月下の鼠
「――参ったな。月が出てる」
月の明かりに照らされている白亜の城壁を見上げながら、ラットは一人呟いた。夜風に短めの外套をはためかせ、軽靴の爪先で足元の石畳を叩きながら、砂を被ったように白みがかった黒灰色の頭を掻いている。
「こう明るくちゃ仕事が難しくなる。……が、文句言ってる余裕もないか。もたもたしてると、それこそ見つかっちまう」
ブツブツと独り言を言いながら、ラットは外套の裏に隠していた鉤爪の付いたロープを取り出し、振り子のように先端を揺らして勢いをつけると、その先端に円を書かせるよう振り回し始めた。
ロープの先端にある鉄製の小さな鉤爪に、ラットは十分な遠心力を乗せると、城壁のてっぺんへと放り投げた。蛇のようにロープが波打ちながら空中を走ると、その先端は城壁の向こう側へと飛んでゆく。
ラットはそれを見届け、ロープを引っ張る。ロープの先端は体重を掛けても落ちてこず、うまく城壁の頂上に引っ掛かったようだった。
それを確認したラットは城壁に足をかけ、慣れた様子で登りはじめる。
(どうか、見つかりませんように)
緊張からか、涼しい夜だというのに、ラットの頬には汗が伝う。
ラットが盗賊として“仕事”を始めてから、もう十年近くになる。幼い頃からスリや空き巣で小銭を稼ぎながら生活を営んできたラットだったが、すでにその生業には疲れ果てていた。
まとまった資金さえあれば、小さなパン屋でも開いて細々と生きてゆきたい。そんなことを常々考えていたラットは、今宵、一大決心をする。
それが今宵の、『王宮への侵入』である。
ティエーラ大陸の端に存在する、『万花の芽吹く国』と謳われる国『フリチラリア』。その首都『ダリア』の街には、この国を治める王の一族の城郭があった。
小国ながらに繁栄を極めているこの国、それを治めるその一族は、その城に目がくらむほどの財を溜めこんでいるという。
そんな噂が盗人の間では飛び交っていた。
ラットは今宵、その噂の真相を確かめる決意をする。本来ならば小心者であると自負するラットは大それた仕事を避けるのだが、この先、延々とコソ泥を続けるより、一度の危険で後の安定を買いたいと考えていた。
(バカなことやってるな、我ながら……)
結局のところ“窃盗”に考えが終着してしまうおろかしさ。それに薄々気づいていながらも、ラットはロープを握る手に力を入れ続ける。いつ見張りに見つかるかと唇を震えさせながらも、着実にその体は城壁を登っていった。
途中、足が滑りそうになることもあったが、小柄な体格で身軽のラットは、難なく城壁の上にたどり着く。乱れた息を整えながら夜風に冷えた汗を拭うと、ラットは城壁の向こう側を覗いた。
そこには、いつもは遠くから眺めていた『フリチラリア城』がはっきりと見える。白灰色の高級石材を惜しみなく使った白い巨城は、本当に自分と同じ人間が住んでいるのか。本当は巨人かなにかが住んでいるのでは。そう思わずにはいられないほどに大きく見えた。
ラットはその城郭の風格に気圧されながらも、今度は眼下に視線を下ろす。
見下ろした先は城の中庭だ。広い敷地に規則正しく並んだ花壇には、幾千もの花が咲き乱れ、所々に薔薇やジャスミンのアーチが掛かっている。花の名を冠した国に相応しい、手間と時間を惜しみなくかけられた庭園が広がっている。
本来ならば延々と眺めていたくなるような風景だが、今のラットにそんな余裕はない。すぐさま周囲を見渡し、人影がないか確認する。
(見張りは……いないな。とりあえずは読み通り)
この国では明日より謝肉祭が開催される。ほとんどの兵はその準備と警備のために城外に出張るだろうと考え、ラットはこの日を選んで行動を起こしていた。
読みが当たったのか、実際、見張りと思しき兵士は中庭には見えない。ここ百年は戦乱とは無縁のフリチラリア、そんな平和な国ゆえの油断と慢心が見て取れる。
大して見張りがいないとわかると、ラットは悠々と侵入経路を模索する。城壁の上に直立し、広げた視界の中を見回した。
すると、城壁を降りたところより少し離れた場所、中庭を抜けた先に、城に生えたコブのような部分があることに気付く。そこには小さな窓と、見るからに使い古された木の扉が付いていた。なにかしらの作業場か、勝手口の類のようにも見える。
(……あそこからならいけそうだな)
ラットは昇ってきたロープを城壁の内側に掛け直すと、滑るように城壁を降りていく。
そのまま音も立てずに中庭へ着地したラットは、素早くロープを回収し、ネズミが走るかのように足音を殺しながら、そのコブ部屋に駆け寄った。
部屋の壁に体を寄せたラットは、その壁に横面を着けると、静かに耳を澄ませる。
(…………物音はしない、か)
ラットは室内が無音であることを確認すると、今度は小窓の方を覗き込んだ。
