夏の日の達磨
俺は小さい頃から人形というものが嫌いだった。やつらはいつも同じ表情で、なにもせずにじっとしている。その目はいつでも不気味にこちらを見てくる。なぜあんなものを可愛がるのか、俺には理解できなかった。
俺の住む家の居間の棚に、両手で抱えるぐらいの大きさの達磨が置いてある。人形と同じく、この達磨も大嫌いだった。こいつはさらに気味の悪いことに、片目なのだ。左目は丸く、黒く光っているが、右目は真っ白である。俺はこの達磨が嫌で嫌で仕方がなかった。なぜこんなものを置いているのかと母親に聞いたことがあった。曰く、母親の父親、つまりは俺の爺さんが死ぬ前に買ってきて、右目を入れる前に死んでしまったから、これは爺さんの形見なんだそうだ。爺さんは俺が生まれる直前に死んだ。その達磨にどんな願い事をかけたのか母親は聞いていない。だからそれが分かるまでは右目を入れないんだと言っていた。
俺はしばしばその達磨を壁に向けて、その気持ち悪い目を見えないようにした。しかし、しばらくするとまた親が向きを戻すのだった。何度か親にこいつを押入れにしまってくれと言ったが、そのたびに決まって、これは大事な形見なんだ、何でそんなことを言うんだと怒り出した。それがまた面倒になって、結局この達磨は居間でずっと片目を光らせている。
俺は全く真面目な学生ではなかった。中学に入ってからよくタバコを吸うようになったし、万引きもした。気が短い性格だったが、体格が良いせいか、喧嘩を仕掛けられることはほとんどなかった。人に暴力を振るう機会もなかったし、別段振るいたいとも思わなかった。俺は自分がやりたいように行動していた。
中学一年の夏ごろ、クラスでいじめが始まった。狙われたのは、気が小さくて線の細い男子だった。入学したときからいつも下を向いて、時折きょろきょろと周りを窺った。そして小さな声でぶつぶつと独り言を言っていた。そいつは周りからガリと呼ばれていた。俺はいじめたいとは思わなかったし、いじめをやめさせようなんていう正義感も、当然持ち合わせていなかった。つまり、俺はいじめに興味がなかった。
しかし、その日はなんとなく気分が乗っていた。七月の暑い夏の日だった。
下校の時間になると俺はガリの席の近くに行って、一緒に帰ろうと声をかけた。何の意味もない、ただの遊び心だった。ガリの家は俺の家に近かったから帰り道はほとんど一緒だったのである。ガリは俺を怖がっていたが、うんと力なく頷いて一緒に帰ることになった。おそらく断るとなにかされると思ったのだろう。
俺たちは帰り道を歩いていた。
俺は意地悪をしようなどとは全く思っていなかった。ただどんなやつなのかが気になっただけで、それもほんの気まぐれだった。
「お前さ、いっつもいじめられてんのになんでなにもやり返さないの?」
俺がそう聞くと、歩きながらずっと下を向いている。そして、すごく小さな声で何かを言った。
「なんだって? もっとでかい声で話せよ。聞こえねえよ」
ガリはしばらく黙って、何とか聞こえるぐらいの声で答えた。
「お母さんが悲しむから」
「いじめられてるだけの方が悲しいだろ」
「お母さんは知らないから」
「親は関係ないだろ。お前は嫌じゃないのかよ」
「大丈夫、我慢できる」
「我慢してどうするんだよ。少し本気出して殴ってやればいじめられなくなるかもしれないだろ。そんなんだからいじめられるんだよ」
そう言うと、また黙ってしまった。
俺たちは人通りの少ない路地を歩いていた。そのとき周りに誰もいなかった。
ガリはずっとポケットに片手を突っ込んでいる。ポケットの中の何かをずっと握っているようだ。だんだんとそれがなんなのか気になって、俺は何を握っているのか聞いた。
「誰にも言わない?」
「言わない」
ガリは俺が悪いやつじゃないと思ったのか、ポケットから握ってるものを出して俺に見せた。
それは小さな人形だった。布で出来ていて、丸くて真っ黒なビーズの目と半円の口でにっこりと笑っていた。
