スナックのママ
あるスナックの常連だった。半年前から、週に何度も通っていた。
確か、ビルの5階全部がその店だったはず。30人ちかくも座れる長いカウンター。ボックスも相当沢山並んでいたように記憶してる。
常時10名ほどの女の子が、そのカウンターの中にいた。ママの方針なのか、女の子がボックに座る事をしない店。
肌を必要以上に露出させてる女の子もいなければ、身体にフィットするような服も着ていない。確か、名前も全員が本名だったような気がする。夜の商売にしては、極めて色毛の無い店。
それでも、異様に客が入っていた。女性だけの客も不思議と多く、週末となれば全てのボックスが何回転もしていた。
平均年齢が若い。店の女の子も若いし客も若い。ママ1人だけが40代で、太った女だった。そのママが言っていた。
「女の子は、全部アタシが選ぶの。基準がある訳じゃないんだけどね。会った瞬間に、不思議と――あ、この子だ――って、ピンと来る子に決めてしまう。後から分かるんだけど、みんな年も近いんだよね」
店の女の子は、俺が知ってる限り全員が21歳から25歳だった。特に、21歳の女の子が大半を占めていた。更に、どの子も水商売が初めてらしい。
よく、そんな未経験の子ばかりを集めたもんだよな。と、妙に感心したものだった。そんな俺も21歳で、とにかくクラス会のような店。どの子に対しても、距離を感じる事が無かった。
俺は、客のようで、店の人のような存在。
1人で飲みに行くうちに、カウンターが一杯だった日など、いつの間にか、カウンターの中で飲んでいた。女性の2人連れの客も多く、いくら飲んでも、あまり変わらない俺は、その話相手に、うってつけだったのかもしれない。
そんな俺の傍には、いつもカナがいた。
21歳で、二重の大きな目をした女の子。ハスキーな声で、とにかく、よく笑う子だった。店が終わった後に、しょっちゅう2人で飲み直しに繰り出していたのを、今でも思い出す。
他の女の子達からは、公認の仲に見られていたのを、俺もカナも知っていた。
互いに、言葉には出さなかったが、俺もカナを目当てに店に来ていた。カナも俺の事が好きだった。それを、互いに知っていたが、実は、キスすらした事が無かった。
俺は、ママの事を気にしていたのだと思う。独特な雰囲気を持った女が、その店のママだった。
店の女の子は、「ママって霊感強いの」と、誰しも口を揃える。
「いらっしゃい」
「いらっやいま…え?……ママ、誰も来てませんけど……」
「あら、ほんとだ。今、4~5人のお客さん、入って来たの見えたんだよ」
そう言う日は、店は必ず混んだ。
◆
或る日、俺とカナはママに誘われ、店が終わる前に、3人で出掛けた。
そこは、カウンターしか無い小さな店。そのカウンターにしても、6人程度しか座れ無い大きさだったと思う。
かなり年配で、ぶっきら棒な女が1人でやってる店。客がいる限りオールナイトのスナックだった。
他には誰も客のいない中、俺は、初めてママと長い時間喋っていた。どんな話をしたかは、あまり覚えていないが、カナがママのお気に入りの子だと、ハッキリ分かった。実の娘のように思っていたのかもしれない。
カナはアルコールが、あまり好きでは無い。飲める事は飲めるが、自分から盃を重ねようとはしない子だった。
連れて来られたスナックは、初めて入る店だった。カウンターの中に、高さの低い冷凍庫があるのに目が行った。側面に男の子がアイスキャンディーを美味しそうに舐めてる姿が描かれている冷凍庫。コンビニやスーパーなどで、アイスクリームを入れて売ってる冷凍庫と同じタイプだ。そのスナックでも、酔っ払い相手に売っているのだろう。
――――ここで、こんなの買う奴、いるのか?
