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メメントオアレリック2







 高位貴族が骨董品を収集するのはよくある話で、主催するパーティーで収集品を公開することはもてなしの一つでもある。ほとんどが挨拶の際に一言許可を取れば自由な見学が許されていた。マンスフィールド邸も同様で、見張りの私兵が複数人配置されていても扉は開放されている。

「ボートンとエフェソスだ。見学させていただきたい」

 入り口の兵にそう言えば、彼は二人の徽章を確認して勢いよく敬礼をした。

「はっ、ごゆっくりどうぞ」

「失礼する」

 そっと中をのぞき込んだが、見張りの兵の他には誰もいなかった。

「おや、私たちの独占だな。皆パーティーを楽しむのに忙しいと見える」

 明かりを減らし少し薄暗くされた室内は、博物館の雰囲気とよく似ていた。無意識に軍靴が音を立てないように気を付けながら部屋に入れば、遠い過去の遺物たちが一斉にアギーとルキウスを出迎えた。

「これは・・・・・・」

「うん、圧巻だな。前回訪れたのは数年前だが、将軍は根気に収集を続けられていたようだ」

 壁に掛けられた槍と盾を見上げて、アギーはむっと顔をしかめた。

「青銅の盾に鉄製の槍・・・・・・?さすがに槍の柄は最近の復元のようだが、それにしてもこれは一体いつの物だ。百年二百年前どころではないな」

 かすれてはいるが、盾には大きく目を剥き牙をはやした顔が描かれている。古代の神に違いなかった。また、一方の壁には騎士の時代の甲冑が立てられていた。丁寧に磨かれたその甲冑は今でも綺麗な光沢を放ち、遠い昔に活躍した騎士たちの鬨の声が聞こえてきそうだ。

 ルキウスが呆けたようにふらふらと歩み寄ったのは銃が並べられた一画だ。

「これはフリントロック銃で、こっちは・・・・・・マッチロック銃?」

 銃の収集は昔からマンスフィールド将軍が特に力を入れていた。様々な種類を網羅し時代順に並べたその区画は銃の歴史そのものと言っても大げさではない。アギーもルキウスの横に並んで眺めた。多いのはやはり時代の近いフリントロック銃だ。銃口がラッパのように広がったピストルを見つけて、物珍しさについ顔を寄せてしまう。帝国海軍には下手物呼ばわりされると共に恐れられていた銃だ。

「ブランダーバス、だったか?海賊御用達の銃まであるとは恐れ入る」

「傷も多いですし、ずいぶん使い込まれているように見えますが」

「ああ。海軍の人間を幾人も殺しているだろうな」

 アギーが銃の種類や用いられた戦いなどをかいつまんで説明するのを、ルキウスは真剣に聞いている。言葉を交わしながら、二人は時間を忘れて百丁近い銃を順番に見ていった。

 将軍の悪戯心だろうか。銃の区画で最後に展示されていたのは現在の帝国陸軍に導入され、将校に支給されている光沢の美しい六連発リボルバーだった。思わず二人で吹き出しながら、なるほどと唸る。

「過去の遺物だなどと言っているが、私たちが使っているこのリボルバーだって、いずれは遺物と呼ばれるのだ。何とも気の利いた洒落だな」

「不思議な感覚です。今の私たちからしたらフリントロック銃もマッチロック銃も時代遅れ甚だしい物ですが」

「そうだな、同じ感覚でいずれはこのリボルバーも時代遅れと思う時が来るのだろう」

 展列された初期の銃から見てきた二人の目に、無骨なリボルバーは過去の作品の改良を重ねてついに完成した最高傑作のように映った。しかしまた、後に続くだろう本物の傑作のための試作品のようにも映った。

