変われないままの僕をどうか笑って
季節は真っ只中になって、学校祭時期になっていて、どうにも学校中の空気が浮き足立っていた。
俺はスランプ状態に陥ったように描けなくなって、キャンバスに色を置いては塗り潰して、白で上書きを繰り返している。
「先輩。今年の出品どうするんですか」
学校祭には美術部員全員が何作品か絵を出していて、展示をするのだが、この調子だと作品を出せるかどうかすら怪しかった。
それは後輩にも伝わっているようで、不安そうな顔でこちらを覗き込んでいる。
「大丈夫。何とかなるよ」
笑いながら強がってみるけれど、一作品だって完成出来る気がしていない。
***
夕日色に染まった美術室で、一人残ってキャンバスと向き合っていたが、進む気配がない。
白で塗り潰されているキャンバスが、俺を睨んでいるような気すらしてきて、更に気分が沈む。
皆帰ってて良かった、と眼鏡を外して眉間を人差し指と親指で挟み、揉み込んだ。
じんわりとした痛みが広がって、次にはほんの少しの爽快感がやって来る。
短く息を吐き出せば、それに被せるように扉の開く音がした。
「あぁ、いた」と独り言のような呟きが、扉を開けた主の口から放たれて、ツカツカとこちらに歩み寄って来る。
夕日の影を背負った来客はオミくんで、その手には見慣れたエナジードリンクが握られていた。
結構な勢いで額に押し付けられたエナジードリンクは、買ったばかりなのか冷たい。
ぐりぐりと押し付けられるので、何事かと目を瞬けば、MIOが、と聞こえる。
「MIOが持って行けって。それから、今日は窓を開けてみるといいことあるかも、だって」
占いかよ、と報告した本人が突っ込みを入れながら、更にエナジードリンクを押し付けてくるので、慌てて手を出せばその手の上に落とされる。
ひんやりとしたそれは、正直言って美味しいとは思えないものだ。
黒字に蛍光色の缶も、体に良いとは言えないような見た目だし。
微妙な顔をしている俺を見て、肩を竦めたオミくんは前髪で隠れていない方の瞳を細めて、取り敢えず、と口を開く。
「MIOはお前の為にならないことは、言わないんじゃねぇの」と、俺がその言葉に顔を上げた時には身を翻していて、入って来た時と同じ足音を響かせて出て行ってしまう。
本当にエナジードリンクを届けて、占いのような言伝をしに来ただけらしい。
細長い缶を持って、言われた通りに窓を開けてみた。
どこの窓でも良いんだろうか、開いた窓からはすぐに秋風が入り込んで来る。
美術室と同じように夕日色に染まるグラウンドには、誰もいない。
今の学校祭前は部活ごとの出店などもあるため、本格的な部活動をしているところを見るのは少ないのだ。
何となく寂しげなグラウンドを遠く眺めながら、肺に溜まっていた息を吐き出して気付く。
窓の直ぐ下にある黒い物体に。
その物体は何やら分厚い本を開き、その上に手を添えて眺めているようだった。
読んでいるような、次のページを捲る動きがない。
ぴくりとも動かない物体は、間違いなく人間だろう。
黒い物体――つまりは黒いパーカーを着た人間なのだが、丸く縮こまるような体勢で遠くから見ると何か分からないだろう。
怪しい物体に思われても仕方ないであろうそれは、袖口から綺麗な形の爪と指を覗かせて、本の紙質を確かめるように撫でる。
ゆっくりと、窓から身を離して深く息を吸う。
嗅ぎ慣れた絵の具の匂いで胸がいっぱいになって、今度はそれを全て吐き出す。
何だあれ、ぶわりと変な汗が出てくるのを感じて、白衣で頬を拭う。
何であんなところに人がいるのか、そして本を撫でているのか。
どうしたものかとさ迷わせた視線はエナジードリンクに向けられて、取り敢えずプルタブを起こす。
軽く口を付ければ、慣れない味が口の中に広がり、自然と眉が眉間の方へと寄っていく。
