上げられなかった。

 しばらくして、ユージェニーは小さくため息をこぼした。それに思わず肩が揺れる。

「アギー、あなたマダムの目の色を覚えている?髪の色は?」

「え?」

「いいから。覚えている?」

 忘れられるはずがない。初めて会ったあの日、強烈に焼き付いた姿はどこまでも美しかった。

「金の髪に青い瞳、でした」

「そう。アギーも私も瞳の色はマダム譲りなのよ。姉さんたちは髪の色がマダム譲りね」

 もう一つ。そう言ってユージェニーはぴしりと人差し指を立てた。

「教えてあげるわ。ミズリー将軍はね、銀の髪に紫の瞳だったそうよ」

 思わずアギーは自分の髪を見た。制服を着る時は耳に掛けて髪留めで留めているが、今日はそのまま肩の上に落としていた。灰よりは白に近い色を持った髪だ。ユージェニーも同じ。上の二人の姉は金の髪に紫の瞳だ。

 くしゃりと自分の顔が歪むのが分かった。なぜ分からなかったのか。初対面のあの日、「小汚い上に阿呆面だが、見目はなかなか悪くない」、そう言われたではないか。

「マダムも不器用よねえ。完成品だなんて回りくどい言葉を使わず正直に言えば良かったのよ。二人の完成品(愛の結晶)、って」

「っ、・・・・・・」

「確かに私たちに血の繋がりはなくて、生みの親の名前も顔も知らない。出自が卑しいと蔑まれることもあるでしょう。そんな時のために、目に見える絆を残してくれたのではない?マダムは」

 ユージェニーの指がアギーの髪に絡められた。アギーよりも少しだけ薄い青の瞳が柔らかく細められる。

「鏡を見れば分かるでしょう?間違いなく私たちは稀代の女傑と智勇で謳われた亡国の将軍との子ども。父様と母様の娘(二人の愛の結晶)よ」

 詰まった言葉は何だったのか。自分でも分からなかった。ただ、胸の奥でわだかまっていた重い感情が少しだけほろほろと崩れるのを感じた。

「馬鹿、ですね。私ずっと・・・・・・」

「いつも辛気くさい顔をしていたのはそのせいかあ」

 頭の上にユージェニーの掌が乗せられた。ゆっくりと撫でるその手が嬉しくて、どこか痛い。

「安心しなさいアギー、馬鹿なのはマダムもだから。よりによって最期にそんなことを言われて、しかも衝撃的な死に方をされてはトラウマよねえ。真面目な末っ子がどう感じるかなんて想像が付きそうなものなのに。・・・・・・マダム、反省してちょうだい。かわいい妹をこんなに苦しめて、もう」

 見やった先のマダムは当然だがだんまりだった。

 それからしばらく談笑してから、アギーとユージェニーは墓地の入り口へと向かった。鉄柵の向こう、見覚えのある人影が見えて二人の足が止まる。思わずアギーは鼻に皺を寄せた。

「なぜここに・・・・・・」

「あらら婚約者様のお迎えね、アギー」

 見れば乗ってきたチェスター家の馬車とは別に、少し離れた場所にアッカーソン家の馬車があった。わざわざ出向くとは何の用かと少し不安になる。夕方からはルキウスと二人でチェスター家の晩餐に招かれているのだ。もし軍に関係することならチェスター家に断りを入れなければならない。

 アッカーソン将軍は二人の姿を認めると軍帽を取った。ユージェニーに対して小さく頭を下げる。ルキウスほどではないが体格のいい将軍は、身に付けた長いコートと相まっていつもよりも大きく見えた。

「ご機嫌麗しく、ミセスチェスター」

「ご丁寧にありがとうございます、閣下。妹が世話になっておりますわ」

「いえとんでもない。私が世話をする必要などないほどアギーは優秀ですから」

 淡々とした声音ながら自然な流れで名前を呼ばれ、揺れそうになるのを抑えようとしたら身体が不自然に固まった。どうにもいたたまれない気持になる。歳の差か、経験の差か。アギーはまだこれほどすんなりと将軍の名を呼ぶことはできない。