俺の予想に反し、カナが、アイスキャンディーが食べたいと言い出した。
その店の、ぶっきら棒な女が、冷凍庫の上側に付いているスライドする扉を開け、「これ?…こっち?…レモン味ってスッキリするよ」などと、カラフルな袋に包まった物を取り出しては、カナに見せる。ニコリともしないで。
椅子から腰を浮かせたカナは、カウンターの中を覗き込みながら、手を伸ばして指で示している。
気に入ったのを俺が買ってあげると、子供のように喜んでいた。ちょっと俯き加減でパクっとアイスキャンディーを咥え、大きな目で俺を見ながら舐めていた。そんなカナの表情が、なんとも可愛らしく、俺の記憶に張り付いている。
俺達を誘ったママは、とりとめの無い話をした後、俺とカナを残し、先に帰って行った。そんなママの話しの中で、1つだけ忘れる事が出来ないのがあった。
◆
先週の金曜日だったかな…夢を見たんだ。ちょっと変な夢でさ。
その夢って病院なんだよね。アタシ、誰かのお見舞いに行ったんだ。夢の中で。
誰のお見舞いなのか、よく分からないんだけどね、どうも、誰かの子供が生まれたみたいでさ。産婦人科だったのかな。
見覚えの無い女性が、アタシに近寄ってくるの。白い制服だったから、看護婦さんだと思う。赤ん坊を抱いてた。白いタオルに包まった赤ん坊。
そして、アタシに見せるの。その赤ん坊の顔。
その顔、真っ黒だった。両目も空洞で。
夢の中で、アタシ叫んだと思う。もしかしたら、実際に叫び声を上げて、それで目が覚めたのかもしれない。
目が覚めてからも、その夢、忘れられ無くてね。
知り合いで、出産間近の女性が1人いたの。もう生まれてもおかしく無い時期だったから、どうしよう、もし、彼女、死産だったらって、心配で心配で。怖くて、連絡も出来なかった。
日曜日に、共通の知り合いから連絡来たんだ。無事に元気な女の子が生まれたって。午後から、その病院に駆けつけたさ。ほんと、ホっとして。
そしたら、その病院で偶然に遇ったの。親戚に。
アタシ、全然、知らなかったんだけど、姪が出産で入院してたんだね。
死産だった。
◆
ママが帰った後、残った俺とカナは、暫くの間、そのスナックにいた。カナも、ママの「黒い顔の赤ん坊」の話しが、忘れられない様子だった。
「なんだか、怖い。ほんとママって、霊感強くて、色んな事、あるみたい」
「ああ、でも、さっきの話しって…霊感、超えてるだろ」
「超えてる?…うん……じゃぁ、いったい何なの?」
「良くわからんけど、まぁ、見える人なんだろうな」
俺とカナは、その店を出た。そして驚いた。
外が、明るかったのだ。
俺は、完全にタイミングを逃したのを自覚した。
いい雰囲気だったのが、ママの変な話で醒めてしまい、暫く2人で気分を変えようとしていたのだが、夏の日の陽が昇るのは、想像以上に早かった。
偶然通り掛ったタクシーに、カナだけを押し込み、俺は笑顔で手を振っていた。何か言いたげなカナの表情が、妙に寂しく見えた。
◆
店のミキと言う女の子が、引越をするらしい。次の日曜日に。
この子も、21歳だ。俺やカナと同い年。
カウンターの中で、手伝いに来てくれる人を募集していた。そんな最中に、俺が店に来たのだ。
「いらっしゃーーーい。こっち、こっち!中に入って」
「今日は混んでないぜ。カウンターの外でいいよ」
「いいの!こっちでカナちゃんと一緒に、いらっしゃいませ、してればいいの!」
結局、俺もミキちゃんの引越の手伝いに行く事になった。男手が足りないらしい。カナは用事があるらしく、手伝いに行けないのを残念がっていた。
店は、どんどん混んで来て、俺も、店の人のような顔で、次々と来る客を出迎えていた。
◆
ミキちゃんの引越はエグかった。
男手が不足どころでは無い。ミキちゃんの弟と俺の2人だけ。あとは、スナックの女の子が4~5人ときた。
