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イエス、マム






 アギーの記憶の中で、マダムCは口元にいつも皮肉な笑みを浮かべている。瞳をニヒルに細めている。その表情をしている時、マダムは対峙する人間のとれかけたボタンを探している。彼女の目はどんな小さな糸のほつれでさえ見逃さない。

そしてそんな「粗」、もしくは「隙」を見つけた時、マダムの皮肉な笑みはさらに深まり、ニヒルな瞳は打って変わって意地の悪い光をちらつかせる。醜悪さを醸し出す。その表情は、いい餌を見つけた、どうしてやろう。そう言っている。

 幼いアギーがマダムと初めて会った時、初めて視線を交わした時、やはりマダムはその表情をしていた。衝撃を受けた。もちろん、アギーは醜悪な顔をする大人をそれまでにも見ていた。しかしそういった人間はその醜悪さに見合った容姿をしていたのだ。幾層にもぶるぶると震えるあごの下であったり、悪魔でも孕んでいるのかと思うほどに飛び出た腹であったり。だからこそ理解できなかった。女神もかくやという美しい女性のそんな表情に。

 頭を撫でてくれる教会のシスター。いつも飴玉をくれる老婦人。

 彼女たちと目の前の女性は違うのだと、嫌でも分かった。受けた衝撃は、その大きさの分だけアギーの心にマダムの笑みを印象付けた。

 故に、二十年近く経っても故人は記憶の中でその顔をしている。

 記憶と夢が繋がったこの夜、出てきたマダムはやはりその表情だった。夢でくらい再会を喜んでくれてもいいのに、マダムは頑なに醜悪でいようとする。

 夢の中のマダムは、アギーをじっと見つめていた。ふと赤い唇が動き、突き放すように言葉を吐き捨てる。

 ―――お前は、完成品だ。

 ―――唯一にして至高の完成品。

 そして嗤った。あの醜悪な嗤いを浮かべて、言った。

「だからこそ、美しく死ね」

 この言葉は、マダムの存命中にアギーが実際に言われた言葉だった。マダムがアギー個人に対して言った、最期の言葉だった。最後の命令だった。それが命令であったならば、夢だろうが現実だろうが絶対だ。直立し、かかとを合わせた。右手を持ち上げ、敬礼。マダムの命令に対してアギーが許されている返答はたった一つ。

 ―――イエス、マム。






 東部国境での連合軍との戦争は大詰めを迎えていた。終始有利に戦況を進めていた帝国だったが、この日も司令部では抜かりなく軍議が行われた。敵軍最後の要塞を制圧するための打ち合わせだった。一聯隊長(れんたいちょう)として参加していたアギーは、軍議の後で他ならぬ司令官に呼び止められた。

迫る戦いの準備へと飛びかけていた意識を慌てて呼び戻し、両足をぴたりと張り合わせて一本の棒のように直立する。

「お呼びですか、閣下(サー)

 十数年間繰り返してきたこの動作は、呼吸をするのと変わらない。変わらないはずだったが、なぜか昨晩の夢を思い出させた。夢の中の自分。いや、マダムCの最後の命令を受けた、数年前の自分だ。今現在司令官と対面している自身と、あの日マダムCと対面していた自分。双眼鏡のずれていたピントが合うように、一瞬だけ重なった。こうして立つアギーをマダムの視線が射抜いた、あの強烈な感覚がよみがえりそうになるのを慌てて押さえつける。

 視線、仕草、表情。

 嫌になるほど似ているのだ。そのために、アギーはこの司令官が好きになれなかった。上官として信頼している。戦場で命を預けるに足る人間だと知っている。しかしだからと言ってその人間を好ましく思うかどうかは別なのだ。

 直立不動で見上げるアギーを、司令官は冷えた瞳で見下ろしてきた。薄い唇でこれから紡がれる声も冷えていることをアギーは知っている。

「こたびの連合軍との戦いも、君が指揮を執る聯隊ならば問題はあるまい」

「ありがたきお言葉です、閣下」

 一応、形式を踏まえて礼を口にする。褒められている気がしないのは、実際に彼が褒めていないからだ。

「脳のない愚かな者たちは排した。そうしてしかるべき位置にしかるべき者を置いたのだ。連合軍など烏合の衆と変わらぬ。そうは思わないか、少佐?」

 疑問の体裁を取りながら、それは断言だ。肯定、それ以外の道はない。

「おっしゃる通りです、閣下」

 見上げる先の男の目は変わらず冷たい。その視線の先にいるのはアギーだけだ。ふと思った。……まだ、私は崖の上にいる。

 当戦役における司令官、ブレンダン=アッカーソン将軍閣下は合理的な人間だ。彼は、彼の決めた未来を確実に連れてくる部下しか視界に入れない。例えばアギーがこの戦役で失態を犯したならば、崖の上から真っ逆さま、海の藻屑と散るだろう。つまり無かったことにされるのだ。アギーの上にいた「脳のない愚かな者(上官)たち」と同じように。

 わずかに震えた背は恐怖からではない。強いて言うならば武者震いだ。迫りつつある敵に小銃を構え、撃ての号令を待つばかりの新兵の気分。

「ボートン少佐、私は君に期待している。君の聯隊にもな。故に四聯を今回の作戦における要としたのだ」

「ご期待に添えられるよう務めます、閣下」

 ぐにゃりと、見上げる先の顔が変化した。既視感どころではない。あの笑みそのものだ。皮肉な笑み、意地の悪い目の光。

「期待に添う程度では困る。私の期待を越えろ。奴らの気概すら踏みつぶせ」

 命令。数年前のあの時と同じ状況。

 マダムCも戦を控えたその日にアギーを呼びつけた。そして「美しく死ね」、そう遺して死んだ。マダムの姿を振り払いきれないまま、アギーはあの時と同じくまっすぐにその人を見上げた。それが命令であったならば、受けるほかない。

 完全に司令官とマダムを重ねてしまっていた。発射薬と雷管(プライマー)が一つになったニードルガンの紙薬莢のように、二人を紙で一緒に包んでしまった。だからこそ、間違えた。

 直立し、かかとを合わせ直せば軍靴が小気味よい音を立てる。同時に右手を持ち上げ、敬礼。許されている返答は一つ。イエス、サー。頭では分かっていたはずだった。しかし口は別の言葉を紡いでいた。

「イエス、マム」

「・・・・・・」

「イ、ロード」

 誤って引き金(トリガー)を引くと同時に、ニードルに突かれた雷管の火花により、発射薬が燃焼。その圧力で弾丸が飛び出した。飛び出した弾丸とはすなわち、嫌な沈黙である。入り口付近で待機していた副官が俯いて、無言のままに肩を震わせているのが目の端に見えた。

 分かっている。何とも無理矢理なごまかしだったことは。

 しかし、しかしだ。行動を誤ったのなら、被害が最小限になるように最善を尽くさねばならない。この法則に則れば、そう、これは最善のごまかしではないか。「イエス、マイロード」も間違いではないのだから。

 頭の中で言い訳をしながら、アギーは上官の目が絶対零度の冷たさでもって自分を見つめるのを感じていた。いつもの冷たい目にはさらに上があったのだな、そんなことを思った。








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