「実際、今現在も改良案は出されているのだ」

「私には不便は感じられないのですが、具体的にはどのような案が?」

「主に装填・排莢の手間を省く案だな。今は一発ずつしかできないが、これが六発同時にできればさらに使い勝手がよくなるだろう。あとは、もっと単純な点で艶消しだ」

 それを聞いたルキウスは少し不服そうだ。

「銃の美しさの一つは艶だと思うのですが」

「私もそう思う。でもな、もしもこちらに気付いていない敵が正面にいたとして、銃を抜いた時に光が反射すればどうなると思う。加えて敵が早撃ちを得意としていたら?」

「気付かれて機を逃すに留まらず、こちらの命が危ないということですか」

「その通りだ」

 実は他でもないアギーが技術部に打診したことだった。確かに光沢がなくなるのは惜しい。けれど、そもそも軍用銃など人殺しの道具にすぎない。美しさなどを求める代物ではないのだ。それは銃だけでなく軍人だって変わらない。いつだったか、ユージェニーが言っていた。

 ―――国のため?未来のため?高邁な理想をいくら掲げようと人殺しは人殺しよ。

 瞳に暖炉の炎が揺らめいていた、姉の横顔を覚えている。そうなのだ、軍人はすべからく人殺しだ。いくら美しい武器を持とうと高潔な思想を抱こうと人殺しなのだ。

 ふと思う。美しさなど求めるべきではない軍人に「美しい死」を求めるという矛盾を、マダムCはどう考えていたのだろう。

 首を振りつつ、ルキウスがふうと息を吐いた。

「初めてこのリボルバーを手にした時は、これこそが拳銃の完成品だと感動したものですが」

 完成品。その単語に嫌な予感がした。

「欠陥を取り払い、また新たな完成品が生まれる。そうなってしまえば以前の完成品はもう完成品ではなくなってしまう」

 いつかと同じように、無骨な指が艶めく銃身を慈しむようにそっと撫でた。

「そうして新たな完成品が生まれ続けるということは、つまりこの世に完成品など存在しないということかもしれませんね」

 鈍器で殴られたような感覚だった。自分で思っている以上にアギーは殴られた場所が痛むのを感じた。何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。「完成品など存在しない」、何気ないその一言が喉につかえて息苦しい。

 視線の先の遺物たちが一斉にアギーを見返す。

 過ちをその身に留めたまま、本来の役目を果たすこともできず見世物となった彼ら。

 そうなってしまえば、それは正しく「過去の遺物(未完成品)」だ。

 目の前の展示品にアギー自身が重なった。並べられているのは自分のような気がした。

 ―――私は今もマダムの完成品か?

 アギーが「完成品」だからこそ求められた「美しい死」。

 ―――「美しい死」が何か分からない私は・・・・・・?

 あの赤い唇が紡ぐ声が脳裏で聞こえた。お前は未完成品だ、と。






 沈黙を疑問に思ったルキウスが顔を上げると、そこには青ざめた女性がいた。思わず目を見開いて見つめるが、彼女がルキウスの視線に気付く様子はない。

 平生ならばあり得ないことだった。彼女はルキウスを含め部下のことをよく見ている。無頓着なようで、表情や視線の変化を敏感に察知してそっと気を遣う、いくつか年下の彼女はルキウスの前ではいつだってそんな「上官」だった。

 問答無用で命を預けられる、尊敬すべき「上官」。同族の仲間でない帝国人、しかも女性にこんな感情を抱けるのかと、初めはこそばゆく思ったものだ。しかし少なくない時間を共有して、彼女を知れば知るほどルキウスは物足りなさを覚えるようになった。彼女はいつどんな時も「上官」でしかないのだ。「上官」ではない、軍に縛られていないただの彼女が見たい。

 そう思う時、頬の擦過傷がいつも熱を持った。その熱は同時に、あの日邂逅した彼女を脳裏によみがえらせる。

 のぞき込んだ単眼鏡が捉えた若い娘。ぱっと弾けるような笑顔。望まず別れることになった恋人に遠い地で思いがけず再会した、そんな錯覚を起こしそうなほどの純粋な喜びだけを表した無邪気な笑み。そこにはあの時の敵対関係も今のような上官と部下という関係もなかった。

 単眼鏡の先の、あの彼女をずっと求めていた。願うならばルキウスだけにその姿を見せて欲しいと思い続けてきた。

 今ルキウスの前にいる彼女は、彼が願ってやまなかった「上官」の殻を脱いだただの娘に見えた。常にぴんと伸ばされ頼もしさを覚えていた背はわずかに曲がり、凛とした光を湛えていた瞳は所在なげに揺れている。

