忍ぶ恋に身を焦がした
「先輩、そろそろ鍵閉めますよ」
卒業を明日に控えたはずの先輩は、美術準備室でキャンバスを漁っていた。
まるで家探しのような光景に、私は息を吐いてただただ終わるのを待っていたのだけれど、ピタリと動きを止めた先輩は、ジッとキャンバスに視線を落とす。
先輩?と掛けた声に、ゆるりと立ち上がる先輩は、いつも通りに笑ってそのキャンバスを抱える。
大きめのそれは、見覚えがあった。
人物画の多い先輩らしい、実に人間味に溢れた絵だったけれど、確か、学校祭に展示していたものだ。
四人の男女が楽しそうに笑う姿が、とても印象的だったのだが、それを探していたらしい。
お待たせ、と言う先輩は大切そうにキャンバスを抱え直すから、もう一度、先輩、と声を掛ける。
「それ、探してたんですか」
「うん。欲しいって言ってくれる子がいて、その子にあげたいんだ」
にっこりと効果音の付きそうな笑顔を向けられて、はぁ、と頷くしかない。
そのためだけに探していたのか、とも思うけれど、明日の卒業式が終わった後じゃ時間もない気がする。
先輩らしいな、なんて笑えば、するりと鍵が奪われて美術準備室の扉に鍵が掛けられた。
「先輩は明日で先輩じゃなくなるんですね」
「うーん、学校の先輩って意味ではそうかなぁ」
楽しそうに笑う先輩からは、卒業前のもの悲しさや寂しさなんて感じられなくて、ただひたすら前へ進むだけ、と言う雰囲気が感じ取れる。
進路を迷っている、なんて聞かされた時期もあったのに、学校祭が終わった辺りから、トントン拍子とも取れる勢いで進路について動いていた。
それを見て、後輩としてはほんの少し、複雑で。
先輩は鍵の束から今度は美術室の鍵を取り出していて、夕日色に染まりつつある美術室の電気を落とす。
キャンバスを抱えているのに器用だ。
「でも大切な後輩に変わりないからさぁ」とか、にこやかに言える先輩の人間関係は、多分、器用じゃない。
「崎代くん、いつまで、で……」
「で?」
美術室から出ようと先輩が扉に手をかけた時、廊下側から扉が開けられて、飛ばそうとしていたのであろう言葉が、宙に消えたのを見た。
扉を開けたら目の前にいるなんて思わなかったのだろう、目を丸くした女の人が立っていて、それなのに先輩は緩く笑って首を傾ける。
女の人は見覚えのある人で、先輩の抱えているキャンバスに閉じ込められている内の一人だ。
ふわふわな髪と大きめの瞳には似合わないくらいに、嫌そうに眉を寄せていて、固まった体の力を抜きながら息を吐いていた。
それから、崎代くん、なんて少し不機嫌そうな声。
「見付かった?」
「見付かったよ。だから怒らないで?ね?」
鍵を持っている手を伸ばして、目の前の人の長い前髪を掻き分ける先輩。
そうしながらも、キャンバスを軽く見せていて、その人は仕方ないと言うように頷く。
その人がその絵を欲しがっていた人。
自分の描いてある絵でもそんなに関心を持たなそうな、薄い表情で見ているけれど、先輩は嬉しそうだ。
私はこの人をキャンバスの中で、二回、見ている。
一回は先輩の持っているキャンバスで、もう一回は別のキャンバス。
長い睫毛が目立つように伏せられた瞳に、薄い表情で何となく重そうな影を背負った絵だった。
いつもはモデルを頼んだり、どこかに出て描いている先輩が、珍しく何も見ずに美術室でキャンバスに向かっていた時に描いていたものだ。
「……まぁ、いいや。それ、頂戴」
「え、持って行くよ」
「いや、だから、さぁ」
先輩の斜め後ろくらいで立っていた私に、ふわりと向けられた視線は直ぐに逸らされた。
一筋の光も差し込まない真っ黒な瞳に映った私は、どんな顔をしていただろうか。
先輩は首を傾けていて、何も気付かない。
その人が居心地悪そうに前髪を乱しながら、キャンバスを受け取るために手を伸ばすが、先輩は駄目だよ、とキャンバスを引っ込める。
きっと私と先輩が一緒だったから気を使ってくれていて、この二人は友達とは違う関係なんだろう。
その人の前髪を掻き分ける先輩の手付きは、壊れ物に触れるような優しさが含まれていた。
「……崎代くんって、鈍い」
日本刀でバサリと切り落とすレベルにハッキリと言ったその人は、溜息を吐いて身を翻す。
その際に私に視線を向けて、小さく頭を下げたのを見逃すことはなかった。
はい、私も先輩は鈍いと思いますよ。
鈍くて、器用じゃない。
軽やかな足音を立てて歩いて行くその人に、先輩は目を丸くして慌て出す。
鍵を取り落とす先輩を見て、器用じゃない、と呟いてみたけれど、聞こえた様子はない。
「その絵、欲しがってたんですよね。早く行って持って帰らせてあげて下さい。素敵な絵だと思います」
キャンバスを抱え直した先輩が私を振り返るから、鍵を握り締めて笑う。
後は美術室の電気を消して、鍵を閉めて、鍵を返せば帰れるのだから。
別に先輩がいてもいなくても変わらない。
学校祭のあの日、掛け持ちしていた軽音楽部のステージ前に、先輩の背中を押したことを思い出しながら、あの日と同じように押してみた。
一歩、踏み出した先輩は目を丸めていて、先輩らしくて、先輩らしい威厳はない。
「卒業、おめでとうございます」
明日の先輩は人気者で囲まれちゃいそうだから言っておきますね、なんて笑えば、先輩が笑いながらキャンバスを抱えて走り出す。
リノリウムの床を蹴り上げて、夕日色の混じる長い影を引き連れて。
振り向きもしない先輩の背中に手を振って、見えなくなったところで下ろす。
重力に従って、だらりと落ちた手から、鍵が零れ落ちた。
金属がぶつかる音を聞きながら、パチン、と美術室の電気を落とす。
次に来る春には、先輩はここにいない。
私の方を振り返ることなく、自分の道を駆け抜けていくのだろう。
今のように。
「あー……もっと髪伸ばして巻いたりなんかして色白キープして淀みない黒目で小さくて華奢でお人形みたいだったら良かったのに」
学校祭のあの日、軽音楽部としての先輩を見に行ったあの日、私は先輩が手を掴んで一緒に駆け出す人がいることを知った。
それが、柔らかそうな髪の長い、色白で淀みない黒目で、小さくて華奢なお人形のような人。
あんな風になりたいなぁ、と呟いた声は先輩にもその人にも届かなくて、こぼれ落ちた雫が、鍵にぶつかって弾けた。
そんな風になれたって、先輩はいないのに。




