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20. 冷静に考えたら俺がおかしかったわ

ぼくはパイオニアになる

 用水路の水は思ったよりも冷たく俺を突き刺した。まだ乾ききっていない狼の血で用水路の水が染まる。穢れを払うかのように俺から滲み出る赤黒く濁った水が帯になって流れていった。俺は体中を擦りながら汚れを落とした。一刻も早く、あの血と肉と悪臭の世界から逃れたかった。汚れを落としていくと視界が開け、焦燥感も汚れと一緒に流れて行くようだった。冷たい水が俺の心と体を現実に引き戻してくれる。汚れを落とし終えて用水路から上がると、世界は元通りになっていた。


 冷えた体に降り注ぐ日光が心地よい。昼過ぎの太陽はカンカン照りで空は鮮やかな紫色だ。何百回と見ても見慣れない空の色だ。自分が異物なのだと嫌でも理解させてくる。この空を見ても異世界に来たのだと心躍ることが無くなったのはいつからだろうか。


 そんなクソどうでもいい感傷にひたりながら、ずぶ濡れの体と服が乾くのを待っていた。川辺の岩の上で体育座りで待っていた。頭から用水路に飛び込んだから体中ずぶ濡れだ。ビッシャビシャのビッチョビチョだ。何をやっているんだ俺は。

 なんかわけのわからない思考の迷路に迷い込んでしまっていたが、冷えた頭で考えたら単純な話だ。手が汚れきっているのだから、大事な本を触らせるわけにはいかないのだろう。当たり前だ。俺が持ち主なら、ぶん殴ってでも止める。

 そもそもあんな汚れきった状態で入ってきたら、見た瞬間に”ゲラウトヒア!”と叫ぶだろう。そんで、後から掃除させる。ピッカピカのテッカテカになるまで掃除させる。いっそ床を舐めさせる。床を舐めさせて、頭を踏みつける。他人の頭を踏みつけたら興奮するだろうか。そうして新しい扉が開くかもしれない。オープンザニューワールドだ。

 だが誰しも他人の頭を踏みつけて楽しめるものなのだろうか。少なくとも俺は他人の頭を踏みつけても興奮しなさそうだ。ニューワールドへの入り口は開きそうにない。開かずの扉だ。しかし開かないからこそ開けてみたいという気持ちもある。俺の英雄力が試されているということか。床を舐めさせながら頭を踏みつけて興奮できる英雄に俺はなるのだ。それが俺の英雄道だ。おそらく前代未聞の英雄だろう。

 人と同じことをしていては、大事は成し遂げられない気がする。俺はパイオニアになる必要があるのだ。そういう意味では床を舐めさせながら頭を踏みつけて興奮できる英雄は、新時代の英雄、英雄界のパイオニアといっても大過なかろう。大きくなったらナーシル先生に床を舐めさせながら頭を踏みつけよう。その時には気の利いた台詞が言えるように備えておこう。どうすれば、より興奮できるのか。どうすればナーシル先生を恥辱にまみれさせることができるのか。ちゃんと考えておかなければならない。これは宿題だな。


 だいたい俺は焦ると碌なことをしでかさない。急に突飛なことをして周りを困惑させてしまう。焦っておかしなことをしだす変なやつだと認識されてしまう。まだそれはいい方だ。ポジティブ野郎どもは、こいつは実は行動的な人間なのではないかとか、実はユーモアのある人間なのではないかとか思われてしまう。いつもは大人しいのだから、余計に印象が強くなる。そんな期待はいらないし、不当な評価だ。俺はただ焦って錯乱しているだけなのだ。こうしなきゃいけないと思い込んでしまって、視界が極端に狭くなってしまう。目の前しか見えなくなってしまうのだ。それが最適解にびったしであれば良いのだが、概ねそんなことはない。今回のように周りから静止されなければ取り返しのつかないことをしでかしてしまうと洒落にならない。危うくナーシル先生の大切な財産を毀損してしまうところだった。もしナーシル先生が出かけていたらと思うとぞっとする。

 それに冷静になると恥ずかしくなってくる。血と肉と悪臭の世界ってなんだよ。そりゃ突き刺せば血もでるし、肉もはみ出すだろうし、内臓は臭いだろうよ。当たり前じゃねぇか。そんなことやる前からわかっていることだ。どんだけ婆さんと魔物殺してきたんだよ。狼を目の前にして昂ぶってしまったのだろうか。アルは俺の心に特大の棘をぶち込んで逝ってしまったということか。今後は感情を抑えるように努力しよう。あまり昂ぶってしまうと、わけのわからない行動に出てしまう。だけど、狼は殺す。絶対に殺す。ただし、冷静に殺そう。冷静に落ち着いた気持ちで殺そう。平常心で殺す。普段の生活の延長線上で狼を殺せるようになろう。平常心でこの森から狼を駆逐するんだ。手のひらに人の文字を書いて飲み込んでから狼を殺そう。それに無意味に死体蹴りするのもやめよう。殺したら野ざらしだ。あいつらには革すら残させない。あいつらは死んだら情けない死体を公衆に晒されるのだ。そして森の愉快な仲間たちに食べられるのだ。素晴らしい。あのクソどもにお似合いの最後だ。俺は冷静だ。


 ともかく俺は混乱耐性が低すぎるのだ。混乱魔法を使ってくる敵は俺にとって致命的だ。そもそもそんな魔法があるのかどうか知らないが。ってか混乱耐性って何だよって話だ。38年もこんな感じで生きてきたのに、どうすればいいんだ。何があっても動じない不動の心を養う必要があるのだろうか。俺の浮動の心は、そよ風にすら流されてしまう。一瞬で遥か彼方に流されていく。この世界で心理セラピストなんてモダンな職業の人がいるとは思えない。自分でなんとかするしかないが、どうしようもない。あきらめよう。俺を導いてくれる人を見つけ出そう。頼れる上司を見つけ出すのだ。やはり他の転生者を見つけ出す必要があるな。それにしても、あいつら今どこで何してんだろう。この広い世界で出会うことなんてできるのか? まぁシーウォに聞くしかないな。毎日、祈りをささげてたら、夢枕にでも立ってくれるだろう。


 そよ風と、照りつける太陽によって俺の体は乾きつつあった。半乾きだ。下手をすると嫌な臭いが残るやつだ。もう少し乾いたらナーシル先生のところに戻って謝ろう。そして扉と床を掃除するのだ。床を舐められるぐらい綺麗にしよう。いっそ床を舐めよう。そして頭を踏んでもらうのだ。ナーシル先生 オープンザニューワールドだ。新生ナーシル先生だ。聖職者のイメージをぶち壊してもらおう。殻を破ってこそ人間は成長するのだ。俺はナーシル先生に成長の機会をあげよう。神聖な神殿で新生ナーシル先生爆誕だ。何の話だ。早く乾かねぇかな。風邪ひきそうだ。

新たな世界への道が見えてきた

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