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習作3

作者: quiet

 家に帰るたびに必ず何かしら冷蔵庫を開く羽目になるという人種は確かに存在していて、その集合の中に私はいる。今日も私はその集合の中から抜け出すことはできず、ちょうどそこの角のスーパーマーケットで購入したラムネを片手に持って、冷蔵庫を開いた。そこには海が広がっていた。

 微かな潮風が鼻先をくすぐる。海だけではない。空もそこにある。碧から薄青に、薄青から水色に、水色から白へとグラデーションされていく景色。空と、海と、波と、砂浜。もくもくと色濃い入道雲は、夕立の香りを含んで立ち上っていて、小さな太陽が世界すべての輪郭をきらめかすようにして降り注いでいる。冷蔵庫の中には、夏がある。

 私は、一度冷蔵庫を閉じた。もう一度開いたとき、夏は依然として冷蔵庫の中にあった。

 それは海と称するにはあまりにも小さく思えたし、あるいは私自身は海を観測するにはあまりにも大きくなってしまったように思えた。仕切りも、オレンジの明かりも、野菜室も、製氷用水の投入口もない。まっさらな夏の海が、眼前に広がっていた。

 目を凝らしても砂の粒や水の粒子が見えるわけではないが、風の流れはかろうじて読める。南から来る風が私の顔目掛けて、懐かしい匂いを運んでくる。

 自分がこの夏を知っていることに気が付いた。海も、空も、砂浜も、風もあったころ、全てが手の中にあったような、あの夏のこと。怖ろしくなって扉を閉じた。

 私以外の誰もいない家は、静寂を奏でるための楽器のように小さく振動し続けている。熱気に紛れて果てのない闇が佇んでいる。遠くで車のタイヤがアスファルトを均していく音がする。三百メートル先の街灯で、小さな羽虫が焼け落ちた音までが聞こえた。

 冷蔵庫の扉に額を押し付けて考える。何かの罰のように思える。忘れるなよ、と言われているようにも、忘れろよ、と責められているようにも感じる。

 するべきことは一体何なのだろう。手に持ったラムネを振る。ビー玉はまだ口のところに収まっていて、何の音もしなかった。最後にあの、カラカラという音を聞いたのはいつのことだったっけ。

 電話が鳴った。その方向に頭をもたげるまでにすでに三コールが経過しているが、鳴り止む気配がない。立ち上がって、受話器の前に立つ。古い電話には、ナンバーディスプレイがない。十コール目が鳴り終わるのを待ってから、私は電話を取った。

「はい」

「まずは開けてみて」

 女の声だった。「え?」と聞き返すよりも早く、向こうから通話は途切れた。開けないわけにはいかなくなった。そしてその女の声にも、心当たりがついてしまった。

 冷蔵庫の中に広がる海は、間違いなくあの海だという確信があった。同じ夏は二度と訪れないが、似たような夏は飽きるくらいいくらでも何度でも人が死んでからもずっと続く。しかし目の前にあるのは、私の思い当たるあの夏だと確信できた。それは見た目の情景によるものではなく、私がそれを観測した際に浮かび上がるクオリア的な空間で得られる確信だった。

 だからわかる。私にはわかる。ほうら来るぞとわかる。試しにちょっと冷蔵庫の中に首を突き入れてみて、周囲を見渡す。ほうら、いた。

「暑いねー!」

 そこにはかつての少女の姿があった。これまでの私にとって、もっとも縁深かった彼女の姿で、十年前で止まっている。しかし不思議なことには、そこに彼女の姿はあっても、私の姿はなかった。だからペダルを漕ぐ人もいない。彼女は自転車に跨ったまま、ただ夏の日に肌を灼いているだけだった。

「暑いねー!」

 彼女は言った。

「暑いねー!」

 何度も言った。自転車のタイヤはひとりでに前に転がったりしない。荷台に括りつけたクッションの上に彼女は座っていて、銀色の自転車は彼女の置台以上の何物でもなくなっていた。