 何が原因かは分からない。ルキウスの言葉が原因なのだとしたら、「完成品など存在しない」その言葉が彼女の上官としての殻を剥いだのだろうか。・・・・・・今まで触れられなかった彼女の柔らかい部分を傷付けたのだろうか。

 その考えに至った時、ルキウスの胸の内には暗い喜びが満ちた。例え傷付けたのだとしても構わない。彼女が欲していた姿をやっと見せてくれたのだ。あつらえたようなこの二人きりの空間で。

 持ち上げた手は無意識であり、計算尽くでもあった。透明な壁でも間に挟んでいるような距離を越えて触れたかった。

 けれどそれは叶わなかった。

 硬質な靴音が空間を裂く。

「―――中佐」

 びくり、小さく跳ねた彼女の背。呼吸を挟む隙もなく、次の瞬間にはいつもと変わらない「上官」がそこにいた。






 突如響いた氷の声に、アギーは条件反射でかかとを揃えて直立していた。博物館に似た静謐な空気をものともせず、靴音を鳴らして歩み寄ってきたのはブレンダン=アッカーソン将軍だ。

「閣下?いかがなさいました」

 目と目が合って、アギーは戦慄した。パーティーが始まった時と同じ目がアギーを射抜いていた。隠されていない不快感、苛立ち。

 冷たい視線にさらされながらも逸らさずに見つめ返したアギーは違うと気付いた。同じではなかった。間違いない、そこには確かな怒りがあった。あまりに低温の氷は触れれば火傷するというが、将軍の瞳にあるのはまさに熱を感じるほどの冷たい怒りだった。けれど何に対する怒りなのか分からない。アギーに対してなのは間違いないが、一体アギーの何が逆鱗に触れたのか。

 見下ろす将軍が口を開く。死刑を宣告される被告人はこんな気分に違いない。そう思った。

「中佐、君には自覚が足りないようだ」

「は・・・・・・自覚、ですか」

「来たまえ」

 死刑宣告は先延ばしにされた。アギーがついてくることを微塵も疑わずに、アッカーソン将軍は背を向ける。その一瞬、アギーは閣下の目がルキウスに留まってすっと細められたのに気付いた。視線を追って振り返ったアギーは驚いた。ルキウスが今まで見たことのない顔をしていたのだ。握られた両の拳に強張った肩。唇を噛んで伏せられた目。敗北に耐えているようにも、殺意を必死に押しとどめているようにも見えた。

「中尉・・・・・・?」

 そっと声を掛ければ、ルキウスは一度強く目をつぶると次には空気を抜くようにふっと肩を落とした。

「閣下とのお話が終わるまで私はここにおりますので」

 この短い時間に何があったのか。少なくとも聞かれたくないことなのは分かった。ルキウスの拒否する姿勢が伝わって、アギーは何も聞けず、何も言えなくなった。

「・・・・・・時間がかかるようなら帰ってくれて構わない。御者には二往復させよう」

「ええ、ありがとうございます」

 控えめに微笑んでルキウスは視線を外した。悲しげな影を見たような気がしたが、アギーはやはり何も聞けず、何も言えなかった。






 勝手知った雰囲気でアッカーソン将軍が向かった先は、休憩用の小さな個室だった。ソファーと脇机、水差しがあるくらいで調度品の類はほとんどない。つかつかと部屋に入った将軍は入り口で立つアギーを振り返った。

「何をしている。扉を閉めてこちらへ来い」

「はっ」

 指示の通りに扉を閉めるとパーティーの喧噪が遠くなった。隔離された空間が将軍の存在を意識させる。こうして部屋に二人きりになるのは婚約を告げられた日以来だった。居心地の悪さを覚えつつアギーは将軍に近付いた。いつもと同じく、かかとを合わせて直立する。見上げた先の将軍はやはり怒りを隠していない。理由の分からないそれが焼けそうな強さでアギーを刺す。

