よくあることさ
『よくあることさ』
これはお父さんの口癖。
昔から事あるごとにお父さんは言っていた。
お父さんは娘の私から見ても格好よく、性格も優しくひょうきんで声を荒らげだりしているのを見た事がない。
だから母がお父さんにわがままをしても、お父さんは
『よくあることさ』その一言で話しは終わっていた。
母は綺麗な人だった。
いつも化粧を欠かさず、品のある立ち振る舞いは、一般的な住民が多く暮らす地元では目立つ存在だった。
母は旧家の出で、お父さんは下町出身。
そこで小さな会社を経営している。
母方の反対を押し切り、2人は身分の差を乗り越えて結ばれた。
ロマンチックな馴れ初めを母から聞いて感動する私に、
『よくあることさ』
そうお父さんは言った。
両親の優れた遺伝子は容姿のみ引き継がれ、性格は残念ながらガサツの一言。
お転婆で世話焼き、黙っていれば可愛いのにとよく言われた。
お人形さんみたいな服を着せても、直ぐ泥だらけに汚すし、虫取りや鬼ごっこが大好きだったから、そう言われても仕方なかった。
近くに住むお父さんの実家は私をいつも温かく迎えてくれたが、母の実家はいつも冷たかった。
親戚の集まりも母だけ上座で、私とお父さんは一番隅の下座だった。
帰りに母は私達にあやまったが、ここでもお父さんは
『よくあることさ』
それしか言わなかった。
私が小学校に上がった年、母の様子が変わった。
頻繁に外出する事が増え、そのまま帰って来ない日も出てきた。
お父さんは母の実家で色々あったようだとだけ言った。
それ以上は言わなかったし、私も聞かなかった。
母の不在は寂しくなかったかと言えば嘘になる。
当時6歳で、仕事の忙しいお父さんが帰って来るのはいつも深夜、凄く心細かったのを覚えてる。
お父さんは私を父の実家に預ける事が増えた。
『お母さん今日は帰ってる?』
そんな生活が一年程続いたある日、いつものように実家から家へ帰る道すがら何気なくお父さんに聞いた。
『美愛、ごめんな…』
お父さんは静かに謝った。
苦しめるつもりは無かったから、お父さんの反応に私は悲しくなって、もう母の事を聞かないと心に誓った。
後から聞いたが、母がお父さんに離婚を切り出したのもこの頃だったそうだ。
それからしばらくしてお父さんは母と別れた。
母はお父さんに何も言わず、最後に私を見た。
『ごめんね、美愛は連れていけないの…』
そう言って私の頭を撫でた。
『よくあることだから、バイバイ』
そう言って私は送り出した。
あの時、母がどんな顔をしたか、今は思い出せない。
当時小学4年、親が離婚してる友達も居たし、母が居ない生活にもすっかりなれてしまっていたからだろう。
家には母の持ち物が殆ど残されていた。
洋服、化粧品、靴、装飾品から鞄や日用品まで。
まるで母だけがいなくなったかのようだった。
『全部捨てて行ったな…』
お父さんはポツリと呟いた。
その顔を見た私は即座に答えた。
『捨てないで売ろうよ』
さすがにお父さんは驚いたようだった。
でもこの家に母の痕跡が残っている内はお父さんが立ち直れないと思った。
『もったいないよ、売れるんなら美味しい物を食べたいな』
『そうか…そうだな』
お父さんは、いつもの口癖を言わなかった。
それから7年が過ぎ、私は高2になった。
色々な事があった。
母がなぜ出て行ったかも知った。
現在の母が置かれている状況も全部。
知りたくて調べた訳ではない。
お父さんが教えてくれた訳でも。
一年前に手紙で知った。
書いたのは母の弟、つまり私の叔父、山村亮二さん。
叔父と母は腹違いで、妾の子供として迫害されて育った。
