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裏庭のハート様 後編


 零子はしばらく唇を噛みしめていたが、決意したように口を開いたーー。


「ハート様って普通の猫なんでしょ?」

 

「は?」


 予想とは180°違う台詞に、素っ頓狂な声をあげてしまう。ハート様が普通の猫だって? なに言ってるんだコイツ……。

 零子はさらに続ける。


「特別な力を持つ猫なら霊能者である私になつくはず。全くなつかないということは、普通の猫ってことでしょ」


「え、ええと」


「もう誤魔化さなくていいわよ。私をがっかりさせないために黙っていてくれたんでしょ? 気にしなくていいのに」


 なんて都合のよい解釈だろうか! まあ零子らしいと言えば、零子らしいのだけれど。

 ハート様も呆れているようで、軽蔑の眼差しを向けている。


 さてこれからが問題だ。目の前には零子、足元にはハート様。選択肢はふたつ。俺が選ぶのはーー。


「......ハート様は普通の猫だよ」


 しばらく悩んだ末、俺は零子を選択した。


「やっぱり」


 と零子はドヤ顔し、


「んなぁ!」


 とハート様の瞳孔がまん丸に開く。


 ハート様には悪いが、俺は真実なんてどうでもいいのだ。今の日常を守ることさえできればーー。

 調子に乗った零子は、よせばいいのにハート様を挑発し始めた。


「やっぱりね〜、おかしいと思ったのよ。普通の猫なら仕方ないわね、ふ・つ・う、なんだから」


「ンナァッ! ナオオオオ!」


「ふふっ、怒っても全然怖くないわよぉ。だって普通の猫なんだもの」


「ナーオ! ナーオ!」


「普通の猫ならハート『様』って呼び方は大袈裟よね。せいぜいハート『ちゃん』かしら。ハートちゃーん! プークスクス」


「フーッ!!」


 すごい、喧嘩が成立している。そういえば『争いは同じレベルの者同士でしか発生しない』と聞いたことがある。果たしてハート様のレベルが高いのか、零子のレベルが低いのか。


「んなぁ〜」


 ハート様が目をうるうるさせながら俺に助けを求めてきた。思わず抱き上げて赤ちゃん言葉で話しかけたくなる衝動に駆られるが、ぐっと我慢し、ハート様から顔を逸らした。


「なぁ零子、そろそろ部室に戻らないか」


「そうね、そろそろ帰りましょうか。普通の猫には用はないもの。普通の猫には、ね」


 ついにハート様がキレた。今までも十分怒っていたが、比べものにならないほどの大激怒だ。目はカッと見開き、全身の毛は逆立ち、低いうなり声を上げている。姿勢も低くく、今にも飛び掛かってきそうでーー。

 さっきまでの威勢もどこへやら零子は怯えた様子で、


「や、やだ、そんなに怒らないでよ。そうだ! 普通の猫ってことは他の人には黙っててあげ」


 言い終わるのを待たず、ハート様は地面を蹴り出した! 射った弓の如く、早く、真っ直ぐに、零子に向かう。

 零子を庇おうと手を伸ばす。ダメだ、届かない!その後の惨事を想像してしまい、俺は反射的に目を閉じた。


 しかし零子の叫び声が聞こえることはなかった。


 奇妙に思いながら瞼を開くと、ハート様は忽然と消えており、両手で顔を覆いブルブル震える零子がいるだけだった。


「おい、零子。ハート様がいないぞ」


「や、殺るなら一思いに殺りなさい! 痛いのは嫌だから、頸動脈、頸動脈にしなさいよね」


 猫相手に何て重い覚悟を決めているんだ、コイツは。怪我をしたとしても精々引っ掻き傷レベルだろ。

 俺は呆れながら、


「ハート様が消えた。もう大丈夫だぞ」


 零子は恐る恐る顔を上げた。


「本当ね。いなくなっちゃった」


「どこへいったんだろうな?」


「私の霊能力が暴走してハート様は消滅してしまったのよ! 可哀想なことをしてしまったわ......」


「んなわけねーだろ。きっとそこらへんにいるはずだ」


 俺の予想は当たった。ハート様は、10メートル程離れた場所にあるゴミ箱、その中から顔だけ出してこちらをじっと見つめていた。

 零子は目を白黒させながら、


「お腹でも空いたのかしら?」


「キャットフード食べた後だからそれはないだろ」


「そうよね。あっ、何か黒いものを咥ているわ!でもここからだと何だか分からないわね」


 よく見ようと目を細める零子の隣で、俺は大きく目を見開いた。

 遠目からでもよく分かる。あれは俺の心を掴んで離さない魔性のアイテム、その名は黒ストッキング! さっき零子が無慈悲に投げ捨てたものだ。

 にわかに心臓が早鐘を打ち始める。ハート様は黒ストをどうするるもりなんだ!