「なんでそんなもん握り締めてんだよ」
「ピッピが一緒にいてくれてると思うと元気が出るから。あ、ピッピていうのはこの人形のことで、これはお母さんが作ってくれた人形で、僕が六歳のとき…………」
ガリはべらべらと喋りだした。俺は急激にガリに嫌悪感を抱いていた。
「うるさいんだよ。そんなもんに頼ってるからいつまでもいじめられるんだろ。気持ち悪いな」
俺がガリの言葉を遮ってそう言うと、また黙りこむ。そして人形をぎゅっと握ると、悲しそうな顔をして下を向いた。俺はガリのその顔に心底腹が立った。
「それ貸せ」
俺はそう言ってその人形をガリの手から奪った。そして持っていたライターで人形を燃やそうとした。
「なにするの! やめてよ! やめてよ!」
必死に俺から奪い返そうとするガリを蹴飛ばして、俺は人形に火をつけて道端に投げ捨てた。人形はどんどん燃えた。ガリははたいて火を消そうとしたが、人形はあっという間に燃え尽きた。
夕暮れ時の赤い太陽の光が地平線から道を照らしていた。遠くで蝉が鳴いている。
ガリは燃えカスを前に、地面に跪いている。そして体がわずかに震えている。俺は気持ち悪い人形を燃やすことが出来て清々しかった。これでこいつも現実と向き合うようになるんじゃないか。そんなことを考えていた。
ガリは立ち上がってこちらを向いた。怒りに満ちた顔をしている。しかしその目は、全くの無表情だった。ただ、丸い眼球がそこにあるだけのように感じられた。それはまるで人形のビーズの目のように。俺は一瞬ぞっとした。
「許さない」
ガリがわずかに聞こえるぐらいの声でそういうと、俺のほうに向かって歩いてきた。そして油断していた俺の顔面に強烈な拳が飛んできた。俺はもろに顔に拳を受けて、大きくよろめいた。さらに続けて腹や背中を殴られた。あの痩せた体からは想像できない衝撃だった。
俺は頭にきた。体勢を立て直してガリを殴り飛ばし、倒れたガリに馬乗りになって顔を殴った。ひたすらに殴り続けた。
気付くと俺の拳は血まみれになっていた。ガリの顔は元の形が分からないほどぐちゃぐちゃだった。ガリは気を失っているようだ。血が辺りに飛び散っている。立ち上がって振り返ると赤い太陽が浮かんでいた。俺はガリをおいて家に帰った。
家に着いてすぐに血で汚れた服を洗濯機に放り込んで洗った。シャワーを浴び、血を落として、きれいな服に着替えた。俺はゆっくりとソファに座って、目を閉じて心を落ち着かせた。
普段あまり喧嘩をしないせいで、加減が分からなかった。あいつを放っておいて大丈夫だろうか。もしかすると、死んでしまうんじゃないだろうか。いや、あのときにはもう死んでいたかもしれない。俺はガリを殺してしまったかもしれない。
しかし、ほとんどのことはどうにかうまくいくものだ。ガリもうまいこと病院に行って、一週間後にはけろっとして学校に来るに違いない。停学処分を食らうぐらいで済むだろう。心配するほどのことはない。そうに違いない。
俺は自分にそう言い聞かせて、ゆっくりと目を開けた。
正面には達磨がいた。左目で、俺をじっと見ている。まるで全てを知っているかのように。
なんでそんな目で俺を見ているんだ。何が言いたいんだ。
俺がどれだけ睨み返しても達磨は顔色一つ変えずに俺を見てくる。気分が悪くなって、俺は自分の部屋に戻った。
ガリは次の日から学校に来なかった。俺が先生に呼び出されることはなかった。しかし、時間の問題だということは分かっていた。
三日後の夜、家に人が来た。母親に呼ばれて行くと、知らない女が玄関の引き戸の手前に立っている。女が俺と二人で話をしたいと言うと、母親は少し躊躇いながらその場を離れた。
俺と女は少しの間何も言わずに見合っていた。そして、女が先に口を開いた。
「私の息子を殺したのはあなたですか?」
俺は気付いていた。こいつはガリの母親だ。顔がよく似ている。
「死んだんですか?」
「息子は昨日の夜、死にました」
人を殺してしまったのだ。俺は絶望した。それと同時に、観念した。
