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桜華物語(おうかものがたり)

作者: 高島啓市監修小林摩也

本作6552文字にして6ページの内容。大学時代に手にした「北斗の拳」にリスペクトされた作品である。

この世界に史上最強の拳技あり。

名を、帝王拳といい、大陸の泰山を由来とするも、日本にて比叡山、これを請け負えり。

和名に叡山神武拳と与えたのは、壬申の乱のち日本史上初の天皇を称した天武帝であり、この者ら大陸からの渡来人であり、竜胆姓を賜った。

伝承者以下、12僧坊に最強坊、准強坊、最長老坊、施学問坊、施薬坊、基徳坊、長講堂坊、中講堂坊、小講堂坊兼食堂坊、開門坊兼閉門坊、伝令坊、衆門長坊を揃えた。

最強坊、この伝承者の嫡女めとるに際し林当の職名を与えられるしきたりがあったという。

嫡男、これを継ぐ時こそ、竜胆姓を名乗ったのである。時代は下り、平安京にて、竜胆家当主、帝王昇として令外官従七位下を官職とした。

その嫡男、もしくは林当に帝王承として正八位下を与え、陰陽師と共に都ならず、帝の守護職、相務む。

武家政権下にて、この竜胆家、後鳥羽休みの帝を救えず官職は解かれてしまう。鎌倉幕府の末期、悪党の一味として奇跡的に竜胆家秘奥義『王化陣輪』和名『桜華神倭』を受け継いでいた一族あり。

その奥義たるや、相手の脳を、一点集中して破砕することに尽きた。

この者、旺羅九色チャクラ九門六芒星爆縮力、全て血筋にて伝承していた。

名は無く、後醍醐帝、建武新政期に叡山に留まり、奥義を受け継ぐ男子、もしくは嫡女に嫁がせる林当の育成に務めていた。

後醍醐帝、以下、吉野賀名生へと南朝、逃れた果てに崩。

後村上帝、即位。

されど、叡山動かず。天台座主は、飾りに過ぎなかった。

後村上帝の日嗣、長慶、更に後亀山帝と南朝、神器を受け継ぐも、足利義満の計略が叶い南朝、北朝へ神器を引き渡す。

北朝正統これを受け取り、後小松帝、統一王権を打ち建てた。

しかるに、北朝の正統絶え、後崇光院流が帝位に就く。

この事南朝方への裏切りであり、旧北朝、即ち統一王権にとり、長き怨嗟の声届くことになる。

時代は応仁へ至り、足利幕府八代将軍義政、政顧みず、自らの後継者も決められずにいた。

正室日野富子の生んだ、義尚を九代目予定として還俗させていた義視の猶子とし、事無きこと思慮した義政だったがしかし、官軍としての細川勝元、義視を後見。

日野富子、西陣の頭、山名宗全の余力に頼り次の将軍に、自らの生んだ義尚を立てんと欲した。

この大乱、東西双方の頭目共に死去し大方の戦闘は終わったのである。

九代目は結果として義尚がこれを継ぐ。

10代将軍に義材、義視の実子であり、大御所義政と義視の和解成立ゆえの人事。11代将軍に義澄、大御所義政薨去後、明応の政変にて法名、清晃、諸臣の擁立を受け就任。将軍交代は、後土御門帝の崩後に行われたとされる。義材、龍安寺に幽閉前に尊氏以来の家宝、甲冑と剣を携え細川政元の家臣の陣に投降。

義澄、子息に義晴、義維。12代将軍に義晴、武門の棟梁、従三位権大納言 右近衛大将。子息に義輝、義昭。

管領と対立した義材、京を出奔し、同じ月、後柏原帝の即位式に出仕せず細川高国が警固の職務を行った。帝の信任を失いし義材の放逐を決意した高国、代わりに義晴を擁立した。

七月、義晴は高国に迎えられ上洛し代始めの参賀を行う。これ朝廷受け入れ、11月右馬頭。12月元服、翌月12代将軍に補任される。

13代将軍に義輝。天文年間、義晴、細川晴元と対立して敗れ近江坂本に遊離。

この時、嫡男義輝に職を譲り、大御所として後見した。

のち、晴元と和睦して義輝と共に京へ戻るも晴元と、その重臣三好長慶が対立。晴元敗れ、義晴は、義輝と共に近江朽木谷に逃れる。五月、義晴39歳で没。

日野家との婚姻関係義満より続くも、近衛家より妻をめとり、朝廷との関係強化を図るも、細川家の内紛により栄達叶わず。

14代将軍義栄、義維の子であり、在職一年に満たず、病にて倒れた。

時代は下克上、戦国乱世のみぎりを迎え、各国に英雄が乱立いたしていた。足利将軍家、義輝の頃偏諱を有力守護大名に与えるも、昔日の律令制機能せず。叡山、神武拳伝承者を門首と崇め、鎌倉時代の初期に起こった内乱を反省とし、一人対一人にて最強を誇りし自らの拳技の拡大を図らんと欲していた。天下の趨勢、天正年間にて大きく揺らいだ。