ミキちゃんは言っていた。「そんなに家具ってないから。心配しないで」と。
確かに、家具は少ないのだろうが、1人住まいにしては、多くないか。冷蔵庫、洗濯機、ソファー、テレビ、整理タンス、食器棚、ベット、オーディオセット、本棚、etc…。それと、書籍の類と食器が、バカみたいに多い。
引越を安く済ませるには、トラックと運転手だけを業者に頼み、後は全部、自分でやってしまうのが1番だ。ミキちゃんも、それを選んだようだ。
俺は、引越のアルバイトを随分やっていた事がある。大型の家具が、ドーン、ドーンと出てくる引越は、それほど大変じゃない。逆に、本や食器が詰められたダンボールが多い引越は、エグイ。ミキちゃんの引っ越しは、正に、そのタイプだった。更には、3階から5階への引越。
入れる部屋は5階でエレベーターもあったが、出る部屋は3階で階段だ。そこで、完全に、のびた。いったい、何十往復したのか数える気も起きない。
スナックに出入りしていた酒屋から、手押し台車を借りたのが、とてつもなく役立った。それが無ければ、おそらく途中で心が折れてしまったと思う。
◆
ミキちゃんの部屋で晩飯を御馳走になった。とにかくビールが美味かった。
店の女の子4~5人と、俺とミキちゃんの弟で、結局、夜中の2時頃まで騒いでいたのだ。
帰り際にミキちゃんが「明日、店に来てね。私の奢りよ」と、誘ってくれた。
◆
ミキちゃんの言葉に甘えた訳ではないが、俺は、次の日の月曜日にも店に行った。さすがに客の少ない曜日で、随分と暇そうだった。
引越の手伝いに来れなかったカナに、色々なアクシデントを面白おかしく話すミキちゃん。
「そう言えばさ~、おかしな事あったよね。…あれあれ、帰る時、靴、無かったじゃない」
「あ~~…、そうだった!いったい誰?あれって悪戯よね。きっと同じ階の人だよ」
「えええ………やだ~、私、あそこに住んでんだよ。気持ち悪いーーーーーーーー」
「ねぇ、誰と誰のが無かったんだっけ?」
ちょうど、その時に、ママが遅い出勤で姿を現した。俺以外、誰も客のいない時間帯だったせいで、カウンターの中は、昨日の引越の件で、大いに盛り上がっていた。俺も、店が混んでもいないのに、なぜだか、カウンターの中にいた。
手伝いに行けなかったカナが、興味津々と言った具合で「靴って何?無くなったの?誰の?」と、俺に聞いていた時だった。
「俺も、今まで忘れてたわ、その事。随分飲んだし、家に帰って直ぐ寝ちまったからな。…うん、俺の靴も片方が、無かった」
「あたしも、片方だけ無かった」
「私も」
「あたしも同じ」
「そう、アタシも。……ミキのは?」
「うん。箱から、まだ出してなかったから、玄関に脱いでた1足分が、やっぱりカタッポ無かった」
「ええええ………全員だったんだ…それも、みんな片方って……あっ、ミキの弟は?」
「…うん…無くなってたって、カタッポ」
「え~~~~、やだ~…全員の片方って…何か、怖いって……」
「ちょっと~、変な言いかたしないでよ…鳥肌立ってきちゃった」
あの時は、全員が酔っ払っていたせいで、誰も、あまり真剣に考えていなかったようだ。だが、次の日に冷静に思い返すと、どうにも気味の悪い出来事だと思えて、居合わせていた女の子達は、互いに顔を見合わせては、言葉を無くしてしまった。そんな中、カナが俺に聞いてきた。
「それで、あったの?」
「ああ。あったんだけどな…マンションの外に、捨てられてた」
「ウソ………」
ママが口を挟んで来た。「最初っから、詳しく教えて」と。
「うん…。夜中の2時頃まで、みんなで騒いでたの。ビールとかウィスキー飲んで。そろそろ帰るって誰かが言いだして…そしたら、私も、私もって…みんな帰る事になっちゃって、玄関に行ったら、無かったの……靴のカタッポ」