「俺が殺しました」
女は俺を黙って見ている。しばらくして、ガリのように小さな声で、しかし、力強い声で、話しだした。
「私は一人で息子を育ててきたの。他に兄弟もなく、あの子が私の全てだったの」
俺は何も言えず、じっと女の目を見ていた。その目は、あのときのガリと同じ、全くの無表情の目をしている。俺を見ているようで見ていない。いわば虚無を見つめている。そんな目だ。
「あなたは私から全てを奪った。だから私もあなたから全てを奪う」
女はそう言うと、玄関から出て行った。
俺はそれから二年間を少年院で過ごした。少年院では徹底して真面目に過ごした。何度か家族と面会したが、ガリの母親に言われたことを伝えたことはなかった。
終わってみれば、二年間はあっという間だった。なにかと不自由が多いのは苦痛だったが、殺人を犯したにしては楽な代償だと感じた。
俺が出院して家に着いたのは昼過ぎだった。久しぶりに自宅を目の前にすると自然と懐かしさがこみあげてくる。
蝉がやかましく鳴いている。そういえば、あの日もこんな暑い夏の日だった。俺は玄関の引き戸を開けて中に入った。
「ただいま」
返事はない。誰もいないんだろうか。休日の昼に家に誰もいないとは珍しい。それに、今日俺が帰ってくるということは知っているはずだ。不思議に思いながらも俺は中にあがった。
居間に入ると、テーブルの上に達磨が置いてある。達磨だけではない。隣には、家族の生首が並んでいた。母親、父親、兄、妹、それぞれの首が丁寧に達磨と向きをそろえて置いてある。その生首は全て、達磨と同じように右目がくりぬかれていた。
背筋が凍った。俺は腰を抜かして、無様に床を這い蹲りながら外に逃げだした。
俺は警察に電話して保護された。俺はガリの母親が家族を皆殺しにしたのだと確信していた。
俺が出院してから警察に連絡するまでの間に、家族四人を殺し首を切り取るのは時間的に不可能だと判断され、俺はほとんど疑われなかった。
俺は父方の親類に引き取られた。中学生の子供を二人持つ四人家族だったが、俺のことは邪魔に思っていたようだ。殺人犯を家においておくのは気持ちのいいことではないだろう。それに、俺の家族は一人残らず惨殺されたのだ。一緒に暮らしていれば自分たちに被害が及ぶかもしれないと考えるのは自然なことだ。
残りの中学卒業までの間は里親の家から通った。卒業したら働きながら一人暮らしがしたいと伝えると、やつらはすぐに承諾した。むしろ有難かったのだろう、あんな笑顔を見たのはそのときが最初で最後だった。
俺は遠くに引っ越すことにした。あの女が見つけられないように、うんと遠くに。
何百キロも離れた地で俺は安い下宿を見つけた。里親に契約だけしてもらい、そこで暮らすことになった。
一年ほどは不安定な生活を送っていた。短期バイトや日雇いバイトで一日一日を食いつないだ。下宿は四畳半一間で、物はほとんど置いてなかった。服すらも、数着しか持っていなかった。贅沢をする余裕など、これっぽっちもなかった。どうしても食う金がないときは、里親に頼み込んで金を振り込んでもらった。
一年ほど経って、個人経営の居酒屋でバイトを始めた。懐の広い大将で、なんでこの歳で一人暮らしをしているのかとか、俺の過去を穿鑿するようなことは一切しなかった。ただ連絡先と住所を伝えると、俺を雇ってくれた。
俺は大将になるべくたくさんシフトに入れてもらうよう頼んだ。おかげで俺の生活は劇的に安定した。里親に借りた金を返して、多少の娯楽品を買うことも出来た。
バイトは俺の他に二人いた。男と女が一人ずつ、どちらも大学生だった。彼らは俺の素性が気になるようであれやこれや聞いてきたが、大将が気を利かせて話を逸らしてくれた。そのうち俺から何か聞きだそうとすることはなくなった。
俺はそのバイトを四年間続けた。俺以外のバイトは次々に入れ替わった。最初の二人ももういない。俺はいつのまにか成人した。俺は大将にずっと可愛がられていた。