それ以前のこと、僅かだが書き記すに、京内にて信長公馬揃えを敢行し、正親町帝に武威を示し譲位を促してきた。

しかし、それを認める事は信長公居城の安土城天主の風下に置かれることを認めることに他ならない。

安土城には紫宸殿、もしくは清涼殿を造り、継帝に提供するつもりのあった信長公、あくまでも譲位強制せんが為、馬揃えを繰り返しては己の意志を通そうとした。

帝室の専管事項たる、暦の制定にも口を挟むに及んだ事、ここに至っては信長公逆臣のそしり免れず。本能寺にて洛中に寝込みを襲われた。

これ暗殺事件であり、骨欠片一つ見つからず。

いつかの林当、禁裏より出で信長、二条御所にて嫡男信忠を道連れに暗殺に及んだ。

そして、速やかに撤収をいたし、何一つ証拠を残さず。

明智軍はこの暗殺事件とは別に行動を取っていた。

当時の帝、正親町帝、この信長公の祭司の役割を文句一つ言わずにこなしておられた。

そして、譲位の強制を求められ、とうとう堪忍袋の緒が切れたのである。

自らの腹心の林当を使い、時、至るを待ち続けられていた。皇太孫周仁親王の成長、見守る日々の内から、いつか信長を打倒する武将現れぬものかと待望なさっておられた。

そこへ、明智軍の蜂起の一件お耳にされ、側近の林当を派遣なさったのである。その証拠に、明智軍に対し即座に京都守護の件お任せあそばされたこと、正に疑いようもなき事実である。しかるに、想定外の事が近畿にて起こってしまう。

羽柴軍の中国大返しである。

両軍、山崎にて合戦に及ぶも多勢に無勢、羽柴軍の大勝利に終わった。

それから、織田家宿老の柴田勝家を降した後は主家を乗っ取り、石山本願寺跡地に巨城を築き、諸大名を戦わずして屈服させたのである。

その間、内大臣となり、近衛家と二条家との関白相論の隙をつき、関白職改めておあずけもうされた秀吉。あくまでも近衛家の猶子の立場から必ず、職は返還するものと思われるに翌年、豊臣賜姓、従一位太政大臣へと推任されり。次の天下人、秀吉は信長公とは異なり、三職推任の件心良く受け入れ、最も難しき官職、関白を拾ったのである。信長公にはなかった、殊勝なる秀吉政権の安定を見届けるまで時を待たれ遂に譲位は決行された。

住居として聚楽第が築かれ、譲位を受けて即位していた後陽成帝、行幸ありて秀吉政権の絶対化が図られたのである。

一農民から武士に取り立てられ、更に全国に号令する立場に立った以上は、武家ならず公家をも従えなければならず、最高の官職であった関白就任は半ば必然の流れであった。

武家関白として、増え続ける士分を養うからには海内にて余る領土はなかった。信長公はこの事を見抜いていた。海内統一後は唐・天竺をも統一せんと。

信長公、日本国相手にせず。

ただ、海外の広さとやらを、宣教師の言っていることが正しいのか知りたかっただけ、即ち海内統一後は海外をも見据えていた。

基督教大名の大友、有馬、大村家の遣欧使節、天正年間に派遣され、秀吉治政下に帰国。

秀吉、大いに感服いたしたであろうが、その後、伴天連追放令を下命するに及んだのは、これら宣教師の主導の下、民衆の仏教寺院の破却に及んだ故である。

信長公の安土城、その異様な姿、松永弾正久秀の居城信貴山城を参考にしつつ、日本の城郭に初めて鯱瓦を飾る。

天主を気取り、狩野某に制作させた『安土山図屏風』は永年信長公の愛蔵品となり、正親町帝が所望されるも、これを固持。

教皇宮殿に、密かに伝えられていたらしいが、今日に至るも尚、行方不明となる。

正に、謎に包まれた安土城全域図、正親町帝にとって遷都の勅、信長公に下す為にも是非必要であったこと想像に難くない。

信長公今は、ただ、総見院に眠るのみ。

しかし、信長公の野望果たせず。

秀吉、鶴松を亡くしたのちに関白を甥の秀次に譲ったあとは全国の大名に動員令を掛けた。

唐陣と呼ばれる戦争である。この戦、開戦当初の勢いすたれて和議に及ぶも明国、礼を欠いた返書を認めてきた。

太閤の様子、想像するだに恐ろしい。

再びの戦、厭戦の気分が流れていた。

戦況芳しからず。遂にというかとうとう、太閤、薨。親兄弟姉妹のみならず、子飼いの武将以下諸大名諸将らに多大な迷惑を掛けた日の本一の出世の神様として、豊国大明神と諡号された。