 一言二言会話した将軍とユージェニーは、晩餐に将軍も参加することで話をまとめたらしい。二人は揃ってアギーを振り返った。

「アギー、閣下とご一緒して後からいらっしゃいな。私は先に屋敷に戻ってエフェソス中尉をお迎えするわ」

「分かりました」

「では閣下、また後ほど」

「ええ」

 礼を取ったユージェニーはあっけなくアギーを置いて馬車に向かう。すれ違いざま、ユージェニーの手が肩に乗せられた。

「アギー、また後で。気を付けてね」

「はい」

 するりと離れていく手と残された笑みをちょっと恨みがましく見送る。わざわざ馬車の窓から手を振ってユージェニーは去って行った。しばらく馬車を見送ってから、アギーはそっと傍らに立った将軍を見上げた。思い切り目が合って少し動揺する。ごまかすように口を開いた。

「閣下」

 目は合ったままなのに返事がない。

「閣下」

 少し声を大きくしたのにやはり返事がない。アギーは諦めた。

「・・・・・・ブレンダン様」

「どうした」

 くそう。心の中で毒づいて、気持ちをそのまま口調に乗せた。

「ご機嫌麗しく!」

 精一杯の嫌みは自然に流された。

「ああ、君も変わりないようだ。ちゃんと首輪も付けていて安心した」

 伸ばされた指が首に触れる。正式な婚約発表があるまではと、目立つ指ではなく鎖を通して首に掛けていたのだ。襟元からのぞいていた鎖をなぞるように、骨張った指が首筋を滑って離れていった。

パーティーの日以来、ちょっとしたきっかけで二人きりになるたびに将軍が触れてくることが多くなっていた。いたたまれない空気を振り払うように、アギーは口を開いた。一瞬何を言おうか迷ったがすぐに見つかった。ずっと言えずにいたことがあったのだ。

「ブレンダン様」

「なんだ」

「その、いつも花束と本をありがとうございます」

「礼はいらん。君が気にすることでもない。私が勝手にやっていることだ」

「ですが安価な物ではないでしょう?特に本は」

 だから無理に送ってくれなくてもいい。そんな心を込めていたのだが、将軍はいつもどおり冷たくアギーを一瞥した。

「どれも君が欲しがっていた物だろう」

 ぎょっとした。

「なぜそれを」

「配架されたら連絡しろと、上幹校の司書に題名を記した紙を渡していたと把握しているが」

「確かに、そうですが」

「図書館に配架されるのを待つより、私が伝手をたどって入手した方が早い」

 どこから突っ込めばいいのか分からなかった。なぜ将軍が司書に渡した紙のことを知っているのか。貴重書を手に入れられる伝手とは一体何か。どう聞こうかと言葉を考えていたら、将軍は不快気に額に皺を寄せた。

「それとも君は、」

「はい?」

「君は、私から本を送られては嬉しくなかったか」

「え?いえ、そんなことは」

 ずっと読みたいと思っていた軍事書だ。最初は面食らったし将軍の意図が分からず驚きもしたが、喜ばないはずがない。けれど将軍は曖昧な口調を遠回しな肯定と受け取ったらしい。

「わざわざ君が連絡を頼むほどの物だから間違いは無いだろうと思ったのだが?送られて嬉しくない物であったのなら私は行動方針を誤ったようだ」

 アギーは困惑した。将軍の言葉を額面どおりに受け取るなら、まるでただアギーを喜ばせるために本を送ったと言っているようではないか。

 「単に上官殿が喜ぶと思われたのでは」。いつかルキウスがそんなことを言っていたような気がする。その時のアギーはまだ、将軍には何か思惑があるに違いないと素直に受け入れられなかった。今もまだ、完全に信じることはできない。でも、もし本当にそうだとしたら?アギーを喜ばせるための本だったのなら?