休みの日や空いた時間は好きなことができる。ちょっとしたショッピングを楽しむことも出来る。交友関係はほとんどなかったし、女にも恵まれなかったが、俺はその生活に満足していた。
その日も俺は普段通りバイトに出かけた。暑い夏の日だった。
昼の四時前に店に着いた。暖簾をくぐって店内に入る。
「おはようございます」
返事がない。普通なら大将が仕込みをしている時間だ。俺はすごく嫌な予感がした。
厨房まで入ったが、やはり誰もいない。俺はおそるおそる辺りを探った。
それはあった。大将の生首が、流し台の上に置いてある。そしてやはり、右目がくりぬかれている。
俺の背筋は、またもや凍りついた。しかし、今度は腰を抜かすことはなかった。
俺は立ち尽くしてその生首を見ていた。生首の方も、左目でじっと俺を見てくる。まるで、全てを知っているかのように。その目は、無感情の、虚無を見つめる目だ。俺は自分の未来が見通されている気がした。永遠に幸せが訪れない、絶望的な未来を。俺はただひたすらに戦慄した。
俺は警察に電話した。もちろん警察に疑われたが、起訴はされなかった。五年前と同じ、右目をくりぬかれた生首。未だに五年前の事件の犯人は捕まっていない。俺の家族を皆殺しにした犯人と同一犯だと警察は思っていたようだ。五年前の事件は俺にアリバイがあるし、今回も俺が大将を殺す理由がない。俺はすぐに解放された。
引っ越そう。もっと遠くへ、ずっと遠くへ。人目につかない、ずっと田舎へ。もしかすると、どこへ行っても同じかもしれない。それでも、可能な限り見つからないように。
俺が少年院にいた時に、面会で母親から聞いた記憶が蘇った。俺がガリを殺してから数ヵ月後、ガリの母親は姿を消した。銀行口座もなくなり、慰謝料を払うことが出来なくなったと言っていた。
俺は電車に揺られていた。あの女はいまどうしてるのだろうか。もしかすると、いまもこの電車に乗って俺を見ているのだろうか。そんな考えが頭をよぎり、車内を見回してみたが、それらしい客はいない。確認してみても、不安感は拭えない。ずっと頭が痛かった。
俺は一日中電車を乗り継いで、田舎を目指した。電車を降りて、とにかく山のほうに向かった。住むあても、働くあてもなく、ただ人の少ない土地を求めて歩いた。
数時間も山の中を歩いて、日はとうに沈んでしまっている。疲れきって、ここで野宿しようかと思っていると、民家の光が見えた。進んでいくと山間の集落があった。
俺は最初に見えた大きな家屋を訪ねた。中から初老の男が出てきて、訝しむような目で見てきた。無理を承知で一晩泊めてほしいと頼むと、意外にも快諾してくれた。
家にあげてもらってから、俺はなるべく愛想よくした。居間には家族と思われる人たちが五六人ほどいた。
なぜこんなところに来たのかと聞かれたが、都会暮らしに疲れたなどと適当に嘘をついてごまかした。この村に住みたいと言うと、皆渋い顔をして、俺の理解できない方言であれやこれや言っていた。よそ者が入ってくるとろくなことがないということを、遠回しに言われた。それでもぜひとも住みたいと伝えると、空いた家はいくつかあるから、地主に言って地代を払えば住んでも構わないはずだと教えてもらった。近くの工場が人手が足りないから、あそこなら雇ってくれるかもしれないと言っていた。
次の日、村を回って空き家を探した。どの家も俺が一人で住むには大きすぎるものばかりだった。一番小さな空き家でも家族四人が余裕で住めるぐらいの広さだった。俺は仕方なくその一番小さな家に決めた。
教えてもらった工場に行き工場長のおっさんを見つけた。働きたいと伝えると、よっぽど人手が足りなかったのか、すんなり雇ってもらえた。
新しい生活は思った以上に順調に進んだ。不便は多かったが、元から贅沢な暮らしをしていなかったからかすぐに順応できた。
工場の仕事は大変だった。いままでと比べて拘束時間が遥かに長いし、重労働だった。特に専門的な機械を扱う技術を身につけるのは、いままで頭を使ってこなかった俺にとって最も難しかった。そのためによく勉強した。はじめのうちはいろいろとへまをしたが、工場長は根気よく俺を使ってくれた。