秀吉に、正一位を贈ったのは時代を下り大正帝であった。

江戸幕府の下、徳川家康、三代将軍により神格化され日光の社も権現造にて豪勢に造作され、自らの墓所も側に輪王寺大猷院殿として、他の将軍とは別格の扱いを求めた。

更に、徳川の治世磐石ならしめんが為、豊臣家の家臣であった過去を消し去り歴史の捏造も謀ったのである。

しかるに、家康の孫にして末男の頼房の継子光圀、大日本史の編纂を命ず。

これ、水戸学の嚆矢なり。後陽成帝を継いだ後水尾帝、徳川秀忠の娘、東福門院和子との間に生まれた興子内親王に譲位あそばしたは、紫衣事件もあり、病の治療の為でもあり女帝の立つ背景には様々な見解あり。徳川の治世、五代に及び、柳沢保明偏諱を受け吉保、側用人として重用される。その末流かと想像される、柳沢伯夫とは自民党所属の政治家として役目を果たし、彼の有名な暴言「女性は子供を産む機械」との言葉を吐いた、有名な人物であり、誠に失礼な話だが、大和郡山城に封じられ、明治維新後に伯爵家と成りし事これ即ち、零落華族かと勝手に想像させて頂いた次第。

幕閣、斯様にて禄を食み、明治維新を迎えるも徳川家との縁戚無用なものか。

幕末の国内騒乱から王政復古、更には、徳川慶喜に課した辞官納地の仕置き、全ては錦の御旗の下、進捗して行った事なり。

雄藩薩長土肥の内、東肥前にて、鍋島閑雙、公武合体に導くも肥前の西にて大村純熙あり。

真っ先に藩論を尊王攘夷に取り纏めた功績を以て、本来ならば子爵格の大名であるところ、伯爵家へと取り立てられたのである。

この大村藩、藩知事を置かれ、当初は大村県と呼ばれるも、後改めて長崎県となった経緯あり。

明治大帝、自らを大元帥とし、歩み始めた新政府の舵取りに難儀いたした。

若くして帝位に就いた故、側近は年長者で占められたものか、分からねど政府の要職も帝とは近くもない者が、特に薩長土肥にて顕著に現れた。

維新政府、一流の者らが、流れを作り橋をかけ、二流の者らが有り難くもその橋を渡ったのみ。

新政府に課された喫緊の難題に、旧幕府と西欧列強国との間に結ばれた条約改正の要事あり。

この、旧幕府に於いて中興の祖に八代将軍吉宗居り。長子の家重、暗愚で言語障害を患うとは知れず、吉宗の次子に宗武と名を下し、更に四子に宗尹と偏諱を与え、各々が、江戸城内に屋敷を与えられたのが、後の御三卿の由来であった。

田安宗武に関して言える事は、駄目な兄を持ち、自らを慕う弟が居たゆえに将軍職は当然、視野にあったと思われる。

自らの継子なく、兄家重に即ち、吉宗にとっての男孫既に存在していたため、その名も家治と与え溺愛していた。

宗武自身は、国学・歌学修めて、いつでも将軍宣下の儀受けること、覚悟は出来ていたはず。

摂津・和泉に、40万石の拝領ありて御三卿筆頭の武威十分示し、江戸幕府の延命に知らず知らず尽くしていたのであろう。

官位、従三位権中納言。

宗武の末裔に家達ありて宗家を継ぎ16代目当主となりぬ。

この血統、吉宗由来であり、家康公が家祖である。

17代目当主家正、18代目当主に会津中将の末裔恒孝。その長子が、現当主の家廣という者にして御家は何とか繋いで来たのである。愛知県名古屋市東区徳川町1017にて開館いたす、徳川美術館に於いて蒐集されし展覧物は、19代尾張家、義親が明治の御代に変わって失われつつあった大名家遺品の数々を、その流出から守る為に、心血を注いで何とか後世、これらの展覧物を関心ある人々に見せることに至ったのが現在の姿である。