「絶対、悪戯だって。だって、夜中まで騒いでたんだよ、アタシ達って。きっと、隣近所の人、うるさいって言いに来たんだって。それで、嫌がらせに、持って行ったんだと思うな」
「でも、あの部屋って…玄関とリビングって、扉も無くて繋がってる。……そのリビングで飲んでたんだよ、あたし達。誰かが入って来たら、分かるでしょ。それも7人分の靴だよ。両手いっぱいに抱えてくの、見過ごす?」
「玄関の一番近くに居たのって…誰だっけ?」
それは、俺だった。一旦座ったら動くのが面倒で、寝そべって飲んでいたような気がする。玄関に背を向けたスタイルで。
「俺だと思うけど、玄関のドワが開いたのなんか、知らないな。背を向けてたと思うけど…。そうだ!部屋が狭くて、俺、玄関にはみ出るように寝そべってた。靴の直ぐ傍なんてもんじゃない。ドワが開けば、いくら酔ってるからって、絶対に気づくわ。…でも、何時、靴持ってかれたんだ…」
――――やっぱり……アイツか…
話を黙って聞いてたママを見ると、俯き加減で目を閉じている。眉間に皺を寄せた表情で。そして話を促すように、聞いてきた。
「それで?…それから、どうしたの?」
「うん……みんなして、アレ~~とか言いながら、廊下に出たんだ。あのマンションって、フロアーの端にエレベーターがあって、そこから、真っすぐ廊下が延びてるの。どの部屋も、その廊下に面して玄関が付いてる。真っすぐな廊下で、電気も点いてたから、見渡せるんだけど……廊下には見えなかった。靴のカタッポ」
「そうそう。それで、アタシが廊下の窓開けて、外を覗いたんだ。どうせ、誰かが、窓から捨てたんじゃないかって。雨も降ってたし5階だったから、良く見えなかったんだけど、街灯にボンヤリ照らされてる何かが、真下に見えたの。ゴチャゴチャって感じで、落ちてたの。」
ママが、カウンターに片肘を付き、その掌で自分の額を覆うようにしている。酷い頭痛を堪えてるような感じで。そして、口を開いた。
「ちょっと待って………それって……右の靴?」
「え?あれ?どっちだったろう……片方の靴を履かないで廊下に出て~…靴下が汚れないようにって歩いてたんだから~…あああ!右足の方だ!」
「うん、あたしも」
「そうだよ、右だった」
俺は無理に思い出す必要も無かった。靴を履いて無かった方の足で、硬い何かを踏んでしまい、右足の裏が、かなり痛かったから。
「どうして~???なんで、みんな右なの?…それって………なんなの?」
どの女の子も、自分の身体を抱くように腕を回している。ミキちゃんなどは泣きそうな顔で、カナに抱きついていた。そのカナも、怖くなったのだろう。手を伸ばして、俺のジーパンのベルトを握りしめてきた。
誰もが言葉を発する事も出来ずに、ママの方を見てた。
ママが顔を上げた。なぜだか、俺を見る。そして言った。
「その男……右足が悪いね……」
誰も、口を開かない。何も言おうとしない。聞きたいのだろうけど、それ以上は聞きたくないと、言っているように。
俺には分かった。ママが言った言葉の意味が。右足の悪い男の事が。
そんな俺から、ママは目線を逸らせようとしない。まわりの女の子達も、その、ママの目線に気づいたようで、俺とママの顔を、交互に見る。どの顔も怯えた表情で。
ミキちゃんが、ようやっと口を開いた。声を絞り出すように。
「右足が悪いって…何なの?……男って……ナニ?」
俺のベルトを持つカナの手に、力が入ったのが分かった。俺の顔をじっと見上げながら、身体を引っ張り寄せようとしている。
ママは何も言わずに、黙ったままで俺を見続けていた。――あなたが言いなさいよ――とでも、言ってるように感じた。
何と言ったら良いのか、迷いながら俺は説明した。
「ミキちゃんって怖がりか?…それとも、どってこと無い性格?」
「…急に、そんな事言われても……怖いモノは怖い…かも…」
「そっか…。知らない方がいい事ってあると思うけど…」
「いい!!…とにかく言って!」
