のばしかけた行き場のない手
高校生活最後の夏休みに入り、特に代わり映えもしない夏休みを謳歌していた。
課題がないのは身軽で良いな、なんて考えて、今日も美術室で筆を持つ。
何となく窓の外を見たら、見覚えのある姿を見つけて美術室を飛び出した。
夏休みのせいか、数少ない部員が驚いたような声を上げて、後輩の声が背中にぶつかったけれど、振り返ることもせずに、床を蹴る。
見間違いじゃないと思うけど、夏休みに活動なんて、してたんだ。
小さな背中に癖のある髪と、ぼんやりとした地に足の付いていないような独特の雰囲気。
作ちゃん、だと思う。
ただ、いつもはMIOちゃん達と四人一緒に来るのに、何故か今日は一人だった。
珍しい、と思ったのと同時に、何かヒヤリとするものが鳩尾に感じてしまった。
玄関に向かったけれど、そこには作ちゃんの姿がなく、遠く微かに聞こえる足音。
階段、だろうか。
廊下の隅にある階段に向かえば、その足音は大きくなって、間違いじゃないことを教えてくれる。
手摺りを指先でなぞり、今度は床ではなく、階段の段差を蹴る。
中学の頃はなかなか機敏に動けていたとは思うけれど、今では授業の体育くらいでしか体を動かさない。
運動不足が祟ったように、足が重く、階段を飛ぶように、跳ねるように上がれない。
「はぁ、っ……はぁ」
乱れる息に、段差を蹴る度に視界の端で揺れる黒いコード。
カシャン、カシャン、とプラスチックの音を響かせているのは、首に引っ掛けたヘッドフォンで、切り忘れた音楽が未だに流れている。
アップテンポなそれが、段差を蹴る足に力をくれるような気がして、ひらひらと靡く白衣の裾も気にならない。
蹴り上げて、蹴り上げて、蹴り上げて蹴り上げて、行き止まりに辿り着く。
校内にある階段の中でも隅っこにあるそれは、上り詰めると屋上へと続く扉がある。
ただし常に施錠されているが、作ちゃん達と前では無意味に等しい。
いつか一緒にお昼を食べた時に、何故か作ちゃんの手には鍵が握られていた。
部室の物かと問い掛ければ、作ちゃんは緩く首を振って、お弁当を持ったまま歩き出したのだ。
その小さな背中を追い掛ければ、今と同じように扉の前にやって来て、その鍵をドアノブにある鍵穴へと差し込んだ。
ガチャン、と思いの外簡単に開いたそれに目を見開く俺を見て、作ちゃんは小さく笑って見せた。
どこから入手したのか分からない屋上へと出られる鍵は、何故か作ちゃんもMIOちゃんも文ちゃんもオミくんも、あの幼馴染み全員が持っていたのだ。
同じキーホルダーを付けて、秘密だよ、と声を揃えて言ったのを見た時に、かなわないなぁ、と思った。
ほんの少し前のことを、まるで遠い昔の思い出のように拾い上げていたけれど、握ったドアノブが冷たくて、意識がこちらに戻る。
軽い音と感触で開く扉を見て、やっぱり、と呟く。
金属の軋む音を響かせて、大きく開いた扉の先には、絵の具を塗ったくったような青。
今日は雲一つない、快晴だ。
そんな空に包み込まれるような屋上で、あの小さな儚い背中を探す。
一歩踏み出して見つけた背中は、柵を超えた先にあった。
屋上が立入禁止なのは、屋上の周りを囲む柵が胸くらいの高さしかないからだと、前に聞いたことがある。
簡単によじ登れてしまうから、安全面を考慮して開放しないのだとか。
作ちゃん、口から流れ出るはずだった言葉は、空気に溶けて音として出ることはなかった。
それなのに、俺の声が聞こえたみたいに振り向く作ちゃんは、離れた場所からでも分かるくらいに目を見開く。
「崎代くん、何で」
「……危ないよ、作ちゃん。こっち来て」
いつもは作ちゃんの方が投げた言葉に対して、ほんの少しズレた言葉を返してくるが、今日は俺の方が軌道をズラした言葉を投げる。
それが不服だったのか、綺麗な形の眉が眉間の方へと寄せられた。
高い所は意外と風が強い。
肩口でサイドに結い上げられた癖のある髪も、制服のスカートも大きく揺れる。
その細い体も風に煽られて、飛んでいきそうな……。
「作ちゃん」
まるで悪戯した子供を咎めるような声が出た。
想像していたよりも厳しい自分の声に、俺もビックリする。
だけれど、作ちゃんは頑なに動こうとしない。
あと一歩でも後退れば、その絵の具の青のような空へと身が投げ出される。
想像するだけで鳩尾の辺りがひんやりとして、ぐつぐつとお腹の底が音を立てた。
言葉以外の何かが喉から迫り上げてくるのを感じ、ごくり、唾を飲み込む。
「作ちゃん、お願いだから」
より一層強い風が作ちゃんの体を攫おうとするから、必死になって作ちゃんと呼ぶ。
すると目を細めた作ちゃんが、肩を落とすように溜息を吐き出し、目の前の柵に手を掛ける。
よいしょ、と小さな声が聞こえて、柵の上にその体が乗り上げ、勢いを付けてこちらに降り立つ。
自分の体重を支えきれなかったのか、ふらりと体が傾くが背後にある柵を掴んで止まる。
長い前髪の隙間からこちらを見る作ちゃんは、不満そうで、不服そうで、まとう空気が不機嫌だ。
夏休みに入ったのに、黒っぽいカーディガンを羽織り、袖口からちらりと覗かせる白い指先と、制服のスカートから伸びる足を包むタイツのせいで、季節感を感じない。
巡る季節の中に取り残されたような、作ちゃんの周りだけ時間が止まったような、不思議な空気感。
今まで感じていた、地に足の付いていないような、と言うのはこういうことだったのだろうか。
さわさわと頬を撫でる生温い風に、作ちゃんは自分の前髪を手の平で撫でる。
「また、死ねなかった」
ぽそりと投げられた言葉は、別に俺に向けられたものではない。
本当に何気無しに呟かれたもので、作ちゃんの視線は自分の足元に投げられている。
作ちゃん、その存在を確かめるように名前を呼んで、手を伸ばす。
上げられた目は、今日も綺麗な黒で、一つの光も含むことは無かった。
左右に二回ずつ首を振った作ちゃんは、俺の手を避けるように屋上を後にする。
じわじわとコンクリートを熱する太陽に、伸ばした手も焼かれているのだろう。
白衣に包まれた体が熱を篭らせているのを感じて、蒸し暑くて堪らない。
重い扉の閉まる音を聞いて、どうしようもない歯痒さを感じる俺は、ゆっくりとその場に座り込んだ。