 どうしよう、すごく。

「・・・・・・嬉しいのか、私は」

「何だ」

 なぜだか頬が熱い。こんなのは知らない。

 アギーは照れを隠すようにがばりと勢いよく顔を上げて将軍を見上げた。

「とても欲しかった本なのです、嬉しくないはずがありません!だから、その、・・・・・・いつもありがとうございます!」

「礼はいらんと言ったはずだ」

 婚約者というよりは上官に対するようなアギーの礼に、将軍は身も蓋もない言葉を返してきた。それでもどことなく満足したように見えたのは錯覚だろうか。きっと錯覚だ。目までおかしくなっている。冷たい冬の空気を一度吸って吐いて、アギーは気持ちを入れ替えた。

「そう言えばブレンダン様、なぜここに来られたのですか」

「君の姉、ミセスチェスターに呼ばれたからだが?」

「そうですか・・・・・・」

 最初から仕組まれていたわけだ。晩餐に将軍が来ると聞いて、アギーと同じように知らされていなかったルキウスはさぞ驚くだろう。

 馬車に向かって二人並んで歩きながら空を見やる。やはり変わらない曇天だった。雲の寝台で太陽も眠っているに違いない。空から視線を落とせば灰に沈む街角が見えた。

「お忙しいでしょうに、わざわざご足労を」

「他でもない君に関わることだ。来ないはずがあるまい」

 義務的な冷たい声音に、アギーは思わず足を止めた。この声音には聞き覚えがあった。将軍がいらないと判断した者に引導を渡す時の声音だ。ああそういうことかと納得した。

 婚約指輪を渡されたパーティーの日から気になっていたことがある。今がそれを聞くちょうどいい機会だと思った。

「閣下」

 返事はなかったがアギーは構わずに続けた。

「私はずっと、閣下はこの婚約に仕方なく同意したのだと思っておりました」

 心なしか、冷えた冬の空気がさらにきんと張り詰めたような気がした。

 立ち止まったアギーをよそに、将軍はそのまま数歩足を進めた。曇天に溶け込みそうな灰色のコート。広い背だ。

「実は今でもまだ、そうではないかと思っております」

 将軍の足が止まった。二人の距離は八歩といったところか。将軍の手がゆっくりとコートのポケットに入ったのを見る。同時にアギーも腰に手を伸ばした。

 ユージェニーの態度におかしいとは思っていたのだ。アギーが墓地を訪れる時フリントロック銃を持ってくるのはいつものことだ。それをわざわざ使えるかなどと確認したこと。別れ際、肩に乗せられた手と「気を付けて」の言葉。

 慣れ親しんだ六連発リボルバーではない。けれどできると確信していた。興奮も緊張もない、狙う相手は決まっている。マダムもこんな気持ちだったのだろうか。

 曇天の切れ間。眠っていた太陽の光が地上に落ちる。天使の梯子。本当に、天からの迎えのようだ。

 それは一瞬だった。将軍が振り返りざま抜き放った六連発リボルバーと、アギーのフリントロック銃が互いに銃口を向ける。今だ。引いた引き金は同時だった。重なる二発の銃声。受けた衝撃に足がたたらを踏む。後方に傾ぐ身体、視界に映った空はまた灰色が覆い尽くしていた。






 ユージェニーの乗った馬車はチェスター家ではなく、とある屋敷に向かった。勇壮な門を抜け、調えられた庭園を横目に屋敷の扉の前で丁寧に停められた馬車。屋敷の使用人が降りるユージェニーの手を支える。彼女の顔を確認して扉を開けた使用人を後ろに、勝手知った様子で屋敷の奥へと足を進めた。階段を上り廊を進み、細かな細工が施された扉の前に立ち、開け放つ。

 書斎の机に座っていたのは初老の男性だった。皺が刻まれこけた頬に尖った顎が目立つ。苛立ちと不快を隠さない瞳は両手の指を組んだ手の上で細められ、ユージェニーをうかがっていた。小刻みに揺らされる膝は、神経質なこの男の性質を隠せていない。

