驟雨
二人で鍋を食べていたその夜、私が、熱いものを食べると鼻水が出るよね、と言っても、彼は曖昧な顔をしてただ笑っているだけだった。
そう、彼はいつでも透き通っていて綺麗だった。鼻水を出しているところなんて見たことがない。汗もあまりかかないし、この人はちゃんと不要物を排泄しているのだろうかと心配になってしまう。
華奢な身体、小さな顔、さらさらしたまっすぐな黒髪に、いつも遠くを見つめている澄んだ瞳。
その瞳が私だけを見てくれることは、あまりない。
そんな彼は、実は有名なミュージシャンだ。ただし、彼の曲のリスナーの中に彼の顔を知る者は誰もいない。
彼は毎日、部屋に籠ってぽろぽろと曲を紡ぎ出している。寂しげなギターの音が聴こえてくるときもあれば、寂しげな歌声が聴こえてくる時もある。
今日は音がしないな、と思っていると、いきなり部屋から出てきて、泣きながら私に駆け寄って来て抱き締める。
鍋を作ったのは、彼の好物だったからだ。彼は白菜とキノコと豆腐ばかり食べる。見かねた私が肉を数枚彼の取り皿に放り込むと、食べることは食べるが、難しい顔でいつまでも咀嚼している。
「俺、枯れちゃったのかな」
彼がぽつりとそんなことを言うので、私は黙ってもう三枚肉を放り込んだ。
彼は肉を頑張って噛みながら、ぽつりぽつりと言った。
「言葉はいくらでも浮かんでくるけど、曲が浮かんでこないんだ。俺の書く曲は、結局は全部同じ旋律に終結している……って言われたんだけど、確かにそう聴こえるような気がしてくるし。それから筆がどうにも進まなくて」
「誰に言われたのよ、そんなこと」
私はバーンと皿をテーブルに叩き付けた。豆腐が哀れっぽくふるふると揺れた。
彼は何も言わなかった。下唇を噛み、ただただ苦悶しているように見えた。
ここで慰めの言葉をひたすら繰り出そうとする奴は、馬鹿だ。馬鹿というか、浅はか。下手な慰めは相手の心を抉るということに、いつまで経っても気づかない連中のすることだ。
だからと言って、彼の悩みを解決する方法を私が心得ているわけではない。彼の苦しみは彼のものであり、同じ境遇にいるものしか共有することは出来ない。
卵雑炊を作りながら、窓の外をちらりと見た。雨がしとしとと降っていた。
ふと彼に目を移すと、彼はことこと音を立てている雑炊をじっと見つめていた。いや、見つめているようで、その目には何も映ってはいなかった。
澄んでいるけれど、虚ろな瞳。今にも泣き出しそうな、もしくは今にも瞼を閉じてしまいそうな、そんな瞳だった。
私は土鍋の下の火を弱めると、彼のそばへ行って、後ろからその華奢な背中を抱き締めた。
汗もかかない、鼻水も出さない彼だけれど、血はちゃんと通っていた。石鹸の匂いがする彼の首筋は温かかったし、心臓はどくどく言っていた。
「何でこんなにどきどきしてるの?」
「いや、ちょっと……びっくりしたから」
彼はもごもご言ったが、その耳の先端は少し赤くなっていた。
人の話し声よりも音楽を聞いてきたその耳に向かって、私は小さな声で出来るだけ優しく言った。
「……私は、ここにいるから。不安になったら、いつでも出てきていいんだよ」
彼の身体が、一層熱くなった。耳も真っ赤になった。
冬の静かな部屋の中では、雑炊が相変わらず平和にことこと言っていた。雨の強く降る外を車が通り過ぎる音が、何度かそれを遮った。
そうしている間にも時折、言葉にならないかすれた声が彼の唇から漏れたが、何と言ったかはさして重要ではなかった。彼は私の手をぎゅっと握り締めて、長い間、子供のように身体を震わせていた。