「・・・・・・先ほど私は君に自覚が足りないと言ったが」

「はい」

「何を指しているのか分かっているか」

 もちろん否、である。言葉に詰まったが、返事はすぐにという身についた長年の習性は変えられない。

「っいえ、申し訳ありません。分かりかねます」

 返事は予想どおりだったのだろう。将軍はあからさまに息を吐いた。

「知ってはいたがな。今認識を新たにした。―――中佐、左手を出したまえ」

「え・・・・・・はっ」

 本人は分かっているようだが、アギーには何が何だか分からない。ためらいがちに掌を上にして持ち上げた左手は迎えに来た将軍の手にがしりと掴まれる。

「遠い」

 苛立たしげに言われ、そのまま荒々しく引き寄せられた。ある程度保っていたはずの距離が近付き、将軍の影が落ちてくる。アギーは掴まれた手の大きさの差に、ルキウスに掴まれていたライオネルの手を何となく思い出した。

 まさか今更握手でもするのか、しかもなぜか左手で。

 内心で首を傾げたアギーをよそに、存外に丁寧な仕草で手袋が外された。日に当たらないせいで白いままの掌が現れる。

「な、何を」

 素手を曝させた張本人は、今度は乱雑に手袋を脇机に放り投げた。掌が手の甲を上にしてひっくり返される。そのまま視線が指に落とされ、更には将軍の親指がアギーの薬指を上からなぞった。その感触に思わずひっと息を呑み、ますます意味の分からない状況に混乱する。

「あまりに小さすぎて嵌まるのかと疑問に思ったが、これほど細いのならば納得できる」

 おずおずと見上げた先、何の感情も窺えない表情でアギーを見下ろす将軍がいる。そこまできてようやくアギーは気付いた。そっと取り出された小さな箱。薬指。

「君をこれ以上野放しにしてはならないと分かった。鎖は早く繋いでおくに限る」

 ―――どこの野獣の話だ。私のことか。

 心の中で悪態をついている間に、薬指に嵌められたそれ。薄暗い室内でも鋭く光るその冷たさは将軍と似ている。閣下の婚約者という実感のわかなかった言葉が、ついに目に見える形に姿を変えて迫ってきた、そんな気がした。

 指輪の嵌められたアギーの手を持ち上げ、将軍は目を細めた。先ほどルキウスに対して見せたものと同じ表情だ。それが彼のどんな感情を表しているのか、まだ分からない。

 もう一度薬指を撫でて将軍は小さく頷いた。

「これでいい」

「あ、ありがとうございます」

「礼などいらん。早急に鎖が必要だと分かったから渡したまでだ。目の届かないところでどこぞの部族長に乗りこなされては困るからな」

「っな」

 吐き捨てられた言葉の意味を理解すると同時に、アギーは将軍の苛立ちや怒りの理由がようやく分かった。

 要するに不貞を疑われていたのだ。

 由緒正しい軍人貴族の家に嫁入りする女が、特定の異性と近い距離にいたら確かに醜聞だろう。しかしあんまりな言いぐさだった。アギーだけでない、ルキウス(部下)への侮辱に思わず反論が口をつく。

「エフェソス中尉は小官の副官です。それ以上でも以下でもない。お疑いは意味をなしえません」

「君にとってはそうかもしれないが」

 ルキウスにとっては違うと言うのだろうか。疑問に答えを求めるよりも早く、再び勢いよく手を引っ張られた。突然のことによろめいたアギーは、気付けば将軍の腕の中にいた。

「申し訳ありませ・・・・・・」

 離れようとするも将軍の腕が腰に回り、離れるどころか逆に距離を無くすことになった。慌てて見上げれば想像以上の近さに将軍の顔があった。その目には消えていたはずの怒りが戻っている。焦るアギーを見下ろす視線に捕らわれ、身動きができなくなった。骨張った指が持ち上げられ、ゆっくりとアギーの頬の輪郭をたどり始める。顎まで滑った指は離れて今度は頭に向かい、感触を覚えようとするようにまとめられた髪をなぞる。あそぶように指に絡められる。

「・・・・・・私は、自分がこんな子どものような感情を抱くとは思わなかった」

 静かな口調は将軍が抱いているその感情が何かを悟らせない。指は止まらず、アギーの髪を撫で耳の後ろから頬をなぞるのを繰り返した。

「自分のことでは怒らない君が、あの部族長のことでは反駁する。それだけで私はこれほどに苛立っている」

 機械のように淡々と言葉を紡ぐ様子が怖い。

「君に誰より早く目を付けたのはこの私だ。それを突然沸いて出た中尉などにかすめ取られるのは我慢ならん。例え鎖を繋いでも安心はできない。そして私自身が悋気を持て余しているのも事実だ。―――中佐」