そこから見た部屋の中には壁一面に並べられた食器棚と、牛一頭をまるごと解体できそうな調理台、一つで軽く十人前のスープは作れそうない大なべが並んでいる。どうやらこの場所は城の厨房らしい。
その最奥には、城の内部へと続くだろう通路も見える。通路からも人気は感じられず、ラットの目には、侵入するに絶好の場と映った。
(よし、ここから入ろう)
ラットは迷わず木の扉に手を掛ける、
「……開かない」
が、肝心の扉が開くことはなかった。
ドアノブをよく見てみると、取手の下部には小さな鍵穴があるのがわかる。警備自体は手薄ではあるが、流石に戸締りを怠るほどには甘くはないらしい。
(古い扉だし、力ずくで壊せないこともなさそうだが……)
扉は半分腐っているのか、ラットが軽く力を入れるだけでも、扉は小さく悲鳴を上げている。ラットの体は小柄なほうたが、体当たりでもすれば開いてしまいそうだ。
しかし、仮にも忍んでこの場にるのだから、そんな目立つことはできない。もちろん、侵入する手段がないならそれも一つの手ではあるが、基本的に派手なことは避けるべきだろう。
となれば、ラットに残された手段は一つだけだった。
しばらく扉とにらめっこを続けていたラットだが、小さく溜息を吐くと、先端の曲がった細釘のようなものを一対、外套の内ポケットから取り出す。
それは、ラット手製の『鍵開け棒』だった。
「じゃあ、ちょいと失礼して」
ラットはそれを鍵穴に突っ込む。そして、周囲に気を配りながら、その先端を動かし続けた。
(……うん、複雑な鍵じゃないみたいだな。この程度なら――っと!)
手になにかが引っかかる感覚を捕えると、ラットはそのまま腕ごと鍵開け棒を捻った。
直後、小さく施錠が外れる音が鳴る。
すると、鍵の開いた厨房の扉は、まるでラットを招き入れるかのように、ひとりでに開いていく。風が吹いているわけでもなく、ましてや、ラットが自分で引いたわけでもない。それはまるで、透明ななにかが押し開けているかのようだった。
「な、なんだよ、気持ち悪いな……。建付けが悪いんじゃあないか……?」
その少し不気味な光景に、表情を曇らせるラット。しかし、時間を惜しんでいたラットは、どうせ建付けが悪いだけだろうと、鼻を鳴らして疑念を振り払い、足を踏み入れる。
厨房に足を踏み入れてみれば、すぐに香しい料理の残り香がラットの鼻先をくすぐった。
鼻の利くラットには、それが新鮮な野菜と骨付き肉を煮込んだにおいだともわかる。
(肉入りのポトフか。いいもん食ってるな……)
きっとここに住む人間は、なにくわぬ顔でこれをすすっているのだろう。そう想い、ラットは腹を立てた。
盗賊といっても、ラットはそれほど稼ぎが多いわけではない。腕はそれなりにあると自負してはいるが、必要以上に盗みを働かないのがラットのやり方、いわば信条だったからだ。『必要以上に奪わない』、『命までもは奪わない』、『貧しき者からは奪わない』。それが、無法者であるラットが自分に定める“不文律”だ。
しかし、ラットはそのせいで貧乏に苦しんでいる節がある。普段口にしているものと言えば、冷たい黒パンとキャベツの酢漬、たまの贅沢にバターひとかけらといったところ。肉はもちろん、温かいものにすらまともにありつけていない。
(……久々に、肉入りの温かいスープが飲みたいな、俺も)
自らの痩せこけた腹を擦りながら、ラットは厨房の奥、城の内部へと繋がる通路を進んでいく。
※
厨房から出た先は細い通路が真っ直ぐ続いている。剥き出しの石畳と飾り気のない左右の壁から察するに、この辺りは使用人たちしか使っていないだろう。それほどまでに、この通路は無骨な造りをしていた。
(明りは燈っていない、か。しばらく人は来なさそうだ)
その壁のところどころにはカンテラが吊るされていたが、幸いなことにどれも火が入っておらず、廊下を照らすのは小窓から差し込むか弱い月明かりだけ。ラットからすれば嬉しい誤算だ。
ラットは細心の注意を払いながら、足を擦るようにして廊下を進んでゆく。
(……さて、上に行くにしろ、下に行くにしろ、とにかく階段を見つけないと)
長年にかけて盗みを働いてきたラットは、人が財を溜めこむ際の傾向を十分に把握していた。もっとも高い場所か、もしくはその逆、低い場所、つまりは最上階か地下室の類、この二通りだと。
これは財を持つ当人たちからすれば盗まれることを警戒してのことだろうが、ラットのような盗賊からしてみれば、それは場所を教えてもらっているようなものだ。仕事をする上ではむしろやりやすい、ラットはそう考えたことすらあった。
とはいえ、どちらにせよ階段を見つけなければ話にならない。周囲にそれらしいものがないか見渡しながら、ラットは歩調を速めた。
しばらく廊下を進むと、ラットは遠方の暗がりの中に薄明かりを見つける。
(……あれは?)