 俺の嫌な予感は当たった。ハート様はゴミ箱からぴょこんと飛び出ると、そのまま一目散に走り去ってしまった。無論、黒ストは咥たままである。

 そして俺は考えるより先にーー走り出していた。


「ちょっと、どこいくのよ」


 背後から零子の怒声が聞こえたが、俺は振り向くことさえもしなかった。



 ◇



 結果から言うと、俺はハート様を見失った。猫の機動力と俊敏性を完全に舐めていたぜ。


「はぁっ、はぁっ」


 校庭の隅っこに座り込み、荒い息をつく。もう一歩も歩けない。黒ストは諦めるしかないか。

 しかしハート様は黒ストを何に使うのだろう? 寝床の巣材かはたまたオモチャか。どちらにしろ黒ストに幸せな結末はありえない。


 そう考えたら、急にやる気が湧き上がってきた。黒ストに不幸は似合わない! どんな手を使ってもハート様から取り戻さなくては!


 俺は息を整えると、立ち上がった。丁度その時、向こうから担任の毒島先生が歩いてきた。これはラッキー。もしかしたらハート様を目撃しているかもしれない。


「先生! 黒猫を見ませんでしたか?」


「.....」


「あ、あの先生?」 


「あ、すまん。猫なら見てないぞ」


 なんだこの反応。まるで珍しいものを見ているみたいな表情に、目線は俺の頭上。ーー頭上?

 その時になってようやく、自分が猫耳を付けていることを思い出した。


「あああああああ!! 違うんです!! 違うんです!!」


 慌てて猫耳をむしり取り、後ろ手に隠した。


「こ、これはその『ミラーリング効果』で。ハート様を誘い出すためにやっているだけであって、別に趣味とかコスプレとかではなくて。純粋な科学実験というか」


 言い訳下手過ぎるだろ、俺。こんなんじゃ絶対変態だと思われたよな。クソ、こんな目に合ったのも全部ハート様のせいだ。捕まえたら30分くらい撫で回してやる!

 しかし先生は、


「ハート様か懐かしいな。あれだろ、ハート型のぶちがあるオッドアイの黒猫のことだろ」


「先生もご存知でしたか?」


「ああ。実は先生はこの高校の卒業生でな、在学中はよく探したもんだよ。でも結局見つけられなかったし、見つけたっていう生徒もいなかったから結局はデマなんだよなぁ。そうか、そうか。まだその噂あったのか」


 先生は昔を懐かしむように目を細める。

 ......ん? ちょっと待て、何かおかしいぞ。


「もうひとつ質問いいですか?」


「ああ、いいぞ」


「先生はおいくつですか?」


「45歳だ」


「へ、へぇ30代くらいだと思っていました。お若いですね」


「ははは、よく言われるよ。じゃあな」


 先生の後ろ姿を見送りながら、俺は激しく混乱していた。

 猫の寿命は長くてもせいぜい20年程度。しかし先生の証言から、ハート様の噂は35年前からあったと考えられる。たまたま似た猫がいたという可能性もあるが、ハート型ぶちにオッドアイという珍しい条件からそれはないだろう。

 つまりハート様は35年以上生きているということになる。そんなことありえるのだろうか。野良で、餌も暑さ寒さを凌げる場所も少ないこの学園でーー。


「なごー」


 背後から低くしゃがれた老婆のような声。俺は体を大きく痙攣させると、ゆっくり振り返く。

 予想通りハート様がいた。目が合うとハート様は笑った。オッドアイを爛々と輝かせ、鋭い牙を見せびらかすように真っ赤な口を大きく開いて。

 俺は自分の愚かさを悔いていた。ハート様は思っていた以上に恐ろしい存在だったようだ。例えるなら、そうーー



『化け猫』



 昔、長生きした猫は『化け猫』という妖怪になると信じられていた。2足歩行で歩いた、人間を呪い殺したなどの化け猫伝説が日本各地に残されているほどである。

 聞いた当初は鼻で笑っていたものだが、今は信じる気持ちになっていた。だって本物が目の前にいるのだから。


 恐怖のせいで凍り付く俺をよそに、ハート様は大きなあくびをひとつ。そして地面に落ちた黒ストを咥えると、くるりと後ろを向いて走り出した。


 追いかける気力はすでになく、小さくなっていく化け猫の後ろ姿を見守ることしかできなかった。

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