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19. まぁ落ち着けよ

やまだ は こんらん している

 俺は息を切らしながら神殿に駆け込んだ。時の流れが止まっているかのように静まり返る神殿に、勢いよく開けた扉の音がおごそかに響き渡った。窓から差し込む光が、血と泥にまみれた俺をくっきりと映し出している。俺に染み付いた血の臭いは、この場にふさわしくないと、ことさらに主張しているかのようだった。


「おや、どうしたんだい。怪我でもしたのかい。」


 ナーシル先生は、今日も変わらず穏やかな笑みを崩さず声をかけてきた。血と泥で床が汚れたことをとがめることもない。ここはいつもと変わらない。穏やかで静かで優しい世界だ。俺はいつもの世界に帰ってこられたのだろうか。


「あ、えっと大丈夫です。あの僕、狼を殺したんです。僕、一人で殺したんです。それで、その、本を読みたいんです。本を読まないといけないんです。」


 俺は息を切らせながら答えた。とにかく一刻も早く、あの血生臭い世界から逃げ出さねばならないのだ。俺はいつも逃げてばかりだ。


「ガズ君、落ち着こうか。怪我はしていないんだね?」


「あの、すみません。怪我はないです。大丈夫です。」


 落ち着いてなどいられない。こうしている間にも、あの血生臭い世界が俺の中で大きくなっていく。血と臭いが俺に染み付いていく。あの子狼の甲高いうめき声が耳に響き渡る。


「それは良かった。それで、どうして本を読みたいんだい?」


「えっと、さっき子どもの狼を見つけたんです。それで狼を見つけたら殺さなきゃって思ったんです。絶対に殺さないといけないって思ったんです。それが僕の使命だと、僕が生きている意味だと思ったんです。それで、狼を何度も刺して殺したんです。何度も何度も何度も刺したんです。でも、血がいっぱい出て内臓からは嫌な臭いがして、気持ち悪くて仕方がなかったんです。その血も肉も臭いも気持ち悪くて、そんなことをした自分も気持ち悪くておかしくなってしまいそうなんです。だから本を読みたいんです。本を読んで優しい物語の世界に行きたいんです。そうしないと僕は血と肉と悪臭の世界に取り残されてしまいそうなんです。だから本を読まないといけないんです。」


 ナーシル先生、わかっただろう。俺は狼を肉塊にする装置に成り果ててしまったのだ。こんな世界のことは一度忘れ去らなければならない。


「まぁまぁ、落ち着きなよ。本を読むよりも先にやるべきことがあるだろう。まずその汚れを落としてきなさい。そうしないと絶対に本には触らせないよ。」


 押し通ろうとする俺をナーシル先生は止めに入った。いつもの微笑を崩さないナーシル先生だが言葉は怒気を帯びていた。俺は昔から、”あの人が怒っているのを見たことがない”と言われるような人を怒らせてしまう。今回もそうだ。ナーシル先生は怒っている。怒らせてしまうといっても、俺の被害妄想であることも往々にしてあった。怒らせてしまったに違いないと思い込んで勝手に萎縮してしまうのだ。しかし今回は間違いない。ナーシル先生はご立腹だ。明らかにいつもより声が低いし、”絶対に”のところで溜めが入った。これはお怒りでいらっしゃる。本には触らせないという熱い意思を感じる。何があの温厚なナーシル先生に怒りの感情を芽生えさせているのか。俺が何をしたというのか。俺にはわからない。そもそもわかっていれば、怒らせるような言動はしない。こんな穢れた人間には本を読む資格がないとでもいうのか。神殿に存在する資格がないとでもいうのか。わけがわからない。狼を殺したのがいけないのだろうか。こいつは狼の手先なのか。こいつも殺さなければならないのか。こいつもアルの仇なのか。臓腑をぶちまけさせてやらなければならないのか。何回突き刺せばこいつは死ぬのか。何回殺せばアルは救われるのか。何頭殺せばアルは帰ってくるのか。俺は何回死ねば、このわけのわからない世界から逃げ出すことができるのか。俺はこの世界を逃げ出したらどこに行くのか。地球で豚になるのだろうか。豚は毎日が楽しいのだろうか。狭い檻での生活はストレスがたまるのだろうか。そもそも豚は何を考えて生きているのか。屠殺される恐怖に怯えながら生きているのだろうか。結局、俺は何かに怯えながら暮らすしか無いのだろうか。豚語のスキルは無いのだろうか。あれば豚に聞いてみたい。あなたは毎日何を考えて生きていますかと、聞いてみたい。それよりもまず俺は何を考えて生きているのか。俺は何がしたいのか。狼を殺したいだけなのか。子狼を殺して満足なのか。俺の住むべき世界がそんな場所なわけがないと伝えたんじゃないのか。だから本を読みに来たと伝えたんじゃないのか。なのにどうしてわかってくれないのか。わからない。何もかもわからない。俺の頭が人よりも劣っているからわからないのだろうか。みんなわからないけれど、わかっているふりをしているのだろうか。わからないけれど、わからないなりに適当に折り合いをつけて生きているのだろうか。なんなんだ。みんな何を考えているんだ。何が正解なんだ。何を考えて何をして生きるのが正解なんだ。わからない。人のことがわからない。わからないから、人を怒らせてしまう。人を怒らせるのは嫌だ。やっぱり俺は一人で生きて、一人で死にたい。誰にも迷惑をかけず、誰の手も煩わせず、誰も怒らせない。一人で完結した人間になりたい。でも一人じゃ無理だとわかっているじゃないか。一人で生きていけるほど賢くも強くもない。どうすればいいんだ。どうすれば、どうすれば、どうすれば――。


「とにかく、落ち着いて手を洗ってきなさい。話はそれからです。」


 一人で考え込む俺に、ナーシル先生はもう一度汚れを落とすように促してきた。よくわからないときは人の指示に従うのが一番だ。何も考えずに済む。とにかく汚れを落とそう。血も泥も流し落とそう。すべて水に流すのだ。文字通り水に流して、一度ご破算にしてしまおう。すべてはそれからだ。少なくとも血と肉と悪臭の世界からは解き放たれるだろう。


 俺は神殿を出て、村の用水路に飛び込んだ。


湯船につかる前に汚れを落とさないやつは許さない

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