 びくりと肩を震わせて条件反射で返事をする。

「はっ」

「君はエフェソス中尉を名で呼んだことはないと把握しているが」

 話の向かう先が見えない上に突然の飛躍について行けず、無言を返したアギーは将軍の顔からますます人間味が失われていく過程を見てしまった。

「違うのか」

 いつかと同じ流れだ。異なるのはそれが今まで聞いたことがないほど低い声であるということ。得体の知れないものを感じてアギーは慌てて首を振った。

「いえ!ありません」

「そうか」

 空気が弛緩して思わず胸をなで下ろしたが、休憩する暇は与えられなかった。

「では中佐、私の名を知っているか」

「は、はい。それはもちろん存じております」

「呼びたまえ」

「え」

 全く意味が分からなかった。口調も表情も冷たいのに、腰にまわされた腕が熱い。髪や頬をたどる指も熱い。この熱の意味も話の意味も、何もかもが分からない。

 焦れたように将軍の手が顎にかかり催促するように指が唇をなぞった。

「呼べ」

「い、いえ、しかし」

「嫌か」

 はい嫌です、などとは口が裂けても言えずアギーは首を振った。

「っそういうわけでは」

「それなら―――ああ、なるほど、こういうのは私の方から言うのが道理か」

 何かに納得したらしい将軍は、次の瞬間には無表情のまま言い放った。

「君は既に私の婚約者だ。名を呼べ、アギー」

 すさまじい衝撃だった。あの閣下から自分の名前が飛び出す光景など、想像したこともなかった。いや、夫婦になったところで想像がつかないと少し前までは思っていたはずだ。それなのにこんなに早く現実に起こるだなんて。

 魚のように数度口を開閉させて、アギーは白旗を揚げた。こうなってしまってはもうどうしようもないではないか。結局のところ、勝てる相手ではないのだ。

「ブレンダン、様・・・・・・」

 ためらいを多大に含んだ声は消え入りそうになってしまったけれど。それでも明確に聞き取ったらしい将軍はまた目を細めた。その顔を近い距離で見ることになったアギーは、ほんのわずかに将軍の唇の両端が上がっているのに気付いた。マダムにそっくりなあの嗤いとは似ても似つかない。よほど「笑顔」に近いその表情。何となく見覚えがあって、アギーは記憶をたどった。いつだったかと考えれば答えはすぐに出る。

 そう、十代の時のことだ。アギーがマダムに放り込まれて陸士校に所属していた頃。休んだ教官の代わりに臨時で座学の授業を行いに、見覚えのない教官がやってきた。やたらと難しい授業だった。当てられた問いに何とかアギーが答えた、その時の教官の顔。偶然一番前に座っていなければ分からなかっただろう。

 すっと目を細め、一見しただけでは分からないくらい少しだけ口の端を上げて。

 ぴたりと重なった。そうだ、あの時のあの顔。そして教官は何と言ったのだったか。

 それまでと全く変わらない低く冷たい声音でたった一言。

「―――よくできたな」

 呆然とアギーは将軍の顔が近付くのを見ていた。唇に柔らかい感触。

 アッカーソン、教官。

 吐息に近い、音にならないままのそれに、将軍はもう一度唇を重ねることで返してきた。

「君はあの時から私が目を付けていた。諦めて私の妻になれ」





 

 アギーが何とか我を取り戻したのは、将軍と別れて収集品部屋に戻る途中のことだった。正しくは、帰る場所が分からない子犬のように意気消沈したルキウスを見てからだった。

 目が合うとそれこそ尾を振るように目を輝かせたルキウスに、いつものようにアギーも笑みを返そうとする。しかし挙げかけた左手はぴたりと止まった。一拍置いて、その手は空気を握りながら身体の横に落ちた。

 ―――中佐、これの意味を忘れぬように。

 別れる間際、アッカーソン将軍はアギーの左手を持ち上げて、手袋の下、銀の輪が光るはずのそこに唇を落とした。手袋越しの息づかいが、戒めのように囁かれた言葉がルキウスの前に左手を無防備に見せることをためらわせた。

