間章
帝国内でも北部に位置する帝都の冬は早い。帰還して数週間後には、身体の芯まで冷えきってしまう気温が連日続くようになった。初雪こそまだだが木枯らしはとうに冬の訪れを告げ、屋敷の暖炉は毎日その勤めを果たしている。
将軍邸にて貴族を招いた戦勝祝いのパーティーが開かれるこの日、アギーは自身の屋敷にルキウスを呼び寄せた。第四聯隊副官として招待された彼を馬車に乗せるためだ。服装こそいつもの軍装でいいものの、ある程度の身分の者たちが集まるパーティーに徒歩で向かうことなどあり得ない。貴族でないルキウスが馬車を持っているはずもなく、もれなくボートン家の所有する馬車に相乗りすることになったのだった。聯隊長と副官という立場なのだから問題はない。
事前に知らせておいた定刻どおりに現れたルキウスは、卸したての制服とコートを窮屈そうに身につけて初陣のように顔を強張らせていた。実際、社交界が狐狸の集まる生き残りを懸けた戦場と思えば初陣という表現は間違っていない。
向かいに座る副官に笑いを耐えながら、アギーは御者に行き先を指示した。それを聞いたルキウスが疑問符を浮かべる。
「マンスフィールド将軍の邸宅へ向かわないのですか?」
「緊張で引きつった顔をした副官を従えて行けると思うか?」
「っ、申し訳ありません」
「いい。どうせそんなことだろうと思って早い時間を指定したのだ」
馬車が止まったのは、帝都の中では少しばかり寂れた地区だった。馬車を降りると途端に身を切る風が突き刺さる。アギーはマフラーを口元まで引き上げると足早に目的の店に向かった。申し訳程度に敷かれた石畳は所々剥落して歩きづらい。躓きそうなその道は幼年の頃には慣れ親しんでいたものだ。
変わらないなとマフラーの下で笑みをこぼしながらふと逸らした視線の先、ささくれだった板塀に近くの小劇場で公開している劇のちらしが貼られていた。古い板塀に真新しい紙は何ともちぐはぐだ。紙の上から女性が艶やかに流し目を寄越してくる。薔薇のように真っ赤な口紅、一見涼やかだが底に抑えきれない熱を抱いた瞳。
『ルクレツィア~愛に生きた女~』
アギーは聞き覚えのあるその演目に記憶を掘り起こして、そう言えば姉からの手紙にあったと思い出した。人気の劇作家が手がけた作品で、特に若い女性の間で流行っているとか。
「上官殿は劇を観に行かれるので?」
視線に気付いたのだろう、いつものように後ろを歩いていたルキウスが聞いてきたので、アギーは肩越しに振り返った。
「ああ、演劇は好んで観ている。特に好きなのは惚れた腫れたの愛憎劇だな。複雑な男女関係と彼らの心の機微がたまらない」
大きな男が眼をまん丸にしているのを見てアギーは眉を下げた。
「おい、なぜ疑わない。冗談に決まっているだろう」
「冗談なのですか」
「冗談に聞こえないほどあり得そうなことなのか。いくらなんでも落ち込むぞ」
「いえ、あまりに予想外すぎたもので。反対にそういうこともあるのかと」
「ない。そもそも娯楽にうつつを抜かしている余裕などないだろう。私が現実に対処することで精一杯なのは君も知るところだ」
でも、と通り過ぎた板塀をもう一度振り返る。一回二回くらいはそういった類のものも忌避せずに観ておけばよかったのかもしれないと思った。憧れがあるわけではない。けれどこのままだと恋も愛も得体の知れないものという認識のままに結婚することになりそうだから。
考えていたことが分かったのかそうでないのか、ルキウスは切なさのような憐れみのような複雑な感情を乗せてアギーの横顔を見つめていた。
たどり着いたそこは表通りから外れた知る人ぞ知る、隠れ家のような店だった。看板を見上げて戸惑うルキウスに、アギーは赤いマフラーの上から目だけを覗かせて笑う。
「骨の髄を温めつつ緊張をほぐしてから行くのも悪くはないだろう。・・・・・・まあ、要するに景気づけだが?」
扉を開けると、落ち着いた音でベルが鳴った。初老の主人がおやと目を見開く。
「これはボートン様、お久しぶりで。ご無事で何よりです」
「あなたもつつがないようでよかったよ」
「ええ、おかげさまで。そちらの方は・・・・・・?」
「エフェソス中尉。私の副官だ」
主人はなるほどと頷いて目元を和ませた。
「お二人ご一緒に、いつものでよろしいですか?」
「ああ、一杯だけ頼む。この後所用があって長居はできないのだ」
「かしこまりました」
カウンターに座り、所在なげにしているルキウスを手招く。図体のでかい男が身を縮めているのは何とも滑稽だった。
「副官、今からそんなでどうする」
「いえ、あまり帝都の店に入ったことがなく慣れないもので」
「ああそうか。確かに普段は上幹校に缶詰めだろうからな。息抜きにでもここはおすすめだぞ。いい物を置いている」
「もったいないお言葉で」
主人が静かにそう言いながらグラスを置いた。二人で手にとって、数週間前と同じようにそっと合わせる。控えめな高音が響いた。
「遅くなったがエフェソス中尉。お互いの昇進に」
「ええ。おめでとうございます、ボートン中佐」
流れ込んだ液体が喉と胃の腑を温める。無言のまま、何とはなしにお互いの左胸に目をやった。そこで光っているのはそれぞれの階級章だ。自分のではなく相手のそれを見て感慨を覚えるというのもおかしな話だったが、アギーはしみじみと呟いた。
「・・・・・・これで相応、というわけだな」
「そうですね。私はもう少し足りないように思いますが」