正門をくぐり、館内での受け付けを済ませ、中を進むと葵紋が偉そうに観覧者を睥睨していた。

展示の内容、さすがの一言、数寄者としては精一杯のものであったろう。


皇家の守護、旧姓竜胆を名乗っていた林当が、これを担っていた。

本家から分かれて、弟と甥とで、増え過ぎた宮家の守護を仕っていた。

便宜上、本家を大林当、弟系に小林当、甥系に朽葉と区別されたのである。

この者ら、泰山帝王拳の日本国に於ける正統を継ぎ、神武将軍に大林当、神武次将に小林当と、朽葉を、以下、神武中将、神武少将、神武将監、神武将曹の称号を配下の僧坊らに、明治大帝から直々に授かっていた。

彼ら、元帝王昇と代々血脈継ぎし12僧坊達、戊辰戦争にて功績上げ、王族、公卿、諸侯、新族に下される、五爵位の内、男爵の一位下である准男爵の叙爵を旧竜胆三家の長、各々が受け取っていた。

甥家の朽葉家、最後にして最大の内乱である西南戦争にて、征韓論の解釈を巡り下野していた唯一の陸軍大将、西郷隆盛に与しその守護を司っていた。

林当両家、自然の流れにより新政府側へ付いていた。旺羅結界を共に励起させ、小林当方八名、朽葉方七名の高弟達とで銃弾、難なくはね除け、正に鬼神の如く両陣営にて当主二人先頭を切って闘い、この結界に近ずく薩軍や官軍の兵士達を悉く滅却に及び、他者の近づく余地はなかった。

しかし、戦況、官軍に味方し遂に大西郷は死を覚悟した。

「もうここら辺でよかもんそう」

その言葉を遺し、戦陣にて没す。

大親友であり、征韓論にて袂を分かった内務卿大久保利通も間もなく暗殺に及ぶ。

西南戦争を生き残った小林当家の仕業であった。

大西郷を見殺しにした罪一等を問うたのである。

新政府、期待した程の治世の実現には遥かに足が遅かった。

西欧列強各国の国力をまざまざと知っていたのは、極一握りの政治家でしかなく、軍人軍属の中で国力の差を知る者少なし。

日本国、英国と同盟関係を築き、不平等条約改定への切っ先となる。

朽葉の残党、身を崩し、韓国へと渡り伊藤博文初代韓国統監の守護の座を占めていた。

しかし、この者ら、奥義に到る旺羅も無く、チャクラも無く、六芒星の知識・脳内図像化も出来ず、爆縮瞬発力も承継に及ばずにいた。

伊藤公、暗殺事件にて臥薪嘗胆を期していた朽葉家、韓国にて遂に詰腹を切らされ廃絶に及んだのである。小林当家、分家である自らの三子、朽葉家の御霊を分祀し名跡を継いだのである。

林当一族の発展の為に、12僧坊達の末裔ら、共に海外列強との戦場にて良く働き、名を徐々に高めてゆく。

長子家当主、ひたすらに叡山、山門にて秘奥義の『桜華神倭』の伝承に打ち込み、門弟教育に務める毎日を送っていた。

12名の僧坊から、各々が奥義を学んで四大奥義身に付けさせるも、優秀なる者から最強坊となって、大林当を継ぎ、准強坊が小林当を継いでいた。

しかし、『桜華神倭』は、厳密に『王化陣輪』とは異なる奥義であり、後者のそれは小乗の拳であった。

従って、西南戦争の折り、親子の間柄で別れ、闘技場と化した旺羅結界を張れたのは、彼らが大乗の拳たる神武拳を修めていたからに他ならない。

そして時代は、大正帝の御代を迎えた。

宝算47歳、しかれども、本物語に於ける聖寿無窮。

林当兄家29代目の当主、関東大震災の折り、この帝の守護務めたるも、この帝の帝都を見限りし後に林当の兄弟間にて争論が行われたのである。

結果として、帝都を離れた休みの帝を支持する林当は無く、往時を飾った大正デモクラシーの主流も絶えてしまったのである。

大正帝の仕事の内に、学問を修めることがあった。

主に仏文や、和漢歴を学ぶ日々を過ごしていた。

明治節にて、帝の敬愛していた太閤秀吉、官位従一位太政大臣に留め置かれていることに気づいた。

豊公と称されていた者が、その薨のちに、追贈正一位を賜らずにいたこと、徳川嫌いに拍車を掛けたのである。

改めて大正帝、太閤秀吉に正一位を追贈。

休みの帝、その後を知る者ただ林当家らの戦士達のみ。

帝室、その行く末見守る者、太平洋戦争以後は臣民に変わって、日本国民がこれを請け負う。

この物語に終わりはない。ただ日本国は永世なり。

―――了―――

実在の天子様の漢風諡号のみならず、自らの編み出した諡を贈らん。

院号は相応しからず。

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