微妙な味を残したまま、落ち着きを取り戻してもう一度窓へと近付いてみる。
本が閉じられていて、代わりにしっかりとした素材の表紙を撫でていた。
指の隙間から見える文字には見覚えがある。
あれは、確か。
引っ張り出された記憶はそんなに古いものではなくて、それから芋づる式に引っ張り出された言伝に頭が痛くなる。
エナジードリンクを持つ手に力を入れて、息を吸う。
それからゆっくりと呼ぶ。
「作ちゃん」
噛み締めるように久々に呼んだその名前に、黒いパーカーはビクリと大きく震える。
どんなに驚いても、大切そうに本を抱き締める姿が、正しく彼女だと思う。
声を掛けたことにより、縮こまっていた体はもっと小さくボールみたいになる。
どうしたらそんな風に体を縮められるのか。
人間としての可動域が分からないくらいに、ぎゅうぎゅうと体を丸める作ちゃんは、本当に黒い物体になってしまう。
「作ちゃん、ごめんね。ごめんね」
窓から上半身を乗り出して小さくなってしまった作ちゃんの頭の部分を撫でる。
頭蓋骨の形を確認するように撫でれば、またしても体が小さくなった。
自分の体を抱え込むようにしている作ちゃんは何も言わない。
ただ、その体が震えているような気もする。
ごめんね、ごめんね、繰り返し謝ったとしても、何に対して謝っているのかと問われれば上手く答えられない。
好きだと言うことは変わらなくて、伝えたことを撤回する気もないのに、謝ったってどうしようもないのだ。
煽ったエナジードリンクはやっぱり微妙な味で、喉が大きく上下する。
「さきしろ、くん、ごめ、んね」
吐き出される言葉は酷く幼げで、まるで言葉を覚えたての子供のようで、上げられた黒い瞳はいつもよりも濡れていた。
大きな雫がぼたぼたと作ちゃんの膝の上に落ちていく。
泣いてても、表情は薄いんだ。
「うん。作ちゃん、ごめんね」
頭を撫でていた腕を掴まれる。
俺よりも一回り小さい手が包み込んでくれるけれど、その体温は俺よりも大分低い。
いつからそこにいたの、何でそんな所にいるの、毎日来てたの、何で言ってくれなかったの。
視界が滲んで、声が震えた。
指先も震えて、空っぽになったエナジードリンクの缶が窓から落ちる。
音もなく落ちたそれが転がって、その上に俺と作ちゃんの雫が落ちるのを見た。
きっと作ちゃんは俺のことを大切な友達と思ってくれているのだろう。
もしそうではなくとも、大切な幼馴染みの大切な友達くらいに思ってくれればいい。
嫌だって、無理だって、そう言ってくれてもいいから、嫌わないで欲しいなんて我が儘だろうか。
「すき、なの」
「え」
見下ろした作ちゃんは俺の手を握って、俺を見て、雫を落とす。
長い睫毛にその雫が絡んでキラキラと光っていた。
重そうな前髪がこの時だけは酷く鬱陶しそうに見えて、掻き分けてその顔を見たいと思う。
「でも、ちがうの」
ボクと崎代くんのは違うの、涙ながらに語られるそれは、真実であり本心で本音だった。
だからこそ、真っ直ぐに俺の心を射抜いてしまう。
そこから先は嗚咽ばかりが聞こえて、まともな言葉なんて聞こえなくなってしまう。
一瞬だけ胸の中で芽を出そうとした何かが、もそもそと戻っていくのを感じた。
でもそれは、仕方のないことで、誰も何も責められないことなのも知っている。
芽を出そうとしたそれは、いつかちゃんと顔を見せてくれるのか、俺には分からない。
えぐえぐ、ひっく、白い喉が引き攣って、鼻が真っ赤になってしまっている作ちゃんに、それでも俺は、と口を動かす。
ぼたり、俺から落ちた雫は握られた手の上に着陸して、するりと地面に消える。
「それでも、大好きなんだ」
ごめんね、嗚咽できっと聞こえなくなってしまった謝罪を、真っ赤な夕日だけが聞いていて、こんな俺を笑っているんだろうと思った。




