壁
『心霊探偵同好会』に入部した翌日の放課後。
俺は校庭の隅っこをひとりとぼとぼと歩いていた。
「暑い……」
照りつける太陽の光が容赦なく体力と水分を奪っていく。5月も後半に入り、気候はすっかり夏だ。こんな日は室内で静かに過ごすことが正解なのに、なぜ俺はこんなところにいるのだろうか。
全てはあの自称霊能者の残念美少女、今際零子のせいだ。
「今日は心霊探偵部初の除霊活動を行うわ! 放課後、体育倉庫前に集合よ。
あ、体操着に着替えてきなさい」
これはつい10分前、今際の口から発せられた台詞だ。おかげで俺は運動部でもないのに体操着を着て、大量の汗をかく羽目になってしまった。
時折ランニングをしている運動部員とすれ違うが、皆目がキラキラと輝いてる。俺のような死んだ魚の目をしている奴は皆無だ。同じ部活動だと言うのにどうしてここまで差が付くのだろうか。
ま、そんなこんなで散々な目にあっている俺だが今際と付き合う上でいくつかのルールを決めた。
その1、自分が霊能者であることは隠し、霊能力は一切使用しない。
まあこれは当然。俺は高校生活は静かに過ごしたい。そうなるとやはり霊能者であることがバレてはいけない。リスクもなるべく避けるべきだろう。
その2、今際零子の『自分が霊能者である』という思い込みを訂正しない。
これは随分悩んだ。そもそも今際が現実を正しく認識していたらこんな事態にはならなかったのだから。もちろん俺も何度か伝えようと思ったさ、だができなかった。喉の奥がキュッと閉まり、声が出なくなるんだ。やはり昔のトラウマが関係しているのだろうな。自分がされて嫌だったことは他人にはできない。それに今際の悔しそうな涙は2度と見たくなかった。
それに『間違い』は自分で気がつくべきだよな、うん。
なんて自分に言い聞かせていると、体育倉庫にたどり着いた。校庭の隅にポツンと建っておりどこか物悲さを感じる。
今際はすでに待っていた。日陰になっている体育倉庫の壁にもたれかかり、自分の前髪をいじっている。半袖シャツに膝丈スパッツ、いつも黒ストだから生足はかなり珍しい。想像した通りの、シミひとつない水々しい肌だった。
「おい、今際」
声をかけると、今際は飼い主を見つけた子犬の如く駆け寄ってきた。
「もう遅いわよ。次遅刻したら罰ゲームだからね」
こんな可愛げのない台詞を吐いているが、顔はまんざらでもない笑顔が溢れ出ている。仮に尻尾が付いていたらちぎれんばかりに振ってたことだろう。
こんなに喜んでくれるなら、悪い気がしないじゃないか。
なんとなく気恥ずかしくなり、今際から目線を外す。
「で、除霊をするって言っていたけど霊はどこにいるんだよ」
びっくりするほど霊の気配がしない。あるのはボロボロの体育倉庫だけ。
すると今際は俺を小馬鹿にしたように鼻で笑うと、
「はぁ〜やっぱり霊感ゼロのアンタにはわからないか。霊感ゼロだもんね、アンタ」
大事なことだから2回言いました、ってか。いかん、イライラするな。ここで言い返したら話がややこしくなるぞ。
俺は引きつり笑いを浮かべながら、
「そ、そうなんだよ。俺霊感ゼロだからさ、どこに霊がいるか教えてくれよ」
「ふふ、じゃあヒントをあげるわ。幽霊はこの体育倉庫のどこかにいるわ」
さっさと答えを教えろや。歳を聞いたら『何才に見える? 』みたいに質問で質問を返すめんどくさいOLか、お前は!
