無邪気な笑顔は心を溶かし、絶望を植えつける
夏休みには授業こそないものの、補講やら補習やらがあって、その二つは関係の無い話で過ごせたことは本当に良かったと思う。
その代わりに、講習という形で勉強会に参加はしている。
夏休みの課題こそないものの、この後の進学就職のためには必要だろう、とシャープペンシルを動かす。
右隣の席ではオミくんがプリントを前に、何故か菓子パンを齧っていて、その更に右隣の席では作ちゃんが、そのパンを見つめている。
こういう空間を何て言うんだろうか、異空間?亜空間?
……いや、亜空間は違うな。
変なことを考えていたせいで、解答欄を間違えた。
流石にぐしゃぐしゃと黒く塗り潰すことは出来ないので、筆箱から消しゴムを取り出す。
間違えたところに消しゴムを当てて、ゴシゴシと動かしていると、横から普通の声量の会話が聞こえてくる。
「オミくん、それ何パン」
「クリーム」
「意外だね、美味い?」
「普通」
弾む会話と言うよりは、淡々とストレートで返されるだけの会話。
しかもオミくんの返す言葉は単語だ。
それにしても、補講でも補習でもない、自主参加の講習だと言うのに、何故パン。
ちらりと横目で二人を見れば、もさもさとパンを食べていたオミくんのそれに、逆方向から齧り付く作ちゃんを見てしまった。
だから、何で、何故。
ほんの少し頬を色付かせて「んまー」と呟く作ちゃんに、オミくんは溜息を吐いている。
講習でも、こんな場面を見たら普通に注意されるだろうが、損なお咎めの声は聞こえない。
それもそのはず、いつも使っている教室には、俺とオミくんと作ちゃんの三人しかいないから。
これを講習と呼んでいいのか分からない。
「……んぐ、崎代くん」
ごきゅり、と音を立てて喉を上下させた作ちゃんが、いつの間にか俺の机の前まで来ていて、プリントを見下ろしていた。
長い睫毛が伏せられているのを見て、心臓が体に送る血の量を増やしたような錯覚に陥る。
夏休みに入ってから、MIOちゃんを呼び出した時に言われた一言を思い出すと、口の中が乾く。
なぁに、といつも通りに声を出して、笑顔を浮かべるが、作ちゃんの視線はプリントに落とされたまま。
白い指先がトントンとそれを叩き「ここ、違うよ」と言った。
「え、どこ?」慌てて視線を落とせば、示されている場所の答えに目を細める。
今やっているプリントは、視野に入れている大学の過去の入試問題で、科目は現代文。
書いた答えを見直していると、作ちゃんの指が動いて問題文を示す。
「これ、後ろの文からじゃなくて前の文から引っ張ってくるやつだと思う」と言うので、よく読み返して、次にプリントと合わせて貰った答えを見る。
「……あ」
「ね?だよね。良かった」
答えを見て、作ちゃんは満足そうに頷く。
書き間違いだけじゃなく、答えも間違えていたのか、小さく笑い声を漏らしながら、転がしておいた消しゴムを持つ。
ガシガシと消しゴムをかける俺を見たオミくんが、日本語しか強みねぇしな、と呟いた。
俺と作ちゃんの視線が揃ってオミくんに向けられる。
いつの間にかパンを食べ終えたらしく、乾いた音を立てながら手を払っていた。
この前MIOちゃんに会った時のように、珍しくオミくんも髪を結っている。
男にしては珍しく長めの髪をしたオミくんは、軽く一つに結い上げるくらいは出来るようだ。
「誰しもがオミくんや文ちゃんみたいに文武両道じゃないんですぅ」
んべぇ、と突き出される真っ赤な舌。
それを突き出された方は鼻で笑って一蹴する。
二人を見ながら乾いた笑い声を漏らした俺は、オミくんの机の上に置かれたプリントを見た。
同じく過去問のようだが、全て解き終わっている。
あぁ、だからパン……。