だからだろうか、山村家の親戚でお父さんと私の数少ない味方だった。
[お父さんは話さないと思う。
だから私から君に真実を教えておく。]
手紙はそんな書き出しで始まった。
母はお父さんと知り合う以前に、本気で結婚するつもりだった男性がいた。
だがそれは叶わなかった。
男には昔から決められた許嫁がおり、母は泣く泣く身を引いた過去があったのだ。
その後、母はお父さんと知り合って結婚した。
気持ちを昔の恋人に残したままだったのか、お父さんを本気で愛していたのか、それは分からない。
ただ結果として、母はその男と再び関係を持って、それが相手の妻にバレた。
関係が遊びだったのか、本気だったのか、そんな事はどうでもいい。
男の実家である河内家は母の実家山村家と比べものにならない名家で、地位権力全てに於いて太刀打ち出来ない力を持っていて。
そんな家を実質支配していたのが男の妻だったらしい。
激怒した妻は母の実家に行っていた事業資金の援助を全て打ち切ると通告した。
なんの事はない、母の実家が威張り散らしていたのは男の妻が身を引いた母に対する見返りで成り立っていただけだった。
母の不貞を知った母の実家は、許しを乞うたが、向こうは当然許すはずもない。
必死の懇願に男の妻は母に対し、二つの条件を提示した。
それは男の両親の介護を母が1人で行う事、そして男の跡継ぎを生む事であった。
男の妻は不妊で母のお腹に男の子供が居ると分かったからだった。
母の実家はその条件に飛びついた。
他に選択肢は残されてなかったし、跡継ぎを娘が産んだら河内家の実権を握れると考えたらしい。
手紙はそこで終わっていた。
その後、母は子供を産んだのか、今はどうしているか一切書かれてなかった。
私はお父さんに叔父さんから手紙が来た事を言わなかった。
言ったところで事態が変わるとも思えなかったし、今の環境に満足していたから。
「ん?」
ある日、学校から戻ると自宅のインターホンを押し続ける1人の女性を見つけた。
「あのどちら様ですか?」
私の声に女性が振り返る。
身なりは整っているが、着ている服はどこか古ぼけており、白髪が混じった髪は一つに纏めていた。
「み…美愛なの?」
「そうですが…」
私の名前を言ったという事は知り合いだろう。
しかし女性の顔に見覚えは無い、よく見れば深い皺が刻まれ、それを厚い化粧で埋めていた。
「私よ、あなたのお母さんよ…」
「母?」
思わぬ言葉に頭が真っ白になる。
どう見ても女性は60を過ぎている、母ならまだ40代のはずだ。
「お…大きくなって」
母と名乗る女性は私に手を伸ばす、その恐怖に後ずさった。
「どうしたの…お母さんよ」
「はあ…あなたが、母ですか」
「そうよ」
ダメだ。
記憶にある母と目の前の女性が結びつかない。
ここまで人って人相が変わるものだろうか。
「その上がってもいいかしら?」
「ダメです」
何をおかなしな事を言ってるんだ。
なんでいきなり家に上げなくてはならないんだ。
「…どうして?」
「当たり前です、あなたが母なら尚更でしょう」
「そんな…」
どうしてショックを受けてるの?
意味が分からない。
「ま…政志さんを、お父さんを呼んで」
「へ?」
なんで次はお父さんを呼ばなくてはならないんだ。
「ふざけてます?」
「美愛…あの時は仕方なかったのよ」
女の人は涙を流し、私の名前を呟く。
益々意味が分からない。
本当にこの人が母ならここに帰って来られるはずがない。
仕方なかったなんて言えるはずがないのに…
「なにをしてる?」
「お父さん…」
なんでお父さんがここに?