「全てはつつがなく」

 ユージェニーの報告に男性は一瞬だけ目を閉じた。冥福を祈ったように見えたが、再び開けられた目には愉悦が隠されていなかった。

「これでひとつ将軍家が消えたか。いや、先を考えれば二つ、それとも三つか。少なくとも野蛮人の台頭は防いだだろうよ」

 言い換えれば、この男は自分の立場を守ったことになる。

「帝国を脅かす種を無かったことに。ただそれだけのことですわ」

 男は鼻で笑った。高位な身分に似合わない、嘲りの含まれた下卑た笑いだった。いや、この男が数多の屍を踏み付けて築き上げた高い地位にいることを考えれば、むしろこれ以上ないほど似合っているのかもしれない。

「ボートンの娘は嫁入りしてもボートンだな」

「いいえ?私が今ここにいるのはチェスター家の一員として、ですわ」

「ああ、失礼。もうボートンは無くなったからな。全く、ライオネル(無能な甥)に代わってボートンの名を捨てた娘がチェスターの看板を背負うとはな」

「いいのです。夫の優しさは何よりの魅力ですから、私が汚れ仕事を引き受けることぐらい苦ではありませんわ」

 汚れ仕事。表向きは末端貴族であるチェスター家が代々請け負っているのは断罪の役目だ。脅威の種を皇帝の命で処分する。貴族の中でもほんの一握りしか知らない事実だ。マダムCはそんなチェスター家の次代当主ライオネルの性格を知り、ユージェニーを送り込んだ。

「ライオネルもやりおる。これほどまでに嫁を飼い慣らすとは」

「違いますわ、閣下」

「ほう?」

「飼い慣らされたのではありません。私、元から爪も牙もありませんの」

 もちろん、ユージェニーの性格もマダムは嫌というほど知っていた。

 マダム譲りの青い瞳を細めて、ユージェニーはうっとりと微笑んだ。

「それに、確かに私は今チェスター家を名乗っておりますが、ボートンの名を捨てたつもりもありませんわ。申し上げておりませんでしたわね、マダムの私への最後の命令」

 ひらり、ドレスの裾が翻る。のぞく白い太もも。反応する暇など与えない。

 銃声。眉間に咲いた赤い花。

「”チェスターとしてサールウェル家を潰せ”。任務は果たしたわ、マダム」

 本来、ユージェニーは血なまぐさいことが嫌いだ。それを末の妹はユージェニーが優しいからだと言う。実際ユージェニー自身もそう思う。だがそれは非常に限定的だ。ユージェニーの優しさは身内に対してだけ向かう。身内への優しさが極限まで発揮されるということ、それはつまり「他の排除」。かわいい妹、尊敬する姉たち、母、夫。彼らに危険が及ぼうものならその種を徹底的に消す。それがユージェニーの性格だった。

 一度、ユージェニーはマダムに言ったことがある。

 理想を持つとか、思索するとか。そんなことができるのは人間だけ。それができるからって人間は自分たちを他の生命よりも偉い生き物だと思っているけれど。でも、その理想やら思索やらのせいで戦争を起こして同族を殺しているわけじゃない?馬鹿みたいだわ。それに比べたら大切な人を脅かす敵を殺そうとするのは単純でいいでしょう?ねえマダム?

 マダムCは答えた。

 ―――お前のその性格はミズリー(あれ)に似ているな。

 マダムCはそんなユージェニーの性格を分かった上で、チェスター家を嫁ぎ先とした。一見すると分からない爪と牙を鋭利に研がせた上で。

「ええ、嘘は言ってないわ。実際、身内に対する爪も牙も元からないもの」

 ため息をつきつつ振り返ればサールウェル邸の扉を開けた()()()()()()()使用人がいる。

「全てはつつがなく。陛下にそうお伝えして」

「はっ」








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