「あの、マンションが建ってる場所って、けっこうな住宅地だろ。古い公営住宅も多いし」
「…うん」
「あそこら辺って、以前から、雨がシトシト降る晩は、お客さんが来るって…聞いた事ない?」
「ぇぇえええ……知らない、そんな話し。…お客さんって…………なに?」
俺は、ミキちゃんに促されるままに、あの時、見た事を説明した。
結局、次の次の日曜日、また、ミキちゃんの引越を手伝うハメに。再び、手押し台車を借りて。今度は、カナも来た。
その引越の日まで、ミキちゃんは部屋に帰らなかった。実家は離れた町のため、夜の仕事には通えなく、更には、親には言ってなかったらしい。勤め先が水商売だと言う事を。
店の女の子の部屋に順番で泊めてもらい、なんとか凌いでいたと言っていた。
また、あのエグイ引越を手伝うのかと、俺はミキちゃんに言っておいた。
「引越の1番のコツは、物を捨てる事。使っていない物、使いそうも無い物、かたっぱしから捨てちゃいな」
それでも、荷持は減っていなかった。まぁ、あの日、引越の後、深夜まで飲み明かして、次の日、スナックに出勤したまま、1度も帰っていないのだから、減る訳がない。下着も新たに買い足して、服は、泊めてもらった女の子に借りて出勤してたらしい。
ミキちゃんは、物凄く怖がりだった。
◆
あの日、片方の靴が、マンションの下に落ちているのを見つけた後、ミキちゃんの弟が拾いに行く事に。姉に命令されてシブシブと。
高校を卒業したばかりの19歳の男の子。文化系タイプで、見るからに線が細い。
女の子達が、「誰よ、もう~…見つけ出して、引っぱたいてやる」とか、ブツブツ文句を言いながら、部屋に戻って行った。
ミキちゃんの弟は、廊下の端にあるエレベータに向かって走って行く。俺はそんな彼を見送っていた。片方の靴を履いていないため、ビッコを引いたような走りかたが、妙に滑稽だった。
随分遅い時間になったな…何台タクシー呼ばなきゃならいんだ?とか、そんな事を考えながら見てた。
走る速度が落ちて行く彼。その内、立ち止った。そして、戻って来る。後ろを――エレベーターの方を振り向き、振り向き、戻って来る。
――――何やってんだ?
廊下は真っすぐに伸びているが、エレベーターは、僅かに右に折れた場所に設置されていた。俺の位置からは見えない。
彼が俺の所まで戻り、呟くように言い始めた。
「あの~……一緒に…来てくれません?…変な奴が、いるんです」
俺は酔ってるせいもあったが、とにかく早く帰って眠りたかった。引越で疲れていたのだ。そんな事もあってか、けっこう、イラっときた。
――――その野郎が、靴、かっぱらって行きやがったのか…っざけやがって…
俺はズカズカと歩いて行った。靴を片方履いて無い事など、おかまい無しに。その際、硬い何かを踏み、よけいに腹が立ったのだ。
大き目のバックルが付いたベルトを引き抜いて、右手にグルグルと巻きながら、俺は歩いて行った。
見えた。
確かに、男がエレベーターの前に立っている。
それでも、俺は歩みを止めなかった。
――――こいつ…
だが、後、3~4mの所で、立ち止ってしまった。そいつの服装やらがハッキリと見える距離で。
自分でも、あの時、どうして立ち止ってしまったのか、その理由が、よく分からない。
そいつは濡れていた。かなり、ずぶ濡れの状態だった。帽子を目深に被っている男。表情はツバで隠され見えない。
――――なんだ…オッサンか…
エレベーターの扉の上部には、何処に箱が移動しているかを示す表示がついている。確か、1階の表示が点灯していたと思う。
動いていないエレベーター。
「△」と「▽」のボタン。押せば、どちらかが点灯して箱が移動して来る。
どちらのボタンも点灯していない。
――――押し忘れか?
一歩、近寄ろうとして、思い止まった。
――――なんで、こっち向いてんだ?