まだ仕事中のはずなのに。
「こんなに家の前で騒いでりゃ、連絡するだろ」
「そっか」
そういう事か、きっとインターホンモニターで女を確認してお父さんに連絡をしたのか。
心配かけちゃったな。
「あ…あなた」
「そう呼ばれる筋合いはない」
女の言葉を、お父さんはきっぱり拒絶する。
そりゃ呼ばれたくないでしょう。
「今更なんだ?」
「その…ここでは」
「近所の目が気になるのか?」
「そうじゃなくて…」
お父さんの声はどこまでも平坦だ、やっぱり声を荒らげたりしない。
「それなら僕の会社の事務所に来い、今ちょうど誰もいない」
「…家に上げてくれないのね」
「当たり前だよ、君はもう家族でもなければ、お客様でもない」
お父さんの言葉がクリティカルヒットしたみたい。
家から数分歩いた場所にお父さんの会社はある。
母は黙って私達の後から着いて来た。
扉を開け、応接室に入る。
長テーブルの椅子を引き、静かに私とお父さんは座った。
「美愛…どこまで話しをした?」
お父さんは立ち尽くしたままの母を無視して私に尋ねた。
「まだ全然だよ」
「そうか、お前は先に家に戻って…」
「もう叔父さんから大体の事は手紙で教えて貰ってるから」
子供扱いしないで欲しい。
この人が母であるなら、私も言いたい事はある。
「叔父さんって亮二さんか?」
「そうだよ」
お父さんの瞳が僅かに揺らいだ。
叔父さんは山村家の援助を一切受けず、1代で大きな会社を作り上げた立志伝中の人として有名だった。
「…亮二が?」
母の目が見開く。
叔父と母の関係は普通だったと思うが。
「あなた、亮二から何を聞いたか知らないけど信じないで!」
母は突然叫び出した。
その声は明らかに怯え、何かを隠そうとする響きがあった。
「アイツは私が酷い目に遭うのを分かってて河内家に差し出したのよ?
山村家が破産するのを知ってもビタ一文援助すらしないで!!」
母は長テーブルを激しく叩き、髪を振り乱した。
「それで?
あれだけ亮二君に言いたい放題しておいて、助けるはずないだろ」
お父さんに一切の動揺はない。
ただ憐れむような視線を母に送った。
「私は…」
「悪くないと言いたいんだね」
「そうよ…」
よくもまあ言えたもんだな。
本当にこの人は私の母親か?絶望するよ全く。
「なら聞くが、不倫は誰が始めた、亮二さんが君に浮気を勧めたのか?」
「それは…河内満男から私に連絡が来て」
「切っ掛けを聞いてるんじゃない、そんなの離婚の時に聞いたよ。
不倫は相手がいて初めて成立するものだ。
7年前君は最後まで全く反省してなかった、それは今もみたいだな」
「ち…違うわ」
淡々と話すお父さんに母は何も言い返せない、図星だからか。
「河内の出した条件に飛びついたのは、跡継ぎさえ産めば自分の地位は安泰になる、そう考えたからだろ?」
「違うってば…」
お父さん、なかなか容赦ないね。
それなら私も言わせて貰おう。
「どうして一回も会いに来なかったの?」
「美愛…それは」
「私を連れて行かなかった事は構わない、それは感謝してる。
でも月に一回は会いに来るって言ってたよね、だけど1度も会いに来なかった。
それはなぜ?」
「仕方なかったのよ、河内の両親の介護で忙しくて…それに子供も産んだばかりで」
「へえ…手紙すら書けなかったんだ。
脚に重りでも着けられて、牢屋に幽閉されていたの?」
「そのへんにしておきなさい」
「ごめん」
お父さんが私を制した、でもスッキリしたよ。
「顛末は亮二さんから先月に電話があった。
去年介護が終わって、君は河内家を追い出されたそうだな」
「なぜそれを…」
「河内家の養子になった子供も取られ…生まれて以来、君は母である事を息子に言うのを固く禁じられていた、違うか?」
「あらま」
それは少し気の毒だな。
せっかくの切り札だったろうに。
「浮気相手の男共々君は河内家から追放された。
その事を知った山村家は河内家に子供は君が産んだ事をバラすと脅して、完全に潰された。
喧嘩を売る相手を間違ったね」
「うるさい…」
おっと反撃かな?