一年も住むと、すれ違う人が笑顔で挨拶してくれるようになった。工場の仕事仲間などを通じて村の人との輪も広がった。
その村で、俺は平穏な五年間を過ごした。住民票も移した。未だに持っていなかった運転免許は三年目ぐらいのときに有給を使ってとった。近所の方から野菜をおすそ分けしてもらったりしていると、食費もあまりかからなくなっていき、お金はどんどんたまった。
傍から見れば、俺は幸せな人生を送っているように見えたことだろう。しかし、夜寝ると決まって夢に生首が出てきた。生首が出てこなければ、ガリが出てきて、あの虚ろな目で見つめてくる。俺は毎晩うなされた。汗だくになって目を覚ますたびに、自分の運命を呪った。
夜だけでなく、起きているときでも不安感はつきまとった。赤い夕日を見ればガリを殺した日のことを思い出し、蝉の声を聞けば家族の生首を思い出し、日差しの強い日には大将の生首を思い出した。ガリの母親は俺がこの家に住み工場で働いていることをもう知っているんじゃないだろうかと、びくびくしていた。
俺は村の人達に決して自分の過去を話さなかった。昔の事を聞かれればいつでも嘘をついた。村の人が俺の過去を知る術はない。それでも、村の人達は俺を人殺しだと分かっているような気がいつもしていた。いつからか、俺は周りをきょろきょろと窺うのが癖になっていた。
その日、工場の仲間が結婚するとかで、俺は結婚式に出向いた。結婚式が終わった後、村で宴会が催された。その宴会で、俺は十九歳の村の娘と知り合った。歳も若干離れているが、なぜか俺たちは意気投合した。その様子を彼女の親父さんが見ていたようで、村で誠実に暮らしてきて評判も悪くなかった俺は、親父さんにもらってくれと言われた。そのとき俺と彼女は苦笑いしていた。
それから半年間付き合って結婚した。女と付き合ったことがなかった俺は、いままで感じたことのない幸せを知った。彼女と一緒にいるときは、ガリのことも、ガリの母親のことも忘れることが出来た。
彼女は俺が住んでいた家に住むことになった。彼女の両親は夫婦二人だけで住むことになったが、家が遠いわけでもなかったから、反対することはなかった。
一年後、子供が生まれた。女の子だった。子供がこんなにも可愛いものだとは知らなかった。
娘はすくすくと成長した。はいはいして、立ち上がって、お父さんと呼んでくれた。俺の生きがいは妻と娘だけだった。
娘が三歳になったばかりの七月のこと、俺は仕事の関係で二三日家を空けないといけなくなった。妻と娘をこの時期に二人だけにするのは俺を無性に不安にさせた。妻に、必ず実家の親の元で寝泊りしておいてくれと念を押して頼んだ。妻は心配しすぎだと笑っていたが、俺があんまり真剣に言うものだから、分かった分かったと承諾した。
俺は仕事を済ませ、夕方ごろ村に戻ってきた。赤々と燃える太陽が空に浮んでいる。
大将が死んでから八年も経っている。なぜそこまで怯える必要があるだろうか。
車を庭に停めて、玄関を開けた。
「ただいまー」
返事はない。俺は家の中に入っていった。居間の扉を開ける。
テーブルの上には、生首が四つ並んでいる。義父、義母、妻、娘。そして、四つとも右目がない。
近寄ってその顔をよく見る。どうみても、娘の顔だ。あんなにも生き生きとしていた娘の目が、虚ろに無を見ている。
俺は膝から崩れ落ちた。このとき初めて悲しみというものを知った。うずくまっていつまでも泣いた。やかましく泣いた。それはきっと、蝉の鳴き声によく似ていたに違いない。
夜が来た。俺は立ち上がって夜の山の中に入っていった。
俺は暗い山の道なき道を、なにかから逃げるように、しかし何も考えることが出来ず、ただひたすらに彷徨った。
辺りが真っ暗になったころ、俺は大きな寺を見つけた。道も続いておらず、山の中にぽつんと孤立している。