仕方なく体育倉庫を探してみる。トタンの屋根にコンクリート製の壁。長いこと雨風に晒されているせいか、泥やらボールの痕やらで激しく汚れている。外観には変わったところは見られない。そうなると中だろうか。
体育倉庫の扉を開けると、建てつけがあまりよくないのか、不快な金属が響いた。中にはサッカーボールや跳び箱などの運動用具が無造作に置かれているだけだ。やはり変わったところは見られない。
「全然わからん。早く答えを教えてくれ」
「本当にアンタ霊感ゼロね。いいわ、教えてあげる。幽霊はアンタの目の前にいるわ」
「目の前って……は? 目の前は壁だぞ」
「その壁よ、壁。よ〜く見てみなさい」
体育倉庫の灰色、いや、おそらく昔は白かったであろう壁を観察する。しかし汚いな。
「ね、わかったでしょ」
「いや、さっぱりわからん」
「あーもう、このシミよ。シ・ミ! 顔に見えるでしょ」
そう言って今際が指先したシミ。言われてみれば、顔に見えなくもないが。
「俺はどちらかと言うと、しょんぼりした犬に見える」
「はぁ? どう見ても恨めしそうな女の顔でしょ」
「そうだ、これは『シミュラクラ現象』だよ。人間って、3つの点があると脳が勝手に顔だと認識するらしいぞ」
特に思い込みが激しい今際のことだ、シミュラクラ現象に陥っていても何の不思議はない。その証拠にこのシミからは霊気のカケラも感じられない。
今際はわざとらしく大きな溜息を吐くと、
「まぁ、アンタじゃ分からないか。この 領域レベルの話は」
とドヤ顔で言い放った。
プツンと、何かが切れる音がした。俺は踵を返すと、
「……じゃあ1人でやってくれ」
「ちょっと、何帰ろうとしているのよぉ」
今際が腕を引っ張り、俺の逃走を邪魔する。
「はーなーせー」
「離さないわよ。除霊を手伝いなさい」
「だって俺には分からない領域だから。いても意味ないだろ」
「うぅっ。ごめん、ごめんなさい。もう偉そうなこと言わないからぁ。お願いだから手伝って下さいぃ」
「今回だけだからな」
今際が半泣きになったので、足を止めた。全く、すぐに調子に乗る癖は直してもらわないと困る。
「で、除霊って何するんだよ」
「もちろん『塗る』に決まってるじゃない。ペンキは倉庫の中に用意してあるわよ」
「は? 学校の備品だから、勝手にやったらダメだろ」
「それなら大丈夫よ。毒島先生に許可を貰ったから。しかもね、『困っていたから助かる』って褒められちゃった。ようやく先生も私の霊能者としての実力を認めてくれたみたいね」
いや、それって単純に壁の塗り替えに対する感謝だと思うぞ。
でもまぁ、花火をぶっ放さないだけマシか。先生から許可も貰ったようだし、今際も一応学習しているんだな。
それから俺たちは協力して準備を始めた。今際が持参した汚れ防止用のエプロンを着けると、体育倉庫から物品を外に運び出す。
「へえ〜、これで塗るのね。面白そう」
今際が塗装用のローラーを興味深そうに眺めている。先程ポニーテールにしたせいで白いうなじが丸見えだ。数本飛び出した後れ毛が妙な艶っぽさを演出している。
そんな今際のことがついつい気になってしまい、横目でそっと盗み見る。
と、今際と目が合った。
「ちょっと、手が止まっているわよ。早く準備しなさい!」
どうやら盗み見ていることはバレなかったようだ。
「お前だってさっきから全然何もしてないじゃないか」
「私はいいの! 除霊のための精神統をしなくちゃいけないんだから」
「ちょっと思ったんだが、除霊ってお前以外でもできるんじゃないか? だってペンキ塗るだけだろ」
今際の手からローラーが、ぽろりと落ちた。あれ、もしかして図星なのか?
「そ、そんなわけないじゃない。霊能者である私以外がやったら大変なことになるんだから」
「ほう、例えば?」
「普通の人があのシミを塗ったら……そう、またシミが浮き出てきて、なおかつ、もっと怖い感じに変化するわ。キバとかツノとか生えたり」
「へー、すごいねー」
「なによその棒読みは! 全然信じてないわね。いい? よく見てなさい! これがペンキ塗り替え式除霊よ」
今際はローラーを勢いよくペンキに付けると、
「悪霊退散!」
と叫んだ。それからクルクルと回りながら壁まで移動し、ペイントローラーを勢い良く壁に叩きつけた。白いペンキが周囲に飛び散る。そして空いた左手をバタバタしながら、
「悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散!」
かけ声とともに壁をメチャクチャに塗りたくった。
あまりの騒がしさと奇行っぷりに運動部の生徒たちが集まってくる。
「おい、人が集まってきたからやめろ。恥ずかしいだろ」
しかし今際はやめない。むしろ声は大きくなり、動きは激しさを増していった。
「 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散!悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散! 悪霊退散!悪霊退」
「わかった、わかったから。俺が悪かった! だからやめてくれ!」
◇
結局、全てが終わったのは日が完全に落ちてからだった。
シミだけ塗るとその部分だけが目立ってしまうので、壁全体を塗り替える必要があった。おかげでかなり時間がかかった。高い部分は脚立が必要だし、逆に低い部分はしゃがまなくてはいけないしで全身が痛い。
本当に今日は疲れた。体力的にも精神的にも、な。早く帰って休みたい。俺は重い体を引きずるように、すっかり暗くなった校庭を歩いていく。
「はぁ〜、無事に除霊できたわね。良かったぁ」
一方、今際は上機嫌だった。俺の隣でスキップしていやがる。そりゃあお前は元気だよなぁ、ほとんど俺が塗ったんだから!
怒ったところで時間は戻らないので、かわりに大きな溜息を吐く。
「辛気臭いわね。せっかく成功したんだから喜びなさいよ」
「……もうこの手の除霊はやめてくれ。頼むから」
「しばらくはないわよ。体育倉庫以外にはあのタイプの霊はいなかったから。今のところ」
それは良かった、と一安心した瞬間だ。今際がふと足を止めた。
そこはプールの前。プール全体を囲むように、目隠しのためのコンクリートの壁が広がっていた。もちろん体育倉庫の数倍、いや数十倍は面積が大きいだろう。
今際は壁の一点をジーっと見つめると、こう呟いた。
「ねえこのシミ、顔に見えない?」
……もう勘弁して下さい。