ちょっと人間っぼさを感じるよ。
「…その通りよ、私は全部奪われた。
親の言われて河内家に近づいてバカ息子と付き合ったのに、結婚を許されず。
やっとアンタと結婚したと思ったら、娘まで見栄えだけの中身は下町のクソ庶民だし」
「褒めてくれてありがとう」
「うんありがとう」
お陰でこんな可愛いお顔に成長したよ。
お父さん顎に手をやらない、私も両手で両頬を包んでるけど。
「黙れ!!」
恐い、私も年をとったらこんなオババになるのかな?
気をつけよう。
「で、金か?
慰謝料は家のリフォームに消えたから無いぞ」
「そうそう」
お陰で家のお風呂場を全部最新式に入れ替えたんだ。
後は外壁とかテレビや洗濯機。
「私の物とかあったでしょ!」
「全部要らないって言っただろ、みんな処分したよ」
「そんな…」
本当は全部売っちゃったんだよね。
美味しかったな、松葉カニとかA5ランク和牛の鉄板焼とか。
「それなら私をあの家に住まわせなさい!」
「なんと?」
「本気?」
まさかここまで厚顔無恥な事を言うとは。
その自信はどこから来るんだ?
「そりゃ無理だ」
「なんでよ、あなた私に言ったじゃない!」
「お父さん何か言ったの?」
「覚えてないな」
「『君の帰る場所はずっとここだ、待ってるから』って!」
「そんな事言ったの?」
思わずジト目で見ちゃったよ。
良かった、こんな会話を家でしなくてさ。
「最後くらい格好つけたかったのかな、君も信じてなかっただろ?」
「もう!もう!!もう!!!」
あなたは牛か?
それに唾を飛ばさないで、顔に掛かりそうだから。
「冗談はこれくらいにして、さっきから君は離婚合意書を忘れたのか?」
「ごまかさないで!」
「ごまかしてないさ、面会以外お互い会わないと書いただろ。
違反したら一回50万円って、山村家の弁護士が決めた事だ、忘れたのか?」
そんな事を書いてたのか。
お父さんは会いたいと思わなかっただろうから関係なかったな。
「これってカウントされる?」
「おそらく」
「やった!今度は焼肉食べたい」
「じいちゃん達、また喜ぶぞ」
「お前らは!!」
水を差さないで欲しいのに。
「そろそろ帰ってくれないか、子供の迎え時間だから」
「本当だ!」
いけない、5時じゃないか。
早く保育園に行かないと!
「ち、ちょっと待ちなさい子供って?」
「悠馬だ」
「悠馬君だよ」
可愛いんだよね。
最愛の弟…
「まさか美愛…あなた子供が」
「こら!」
「ぶっ!」
なんて事を言うんだ!
私はまだ未経験で、そもそも彼氏すらいないっての。
「もう再婚して5年だ。
子供も3歳と、来年もう1人増える」
「嘘よ…政志さんが再婚を…」
なんでまたショックを受けてるんだろ?
お父さんの左手薬指見たら分かる事なのに。
早く帰って紗央莉さんに説明しないと。
いきなりこんな人が来たからびっくりしただろうな。
「う…浮気よ!私がありながら」
「離婚してるだろ」
「もう他人じゃないの?」
「いやああああ!!」
部屋を飛び出してしまった。
そんなに驚く事かな、自分が裏切っておきながら、なんで待ってくれてると思うんだろ?
「とりあえず帰るか」
「そうね」
疲れたけど長年の胸のつかえがやっと取れた気がする。
「気にするな」
「何が?」
「よくあることさ」
お父さんはいつもの口癖を呟く。
こんな事そうそうあっちゃ堪らない。
でも今はその気楽な言葉が妙に楽しかった。