木々をかき分けて寺の玄関まで回ってきてようやく気付いた。これは廃寺だ。そこらじゅうがぼろぼろになっている。
玄関から中に入ると、広々とした空間が広がった。中は不思議に涼しい。床は荒れ果てている。そして正面に、大きく立派な仏像があった。
その手前に、仏像のほうを向いて誰かが座っている。
近くに行ってみると、初老の男が座禅を組んでいた。暗くてよく見えないが、眠っているわけではないようだった。しかし、俺が近づいても全く反応しない。俺はその男に声をかけた。
「こんなところでなにをしているのですか」
すると、男はすぐに答えた。
「なにもしていない」
男は身動きひとつせずじっと前を向いている。
俺はその男の斜め後ろに腰を下ろし、その男を見ていた。
気付くと朝になっていた。こんなところで寝てしまったらしい。
顔を上げると、昨日と全く同じ姿勢で、同じ方向を向いて、男は座禅を組んでいた。
俺は何をすることもなく男を見ていた。男も何も言わず前を向いてじっとしている。
俺はそのうち村のことを考えた。村人はもうあの生首を見つけただろうか。そして俺が殺したと思って、探し回っているだろうか。工場は大丈夫だろうか。いろんなことが頭の中を廻った。しかし、俺には村に戻る元気はなかった。また警察が来て、村人に白い目で見られる。呪われたこの人生を否応なく受け入れ続けるのにはもう疲れた。妻も娘も死んでしまったというのに、そこまでして頑張って生きる意味があるだろうか。俺はわずかなひとときでも、全てから逃げ出したかった。
俺がそんなことを考えている間も、男は動かない。石像のように、じっとしている。俺はその間寺を見て回った。ついにまた日が落ちた。夜が更けて真っ暗になっても動かない。俺は痺れを切らして男に聞いた。
「あなたはいつからそうしているのですか」
「三日間だ」
三日もそうしていられるのか。俺は半ば信じられなかった。
結局俺はその晩も荒れ果てた床の上で寝転がって眠った。
朝になって起きると男がいなかった。俺がそこで数時間寝て待っていると、男が体を濡らして帰ってきた。手には山菜をいくつも持っていた。男はそれを床に放ると、また仏像の前に座って座禅を組んだ。
俺はひどく腹が減っていた。山菜を食べていいかと聞いても何も答えないので、勝手に食べた。男は無言で前を向いていた。
明るくなってから、改めて男をよく見た。体に布を羽織っているが、どうやらひどく痩せているようだ。頭は禿げてしまって、毛はほとんどなかった。目をうっすらと開けている。そしてその目は、生首の眼差しと全く一緒だった。両目こそあるものの、その目は虚無を見つめている。この目をした生きた人間は、ガリと、ガリの母親の二人しか知らない。
俺は途端にこの男が気味悪くなった。しかし、俺は同時に言い知れない魅力を感じた。魅力と言うよりも、尊敬の念が自然と湧いたと言うほうが適切かもしれない。
俺はやがてその男をひたすらに真似して、いつでも後をついて回るようになった。
彼は三日に一度、近くの川に行って体を流した。そしてそのときに山に入って、山菜を取ってきた。もちろん、一切調理せずにそのまま食べた。後の時間は、彼はずっと座禅を組んでいた。
俺たちは毎日座禅を組んだ。俺はすぐに諦めて寝たが、彼はずっと座禅を組んだ。彼が寝ているところを俺は見たことがなかった。
ある日俺は聞いた。
「なぜあなたは座禅を組んでいるのですか」
「苦しいときは座禅を組めばよい」
「あなたはいま苦しいのですか」
「苦しい」
俺から見れば彼はいつも超然としていて、とても苦しんでいるとは思えない。彼のその言葉を俺はよく理解できていないように感じた。
彼と何日も何日も過ごした。日付はとっくに分からなくなっていた。
夏が終わり、冬が来た。冬が終わり、また夏が来た。季節が何度廻ったかもう分からなかった。
「なぜ仏像の前で座禅を組むのですか」
「意味はない。これがただそこにあるだけだ」
「仏像は嫌いです。なにもせずにじっとしているだけです」
「私もお前も同じだ」