「いや、過去には大勢いるだろう。流石に少尉では珍しかっただろうが」
第四聯隊は他の隊と比べて兵士の総数が少ない上に副隊長がおらず、実質副官であるルキウスがその役目を負っている。さらには隊長が少佐、副官が少尉という階級違い。その決定にマダムCの威光と地方部族への配慮があったのは明白だ。
様々な面で第四聯隊は規格外だったのだ。その特異性が今回の昇進で少し埋められたことになる。
「四聯の総員も今後増えるだろうな。まあ、しばらくは戦地に送られることもないだろうけれど」
「消化の時間ですか」
「そうだ。この十年、帝国の歴史は戦争の歴史だ。まだまだ国境はきな臭いが、ここらで内側に力を入れないと次が危うくなる。だから君も座学を究めるなら今のうちだぞ。実戦はこれからも嫌というほど行うことになるだろうから」
「肝に銘じておきます」
「そうしておけ」
しばらく静かにグラスを傾ける時間が続いた。早い時間なのもあり他に客はいないため、二人が黙ってしまえば店内に響くのは主人がグラスを拭く音くらいだった。アギーはぼんやりと視線を宙に浮かべて、なんだかんだと忙しなかったこの数週間を思い出していた。ふと、ルキウスが自分を見ているのに気付く。どうした、そう問おうとした一拍前に彼の口が動いた。
「・・・・・・上官殿」
「ん?」
言い辛そうに数度口を開閉させた彼は、思い切ったのかぶつかるようにアギーを見た。
「閣下とはその後、どうなのです」
勢いに反して声はどことなく心許ない。心配していたものの気を遣いすぎて言い出せなかった、そんなところだろうと検討を付ける。心配など必要ないとアギーは手を振った。
「私も後処理で忙しかったし、閣下は輪をかけてそうだろう。あれからお目にかかっていない」
「しかし、婚約が近いのでしょう?」
アギーは隠さずに眉を寄せた。そこに至極真剣なルキウスの視線が突き刺さって、押されるように口を開いた。
「ああ、そうだな。一応準備があるから手紙のやりとりはしているのだが」
それが問題でな、とため息交じりにこぼす。本当にルキウスが心配するようなことではない。ないのだけれど、気を許している相手であるだけに思わず掛けていた鍵を外してしまった。
「閣下は、手紙に合わせて花束と、なぜか軍事書を送ってくる」
「は?」
この季節にどこから調達してくるのか、目にも鮮やかな花束。そして無骨な軍事書。花束はまあ、未来の婚約者に対する体裁があるのだろうと捉えた。しかし軍事書は一体どういうことなのか。
「最初は贈り物だと思ってありがたく頂戴した。読んだ感想を礼と共に手紙にしたためて送ったのだが」
それが一度で終わらなかった。
「毎回美しい花と分厚い軍事書を送られてみろ。しかもそれが、喉から手が出るほど欲しかったが手に入らなかった貴重書だ。悲鳴を上げるくらいに嬉しい、嬉しいがな?一に合理性、二に実益を求めるあの閣下だ。一体何を考えておられるのか私には予測がつかない」
アギーは首を振りながら肘をついた片手で目を掩った。そのせいでルキウスと主人が互いの顔を見合わせたのに気付かなかった。主人に視線で急かされたルキウスが口を開く。
「上官殿、その・・・・・・閣下は単に上官殿が喜ぶと思われたのでは?」
じろりと副官を見上げていつになく荒んだ調子でアギーは笑った。
「それはそれで、何を考えているか分からず恐ろしい」
「いえ、ですから上官殿を喜ばせたいと」
「私を喜ばせて一体どうしたいのだ。一度持ち上げて落とす戦法か?やりそうだな、あの閣下なら」
これは駄目だ、と二人はこっそり肩をすくめた。
「閣下の考えが分からない故に、毎回感想の方に比重を置いてしまっている。閣下から送られてくるのも私の感想に対する感想だ。もちろん新しい軍事書を合わせてな」
要するにきりがないのである。アギーは自棄になってグラスを傾け、それからしみじみと思った。
―――私は一体何をやっているのだ?
以心伝心か、その答えはルキウスが言葉にした。
「閣下との軍事談義、ですね」
「・・・・・・その通りだな。もしかして軍人貴族と結婚する女は誰しもがこんな文通をするのだろうか?いや、それとも単に閣下は私に知識が足りないと言っているのか?」
いっそ閣下とではなく軍事書と結婚するのならそれもいいと思い始めている今日この頃である。
お互いに最後の一口を流し込んで席を立つ。そろそろ時間だった。窓の外はとっぷりと闇に沈み、冴え渡った冬の月が夜空の主になっている。
念のためとルキウスを確認するが、多少顔の血色がよくなったものの酔った様子はなかった。もちろんアギーも酔ってはいない。お互いうわばみだということはとうの昔に知っていた。
コートとマフラーを身につけ、主人に挨拶する。
「主人、近いうちにまた来る。その時はゆっくりさせてもらうよ」
「ええ、お待ちしております」
主人の笑みに、アギーは唇の両端をきゅっと上げて返した。少女の時と変わらないな、と酒場の主人が思ったことなどアギーは知るよしもない。
「さあ、中尉。これから魑魅魍魎のはびこる戦場だ。気を引き締めて行くぞ」
「はっ」
ベルの音と共に店を出て行く姉弟のような二人の背を、酒場の主人は目を細めて眺めていた。
「―――ご武運を」
アギーはひらり、手を振った。
冷気に満ちた夜空の下、待たせていた馬車まで早足で向かう。二人で乗り込んで今度こそ将軍宅へと向かったのだった。