 やあ、とよほど声をかけてやろうかと思った。

 けれど結局私は、十年前と同じ行動を取ることにした。彼女の跨る自転車を漕いで、海まで海岸線を走った。砂浜に降りることのできる場所を見つけるまでずっと。

「暑いねー!」

 私はあのとき、彼女にどう答えただろう。自分の方がよっぽど暑いとか、自分で漕げとか、そんなことを言っただろうか。それとも、彼女の言うことをそのままオウム返しにしていただろうか。今の私は何も言わず、タイヤは進む。坂道に削れて、黒いゴムの焼ける匂いがする。

 砂浜に降りた彼女は、自転車からひらりと飛び降りると、ビーチサンダルが脱げるのも気にせずに、波打ち際まで走っていった。黄色のサンダルが白い砂の中に埋もれていく。失われていく生命力の幻のように。

 足の、親指の、爪の間に、たっぷりと海水を染みこませて彼女は笑う。振り向いて笑う。夏に向けて春の間じゅうずっと編み続けていたような笑顔で笑う。そしてゆっくりと唇を動かし始めたので、私は耳を塞いだ。

「    」

 何を言っていたのか、覚えているような、覚えていないような気がしている。本当のことを言うと覚えているのだけれど、覚えていたくないように思えるので、覚えていたらそれは取り返しのつかないようなことのように思えるので、私は覚えていないふりをしているし、自分自身でも覚えていないと信じ込んでいる。

「    」

 私は耳を塞ぎ続けている。しかし私のアクションがないために、シーンは止まり続けている。

 シーンは止まり続けている。

「    」

 電話が鳴る。

 私は耳を塞いだまま受話器の前に立った。そして困り果てる。受話器を取るにはどちらか片方の手を使う必要があるし、さらに通話するためにはどちらか片方の耳を使う必要がある。どちらの段階を先にするにせよ私は耳を塞ぐのをやめなければならない。しかしそれでは彼女の声が聞こえてしまう。

「    」

 けれどよく考えてみれば、言葉は聞こえないのに電話の音だけが聞こえてくるというのも妙な話だ。初めから言葉は聞こえていないのではないか。

「    」

 ほら。

 自由になった手で受話器を取った。

「忘れたくなった?」

「うん」

「本当に?」

「ううん」

「ばかだなあ」

「    」

 少しだけ、形が聞こえてしまった。

「あのさ」

「うん」

「もういいよ」

 物に一番愛着が湧くのは捨てる瞬間で、それは何についても例外はなく、同時に信じがたいほどの大胆さを生む。

「よくない」

 私は受話器を置いた。

 海が広がっている。風が雲を流している。彼女は両手を広げて立っている。

「    」

 私は耳を澄ます。

「    」

「    」

「    」

 私は耳を澄ます。

「   ね」

「   ね」

「 せ ね」

 いつもいつも、忘れようとしていたことだけは覚えている。自分を薄情な人間だと思い続けていたことや、ただひたすらに悲しい気持ちになっていたこと。どうして忘れなければならなかったのか、自分ではわからない。彼女がそんなことを言う理由もわからない。忘れようとすることも悲しく、忘れないままでいても悲しい。あらゆる悲しみは青い薬液のように私の身体に染み込んで、血液どころか細胞液にまで混ざりあって摂氏二十度以下の体温だけが残るようになった。あんなことなどなければよかったと思う度に忘れたい気持ちは強くなり、またその忘れたい気持ちが強くなればなるほどにあの出来事はなくすことのできない事実として確かめられていった。

「 せ ね」

「   ね」

「 せだね」

 冷蔵された夏の日の思い出に耳を澄ましている。そうだ、彼女は貝殻を耳に当てて海の音を聞こうとしたっけ。打ち寄せている本物の波の音に邪魔されて何も聞こえなかったんだっけ。本物の海の音、本物の夏の匂い。本物の彼女。今、目の前の彼女を一体何の本物と呼ぼうか。本物の彼女? 本物の思い出? 本物の罪? 本物の赦し?