エレベーターを待つ人は、ボタンを押し忘れたとしても、普通は、扉を向いて立つ。上部に点灯される階表示を見ながら。
後から思い返すと、俺が最初に立ち止った理由は、それかもしれない。男が立っている向きに、違和感を覚えたからだろう。
俺は、どう言う訳か、酔いがどんどん醒めてきた。
注意深く、そいつを観察した。
アーミー仕様の上着を着ているようだ。下のズボンも同様だった。帽子も、そうかもしれない。雨に濡れたせいなのか、酷くだらしなく、薄汚れたように見えた。
僅かに足を開いて立っている。その足元には水溜りが広がっていた。
ジト~っとした湿気が、見てるこっちにまで伝わってくるような男。
――――関わりたくない…
俺は、後ろを振り向いた。少し離れた場所に、ミキちゃんの弟が覗きこむような姿勢で立っている。その表情を見た瞬間に決めた。
「向こうの階段に戻るぞ」
来た時と同じように、ズカズカと、ミキちゃんの弟の横を通り過ぎ、廊下の向こう側にある階段に向かった。
慌ててついてくる弟。声を殺して何度も聞いてきた。
「どうしたんすか?…やっぱり…変な奴でしたよね?」
「…ついて来て無いか?」
「え?…」
「振り向け」
「…いえ……来てない…です」
◆
俺は、ママの言った言葉を聞いて、ハッキリと思い出した。
あの男――エレベーターの前で、こっち向いて立ってた奴。
右肩を大きく落としたように立っていた。あれは、右足が酷く悪いからだ。
◆
いつの間にか、あのスナックに通い詰める事もしなくなっていた。
カナとは、あの後も、よく店が終わって飲み直しに行った。だけど、それ以上の進展は無かった。もう、10年以上も会っていない。お互い、連絡をとる事もしなかった。
俺は、相変わらず、1人で、ブラ~と飲みに行く。職場の人と飲むのが、どうも好きになれないからだ。
あるビルのスナックから出た時、エレベーターが混んでいて、俺は階段を選んだ。
――――そう言えば、エレベーターで、変なの見かけた事あったな…
階段で1階に着いたと思ったら、そこは2階だった。
その階段の、直ぐ隣のスナックの中から、声が聞こえてきた。
――――ぇえ?
俺は、覗きこんだ。
女の子の声が響く。
「いらっしゃーーい」
続いて、別の女性の声が。
「いらっし…………あ…ああああああああああああああああああああああああ」
カナだ。
カナが、そのスナックのカウンターの中に、いた。
俺は、茫然と立ちすくんでしまった。
カナの手招きにより、俺は、俯きながら入って行き、カウンターの端に座った。カナもカウンターから出てきて、隣に腰を降ろす。
とても照れくさかった。それこそ初恋の人と偶然遇ってしまった時のように。
その照れくさいような、恥ずかしいような気持ちを、カナに知られたくなくて、俺は、チェーンスモーカーのようにタバコを吸い続けた。
スコッチを1本、2人で空にした。
カナは、そのスナックのママだった。それも、オーナー兼ママ。
――――アイスキャンディーを、子供のように咥えていたカナが……オーナーか…
妙に嬉しかった。
2年間くらい、カナと時間を共有してた頃が懐かしかった。不思議な関係のまま、互いに20代の前半を彷徨っていた頃。
相変わらず、大きな目で、俺の目を覗きこんでくるカナ。どんなに飲んでも、俺は、口が滑らかにならず、そのうち、告白していた。
「10年前、カナの事……大好きだった」
「知ってたよ。なんで、もっと大胆に誘わなかったの?」
「うん…なんでだろうな……きっと、怖かったんだと思う」
「怖い?…アタシが?」
「違うって。あの店の…ママが」
「ふ~~ん。分かるようで、よく、分かんないけど」
「全部を、見られてるって…俺、感じてた」
「あ~、確かに、霊感、メチャ強かったもんね。でも、なんで?…見られて、都合、悪い事あった?アタシを騙そうとしてたとか?キャハハハハハハハハハハハハハ」
カナのハスキーな笑い声が、店に響いてた。
「……ようは、俺が、まだガキで、ヘタレだったって事かな……」
1度だけ、カナの目線が、俺の左手の薬指に走っていた。それ以降は1度も見ない。話題も、そこに触れようとはしない。「でもね、絶対に、また逢えるって分かってた。私も、ちょっとだけ霊感あるんだよ。言ってなかった?」と、微笑んでいた。
カナと2人で、身体を寄せ合い、腕を組みながら店を出た。外に出た途端、互いに笑い出してしまった。
かなり飲んだせいなのか、再会にテンションが上がっていたせいなのか。とにかく、止める事が出来ない、笑いの衝動。
2人そろって身を屈めたり仰け反らしたり、目を際限まで見開き、大口を開けながら、互いを指差しながら、長い時間、身体を捩りながら笑い狂っていた。
外は陽が昇り、明るかったのだ。それが、やたらと笑えてしまった。
俺は覚えていた、あの頃の全部を。カナも同じだったらしい。
そんな狂ったような2人の前で、1台のタクシーが、我慢強くドワを開けたままで待っていた。
俺だけをタクシーに押し込み、笑顔で、手を振りながら見送っているカナ。
――――俺、今、どんな表情なんだろう…
――――寂しそうな顔してるのかな…