「なぜこの寺を掃除しないのですか」
「掃除は生きた人間のやることだ」
「あなたは死んでいるのですか」
「死んでいる」
「蝉はなぜあんなにも悲しい声で鳴くのですか」
「生きているからだ」
俺は彼にいろんなことを聞いた。そのたびに彼は即座に、ぶっきらぼうに答えるのだった。それは俺にはさっぱり理解できないことばかりだった。俺はいつまでも、彼のように座禅を組むことが出来なかった。
ある日、俺がたまたま一人で川にきて水を浴びていると、偶然にも俺の元に警察がやってきた。俺は容疑者として連行された。
俺の妻や娘が殺されてから四年近くが経過していた。今までどこでどうやって暮らしていたかを聞かれたが、廃寺のことは話さなかった。
俺が出くわした三つの事件のいずれも、やはり犯人は捕まっていなかった。四年前の事件にも、やはり俺にはアリバイがあった。
長い取調べの末、ようやく俺は開放された。
俺はすぐにあの廃寺に向かった。
しかし、一向に見つからなかった。あのときはがむしゃらに動き回って偶然見つけたため、どう行けば辿りつくのかが分からなかった。暗くなって、川からの道のりも分からなくなった。
この日もまた、季節は夏だった。暑い夜の山の中、あの廃寺を探し求めた。
そして一晩中探し回って、ようやく見つけた。我が家に帰ってきた。ほんの少し、空が明るくなっていた。
俺は玄関から中に入った。変わらず荒れ果てた床が広がっている。
しかしそこには、彼の姿はなかった。代わりに、知らない人間のシルエットが見える。そいつは仏像のほうを向いてしゃがんでいる。大きなコートを着ていた。俺が少しずつ近寄ると、そいつは俺に気付いた。そして立ち上がって、振り向いた。
ガリの母親だ。今目の前に、あの女がいる。
あの日から十八年が過ぎた。この女の顔も、ずいぶんと老けていた。そしてあのときと同じ、虚無を見つめる目で、俺のほうを見ていた。
「ここでなにをしていた」
女は老けた声で答えた。
「人を殺していたの」
女が足をどけると、そこには俺が心から尊敬していた男の生首が置いてあった。いつも通り、右目がくりぬかれた状態で。
しかし俺はまだ救われた。なぜならその左目は、生きていた時となにも変わらなかったから。
「なぜ俺の居場所をいつも知っていた」
「ずっと後を追ったから。ばれることがないように。でも、とうとう見つかっちゃった」
「なぜそこまでする」
「あなたが私の全てを奪ったから」
「お前は俺の娘を殺した。それに加えて親兄弟妻を殺した」
「命は皆平等よ。十人殺すよりも一人殺すほうが罪が軽いなんてことはないの」
女は淡々と答えた。まるでからくり人形のように。
「お前の息子はいじめられていた」
女は少しだけ眉間に皺を寄せた。おそらく知らなかったのだろう。
「あいつは、お母さんが悲しむからと言って、小さな人形を握り締めていじめを耐えていた」
俺がそれだけ言うと、女はぼろぼろと泣き出した。その場にうずくまって、下を向いて静かに泣いた。
「だから俺がその人形を燃やした」
女は泣きながら聞いてきた。
「どうして?」
「人形を握り締めていても何も解決しないからだ」
俺は喋りながらゆっくりと女に近づいた。すぐ傍まで近づくと、うずくまる女の顔を思い切り蹴り飛ばした。
女は床に仰向けになって倒れた。俺はすぐさま女に馬乗りになって顔を殴った。ひたすらに、今度は確実に殺すつもりで、殴り続けた。
気付けば、朝日が玄関から寺の中に射し込んでいる。俺の拳は血まみれになり、女の顔はぐちゃぐちゃだった。女はすでに死んでいるようだ。俺の服は返り血を浴びて真っ赤に染まっていた。
俺は立ち上がった。そして体一杯に、大きな太陽の祝福を受けた。
やっと自由だ。俺はついに自由なのだ。ついに解放されたのだ。
俺は朝日に向かって、一歩一歩踏みしめながら歩いた。
そして玄関から外に旅立った。
仏像は見ていた。
生首と女の死体の向こう側に、光の中に消えていく男の背中を、その丸い両目で、じっと見ていた。