春を待つ。
オレ様って嫌いなんだよね。の課長のその後を吉井さんサイドから書いてみました。
吉井理紗、32歳。
片想い中。
お相手は企画課長の津野新、37歳。
ただの片想いとは少し違う。
これはいわゆる未練というやつ。
私は新と付き合っていた。5年前から2年間。
3年前にふられるまでは、もしかしてこのまま結婚するのかもって、そう思っていた。
振られた理由は至極簡単。
「他に好きな人ができたから」
新人のその女の子は、新からすれば一回りも下。
指導についた新はなんだかんだと世話を焼くうちにすっかりハマってしまったのだという。
仕方がない、そのときはそう思った。
人の気持ちは変えられない。
だけど3年経った今も、新はその子を手に入れられずにいる。
見ているこっちが恥ずかしくなるほど必死でわかりやすいアプローチをかけているのに、女の子は気づく気配もなく今日も彼をヤキモキさせる。
「かわいそうだから、話を聞いてあげようか」
意気消沈する彼を誘いだして愚痴を聞く私は、ずるいのだろうか。未練があることは彼には伝えない。だって、今はその時じゃないから。
今彼が気を揉んでいるのは「追う超絶イケメンと逃げ惑う凡人」の噂。
私は新が好きだからそんな風に思わなかったけど、彼女を追う男性はイケメンな上にどうやらどこかの大企業の御曹司らしく、それに気づいた女性社員が毎日彼の訪れを楽しみにして沸いていた。
「鈍感すぎて全然伝わらない。でも、うかうかしてると持って行かれる」
そう言って頭を抱える新は子供みたいで、愛しさがこみあげてくる。元カノの私にだからこそ、晒せる姿なのかな。そうだといいな。
「そう思うなら気持ちを伝えればいいのに」
そうして玉砕してしまえ。
彼の幸せを願う気持ちも嘘じゃないけど、やっぱり玉砕すればいいのにと思ってしまう私は残酷なのだろうか。
傷ついたら私が慰めてあげるから。
「関係が変わるのが怖いんだよ」
「でも、変えなければいつまでたっても彼女は手に入らない」
天真爛漫そうなあの女の子。話したことはないけど、きっと明るくていい子なのだろう。
「はい、バレンタイン」
帰ろうとしている彼にチョコを差し出す。他の人のは全部突っ返してるって知ってる。でも私のは黙って受け取ってくれる。元カノの特権よね。
「俺今日、たぶん振られる」
彼が零したその言葉を、喜ぶべきか悲しむべきか。
「私今夜暇だから、来るならあのバーで待ってるよ」
新はゆるりと微笑む。
37歳になっても変わらない、あの時と同じ笑み。
何歳になったって、人は恋に落ちて、恋に悩んで、恋に破れるのだ。
「さんきゅ」
22時を回った頃、彼がふらりと現れた。
あら、お早いお渡りで、と言ってやろうと思ったけれど、彼の表情を見たらその言葉は口にできなかった。
本当に好きだったんだね。
彼の傷が早く癒えますように。
私は彼が好きなウイスキーを勝手に注文し、差し出す。
舐めるようにそれを飲み、テーブルに突っ伏した。
よしよし、辛かったね。
翌週の月曜日に出社した私は、トイレから聞こえてきた面白い声についつい首を突っ込んでしまった。
泣きそうな顔をして立ち尽くす女の子。
それを責める3人組。
あらまぁ。これはかわいそう。
3人組を追い立てるようにしてトイレから追い出すと、少しだけ女の子と話してみたくなった。
「あなたが嘉喜さんね?」
「はい」
縮こまってうなずく女の子。
「気にしなくていいのよ。言いたい人には言わせておけば」
月並みなその言葉にも、女の子はきっちり頭を下げる。
彼女は新を傷つけたことと、新を好きだった人を傷つけてしまったことを受け止めて、噛みしめるのだと言った。
あら、意外にも凜とした子なのね。
「津野課長があなたを好きになった気持ち、わかった気がするわ」
その言葉だけで、私が新のことを好きだと気づかれてしまう。
鈍感だと思ったら、案外鋭いのね。
「吉井さんは、私に腹が立たないんですか?」
3年前はもちろん腹が立ったけどね。もう、立たないわよ。そんなに長い間腹を立て続けるのって大変なのよ。
「どうして? だって、あなたが振ってくれたおかげで私にも可能性が巡って来たのよ。感謝こそすれ、恨むなんてありえないわ。そういう意味では、きっと倉田さんたちより私の方がよっぽど性格が悪いわね」
「自分でそうおっしゃる方で本当に性格の悪い人にお会いしたことはありませんよ」
無邪気な笑みを浮かべる彼女を見て、本当に、なぜ新がこの子を好きになったかよくわかった。純粋で綺麗なのね。心が。
彼女を企画課のフロアまで送る。
「また変なこと言われたら、相談してくれたら私が蹴散らしてあげるわよ。私これでも、結構怖がられてるの」
そう言って笑うと彼女は意外そうな顔でこちらを見る。
怖がられているというのは少し違う。
新人だったこの子は知らないけど、昔からいる人は私が新の元カノだと知っているから、私の言葉が鶴の一声になるだけ。
トイレで彼女に詰め寄った倉田さんがすぐに引き下がったのも、そのせい。
「あなたを送って行くのは津野課長に会うための口実だから、そんなに恐縮しなくていいのよ」
そう言うと彼女は心の底からの笑みを浮かべる。
気持ちのいい子ね、そんな風に思う。
「嘉喜を助けてくれたらしいな」
その日の夜に電話がかかってきた。
「助けたってほどじゃないけど。あの子、いい子ね」
「お前は誰より腹を立ててもおかしくないのに、本当にありがとう」
「いいえ、いいえ」
そう言って短く電話を切る。
それからもう一度かけ直す。
「どうした」
「私の気持ち、3年前と変わってないから」
ホワイトデーの日、新は私を食事に連れて行ってくれた。
「俺も前に進もうと思う。前って言うのか、わかんないけど」
そうね。でもこれは、後退ではないはずよ。
後ろにも前にも、私がいたってだけよ。
たぶん、この先にもずっと私がいるわよ。
そう言うと新はゆるりと微笑んだ。
私の大好きな顔で。
次の日会社で嘉喜さんとすれちがいざまに「ゲット」と呟くと、彼女はほころぶような笑顔を見せた。
春はもう、すぐそこ。
吉井さんは静かで涼しい印象なので、文章もすごく涼しく。
決して冷たいわけでは…