よく見れば有名な大学の名前が隅っこに書いてあるので、やっぱりオミくんの頭の良さを実感する。
実際のところオミくんは作ちゃんの言った通り、文武両道で文ちゃんと常に学年主席を争っていた。
この高校自体のレベルは、本当に真ん中くらいだが、模試なんかも受けていて、見せてもらった順位は十位以内だったことを記憶している。
「それに日本人が日本語不便とか笑えない」
真顔で言ってのける作ちゃんだけれど、本当に国語系統の成績が良いから言えるんだろう。
理数系には弱いらしいけれど、本人が触れないで欲しいという顔をしていたことがあるので、触れたことはない。
今も拗ねた子供のように、ふっくらと頬を膨らませて視線を斜め下に投げていた。
いつか午後の授業をサボった時に、眠る作ちゃんの頬を突っついたことを思い出し、指が伸びそうになる。
ピクリと動いた指をオミくんが見ていたような気がして、重いものが胃の辺りに沈む。
どうしてか、MIOちゃんと話したあの日から、あの言葉が付き纏う。
後ろからペタペタと足音を立てて、その存在感を示しながら、時折俺の腕を掴むのだ。
「……作、喉乾いた」
「何を言いたいのやらさっぱり」
「パン食ったろ」
「オミくん最近ケチだよね。ケチんぼ」
ふっくら、また頬が膨らむ。
それから諦めたように空気を抜き出して、黒い革のスクールバッグを持つ作ちゃん。
大きさの割にぺったりとしたそれから、長財布を取り出す。
オミくんはそれを見届けて、転がしてあったシャープペンシルを持つ。
くるりと勢い良く回るそれは、ぴたりとプリントに向けられて、二枚目に取り掛かる。
「崎代くんも何か飲む?」
「え、いや……」
パシリに使うような感じがして、俺はいいよ、と首を振ろうとしたのに、何故か作ちゃんの方から「ココア?エナジードリンク?」と投げ掛けられる。
何故その選択肢なのだろうか、寧ろ俺はそれしか飲ませて貰えないのだろうか。
過去に自販機の当たりで貰ったココアを思い出しながら「じゃあ……ココアお願い」と頭を下げる。
エナジードリンクは、正直に言ってあまり好きではない。
特にあの自販機に売っている種類のヤツは。
ほんの少し苦い顔をした俺を見て、作ちゃんが反対にニッコリと笑って身を翻す。
まさかの表情で、持っていたシャープペンシルを落とした。
カシャンッ、と床とぶつかる音と、作ちゃんが教室の扉を閉める音が重なる。
作ちゃんが出て行くまで顔を上げなかったオミくんが、のんびりと体を起こして、俺のシャープペンシルを拾い上げてくれた。
作ちゃんの指とは違う、骨張った程よく焼けた指先だ。
「はい」
「あ、ありがとう!」
差し出された愛用のシャープペンシルに、我に返った俺は直ぐに手を伸ばす。
出していた芯が折れている。
あーあ、なんて呟きながらカチカチと音を立ててノックした。
伸びた芯の部分を見ながら、先程の会話を思い出してオミくんを振り返る。
もうプリントに戻っているようで、俺から見て右目を隠す長い前髪を垂らしながら、シャープペンシルを細かく動かす。
特に迷うことなく回答を書いているようだ。
「そう言えば、何が言いとか言ってなかったけど良かったの?」
「ん?あぁ」
プリントの空白が黒い文字で埋め尽くされる。
オミくんはやっぱり顔を上げることなく、プリントに印字される文章を目で追う。
「エナジードリンクとココアと微糖の缶コーヒーだろ」と呟かれて、プリントに押し付けた芯が折れる。
あぁ、中まで折れてたのかな。
彫刻のようにブレることない、オミくんの綺麗な横顔が、持ち上がることは無い。
解きかけのプリントの隅に飛んだシャープペンシルの芯を指で弾いた数分後、作ちゃんはオミくんの呟いた物を抱えて戻って来た。