「幸せだね」

 昔、それが本物の恋だったことを思い出した。

 私は泣いている。

「幸せだね」

「幸せだね」

「幸せだね」

 シーンは止まり続けている。

 幸せな時ばかりが繰り返されている。目の前の彼女を何とたとえよう。何と表そう。冷蔵庫の中、夏の日と、海と、風と、砂と、波とともに、私だけがいなくなった場所で笑い続ける君を、何と呼べばいいのだろう。

 電話が鳴る。

「    」

「君は今、どんなことを考えている?」

「   ね」

「私は君に、何をすればいい?」

「   ね」

「つらくも、悲しくもなくなるんだ。それが怖いんだ」

「 せ ね」

「私はばかだ。だけど、いつまでもばかではいられなかったんだ」

「 せ  」

「責めるか? 責めてほしい」

「 せ ね」

「赦さないでほしい」

「 せ ね」

「頼むよ」

「幸せ ね」

「わすれさせないで」

 受話器の向こうで、笑い声がした。

「ばかだなあ」

「うん」

「わすれちまえ、ばーか」

「うん」

「好きだったよ」

「うん」

「幸せにね」

 電話が切られる。私は冷蔵庫の前に立つ。海が広がっている。

 気が付いたのは、海が小さいのではないということ、それから、私が大きいのでもないということ。ただ遠くに過ぎてしまったものを見るとき、ちょうど宇宙から地球の海を眺めるかのように、ほんの手のひらに収まるようなサイズで視界に映る、ただそれだけのことだったということ。

「幸せだね」

 彼女が言った。

「うん」

 私は頷いた。シーンが進む。

「ねえ、ラムネ買ってよ」

 電話機はもう鳴らない。静かな夜だった。三百メートル先の街灯は、焼け焦げた羽虫の死体を山として、黒々としたものを白々として、照らし続けている。アスファルトに残った炎天の残滓を、タイヤが浚っていく。これが最後の彼女のわがままだったと覚えている。今でも。

「ああ、いいよ」

 私はラムネの壜を胸の前に上げる。キャップを外して、口を止めるビー玉を押し込む。小さな音がして、透明の玉が透明の炭酸水の中に沈んでいく。

 私は、それを冷蔵庫の中に、差し込む。ビー玉が口を止めてしまわないように、緩やかに傾けていく。

 夏に、ラムネを注ぐ。

 冷たく、宝物のように、いつでも取り出せるように保存されていた海に、空に、ラムネをかける。透明な、小さく気泡の混じる夏の水を、注いでいく。

 彼女にも。

 彼女は何も言わなかった。恨み言も、別れの言葉も、感謝も、感傷も、優しい言葉も、慰めも、恋の言葉も、何も言わずに全身に、青すぎる夕立のようにラムネを浴びた。そして、身体に纏わりつく気泡が一つ、二つ、物言わぬまま消えていくようにして、彼女もいつしか、消えていた。夏も、海も、風も、砂も、波も。

 今はただ、使われていない、からっぽの冷蔵庫が目の前にある。

 冷蔵庫を閉じる。電話機は鳴らない。

 ラムネを置く。電話機はもう鳴らない。代わりに、からん、とビー玉の、壜と転がる音がした。

 そして、私は、焼け落ちた黒い家を出る。

 夜の風が、熱を含んで頬を通り過ぎていく。遠き夜空の銀河だけが涼し気で、そのほかは何もかもが汗をかくような、されど眠りに就いているような夜に、私は摂氏三十六度の、特別熱い息を吐く。

 何よりも夏。

 私はきっと、この帰り道、スーパーマーケットに寄り、ラムネを買う。家に帰り、冷蔵庫を開く。

 そこにもう、海はない。


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