石壁をぼんやりと照らしながら、それは徐々にラットの方へと拡大しているようだった。暗がりの黒を埋めるように、赤みがかった光が押し寄せてくる。
(――まずい! 誰か来る!)
ラットは、それが明りを持った人間が近付くものだとわかる。
そうわかるや否や、ラットは大慌てで隠れられる場所ないか見渡した。
しかし、ここは一本道の廊下。逃げ込める部屋どころか、身を隠せるような物すらない。
そうこうしている間にも、明かりはどんどん強くなっていく。間もなく、木槌を軽打するような足音も聞こえてきた。誰が来るのかはともかくとして、遭遇の時は近い。
(…………仕方ない!)
ラットは小さく舌を鳴らすと、持ち前の身軽さを活かし、廊下の壁を駆けあがって壁と天井の角へと昇る。その姿はそれこそネズミようだ。
人間の死角である真上、それも薄暗がりの中ならば、あるいは気づかれずに済むかもしれない。そう考えたラットはそのまま両手足を器用に使い、蜘蛛の巣が張るように角隅に体を固定する
(気付かないでくれよ……!)
大きく息を吸い込み、息を止めるラット。
(…………来た!)
そうしてラットが息を殺していると、一本廊下の左の壁から、目付きの険しい一人のメイドが出てきた。その手には火のついた燭台と、花柄陶器の水差しを持っている。
(壁から……? あ、いや、左に通路があるのか?)
薄暗いためにわかりにくいが、この先は左に別の通路があるらしい。メイドが手に持っている明りのおかげで、わずかにその分岐の角が見える。
メイドは一度ラットのいる方角に明りを向けるが、その明りは天井までは届かず、ラットの爪先で明りが途切れた。
わずかに残った影の中で、ラットはひたすら息を飲む。
「……気のせいかしら」
ラットの気配を感じていたのか、メイドは少し怪訝な表情を浮かべたが、結局、気付かぬままその場を去ってゆく。
(い……行ってくれたか……)
ラットはメイドの気配が遠のくのを確認すると、胸を撫で下ろしながら天井から飛び降りた。両手を使って獣のように、音もなく床に降り立つと、そのままメイドの出てきた通路へと近づく。
ラットは廊下にある分岐路のすぐ手前で壁に背を着けると、頭だけを出してその向こう側を覗き込む。
その通路の先には、人一人がようやく通れるほどの小さな階段があった。それはらせん状に城の上方へと伸びているようだが明りはなく、初めの数段以外は暗闇に埋もれている。
(……大当たり)
ラットは思わず口元を緩めた。
あの貧相な階段のあり方から鑑みるに、恐らくそれは使用人専用のものなのだろう。富豪などが住む大きな屋敷には、こういった裏方仕事の人間が動くための通路や階段が設置されることが多いが、この王宮も例外ではないらしい。普通の人間なら好き好んで通りたいとは思はないだろうが、人目に付きたくないラットからしてみれば、この階段はまさに渡りに船だった。
(さっきのメイドが見回りだとすると、しばらくはあの階段に人は通らないはず……)
ラットは迷うことなく、その階段に足を掛けた。掛けた足は暗闇に飲まれて見えなくなるが、ラットはそれに怯むことなく、その階段を登る。