 明らかに不自然な動きにルキウスははっと息を呑み、次いでその不自然な動きをしたのが左手であることに気付き、顔を強張らせた。ただでさえ聡く、加えてこの数年間で帝国の風習にずいぶんと長じた彼が断片的な情報を繋ぐ糸を見逃すはずがなかった。

 別れる前に彼が見せた壁を作った態度が思い出されて、アギーは慌てて口を開いた。

「待たせたな、中尉」

 いたたまれない空気が構築される前に、アギーがわざと明るい声でそう言えば、ルキウスは逸らせた視線をそっとアギーに戻した。日常と変わらない笑みがゆっくりと口元に形成される。いつもの二人、つまり隊長と副官という関係性に戻った瞬間だった。

「そう遅くはならないと思いましたし、かといって一人でパーティーの会場に戻る勇気もなくて」

 アギーは大仰に頷いた。

「ああ、それは賢明な判断だ。あの場は得体の知れない魔物のようなものだからな。経験が浅いと対処を間違えて取り込まれる」

「ええ、それは分かるように思います」

「そうだろう。頻繁に呼ばれることはないだろうが、もしこれからも参加することがあるならば、私を含め信頼できる者に張り付いておくのが最善だろうな」

「はい」

 心持ち声をひそめて廊を進む。何度も繰り返してきたようにルキウスはアギーの少し後ろを歩く。話のついでに肩越しに振り返れば、部下の顔には隠しきれない疲れがにじんでいた。体力的な疲れではない。精神的なそれだろうと、アギーは当たりを付けた。

「もういい時間だし、マンスフィールド将軍に暇乞いをしても咎められはしないだろう」

 アギーの気遣いが分かったのか、ルキウスは少し眉を下げた。

「よろしいのですか?」

「うん?魔物に対抗する気力がまだ残っていると言うのなら、君を連れて再び立ち向かうのもやぶさかではないが?」

「いえ!もう結構です」

「素直に最初からそう言っておけ」

 例のようにけらけらと笑って、アギーは自然さを装って今度こそ左手を持ち上げた。

「実を言うと私が帰りたいというのが本音だ。先ほど閣下に婚約指輪をいただいた。いよいよ結婚が真に迫ってきて私はいっぱいいっぱいだ。もうこれ以上詰め込まれては困る」

 冗談めかしてひらひらと左手を振る。のってくれ、その願いは通じたようで、低い笑い声が聞こえた。

「詰め込みきれなくなったらいつでも仰って下さい。お話を聞くくらいならできますから」

「ああ、その時は頼りにさせてもらおう。・・・・・・しかし副官に気遣われるとは私もまだまだだなあ」

 いつもの空気。安心する後ろの気配。軽口を交わしているようでお互いへの信頼や心遣いが芯にある会話。アッカーソン将軍との婚約がなければ、もしかしたらルキウスと夫婦になる未来もあったのかもしれない。

 ルキウスはアギーに気があると将軍は言った。先ほどのルキウスの態度がそれを表していたのだとしても、アギーが問い詰めることはしないし信じることもしない。皇帝陛下の勅定と薬指の鎖がある以上、もう他の道など見てはいけないからだ。

 だがルキウスとの夫婦としての毎日が、将軍とのそれよりもたやすく想像できるのは確かだった。共にいた時間も醸成された信頼も全てが勝るのだから当然だ。きっと互いを尊重しあったまま、言い換えれば今と変わらない関係が、夫婦になったところで同じように続くのだろう。恋愛感情が見当たらなくてもきっとそれは居心地のよい優しい時間だったに違いない。

 心の中でため息をついた。

 マダムCのこと、ルキウスのこと、そしてアッカーソン将軍のこと。

 今まで見ようともしなかったことがここに至ってその存在を主張する。けれどそれらに対していくら考え込んだとしても、何をどうすればいいのかなど結局は見つからないままだ。

 軍人として、聯隊長として、マダムの娘として。

 ひたすらにこの道を行くしかないのだろう。これまでもそうだったように。

 例え、この身が未完成品であったとしても。








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