006 世界
「――信号、消えました!」
張り詰めた声が、管制室の中央を切り裂いた。
そこは陰陽庁管制室。世界中の霊的現象を監視し、同時にそれに対する作戦を即座に立案する中枢である。
無数の式符と術式が壁面に浮かび上がり、無機質な光を放つスクリーンには複数の映像と数値が乱れ飛んでいる。
しかし今、その全てが意味を失っていた。
異常は突如として起きた。
まばゆい閃光が《封印の地》を覆い、その瞬間を境に――神城風磨と九尾、そして九尾の眷属の反応が、完全に消失したのである。
「探査班!再スキャンを続けろ!霊術、陰陽術、すべての系統を使え!」
「駄目です!地脈の流れ、霊脈の揺らぎ……どこにも痕跡がありません!」
「馬鹿な……そんなはずは……!」
だが、事実は無慈悲だった。
九尾が創り出した《異空間》など知るはずもない彼らに、行方を追える道理はない。
数分間の沈黙にも似た捜索ののち――決定的な報告が響き渡る。
「報告!陰陽術と霊術、双方を駆使して世界中を精査しましたが……九尾、眷属、そして神城の反応、見つかりません!」
管制室全体が凍りつく。
それはつまり、彼らが《この世界の外》に消えたことを意味していた。
さらに、追い打ちのように別の観測班が声を張り上げる。
「……そして、先ほどの光から――《神格波動》の残滓を確認しました!」
神格波動。
それは神が権能を振るった痕跡とされ、現人神でさえ滅多に観測されるものではない。
「神……だと?!」
「馬鹿な……妖が神に至るなど……」
ざわめきが広がる。だがそれは否定できない観測結果だった。
実際に行使されたのは妖術――九尾固有の創造の力である。だが、現代陰陽庁に妖術の知識はほとんどなく、その性質を理解できる者もいない。
ゆえに彼らの結論は一つ。
――九尾が神へと昇華した。
そう錯覚せざるを得なかった。
本当のところ、現人神と同格かどうかはまだ疑わしい。だが、その力は間違いなく災厄の域に達している。それでなくとも厄災として
人が挑むにはあまりに危うく、そして――絶望的に近い。
それでも、九尾が消えた以上、対処のしようはなかった。
「……くっ……!」
「ど、どうすれば……!」
管制室には焦燥と恐怖が渦巻く。
だが、最終的に指揮官が口を開いたとき、その声音はひどく沈んでいた。
「――再出現まで……待機だ」
それ以外の判断を下せる者は、誰一人として存在しなかった。
――――――――――――
「……ここ、どこだ?」
頭がずきずき痛む。目を開けると、まだ世界が輪郭を失っているみたいにぼやけて見えた。
指でまぶたをこすり、ようやく焦点が合うと、そこにあるのは――誰もいない、ただ大きな自然だけだった。
広がる草原か、見上げれば空。風が葉を撫でる音だけが耳に届く。
寝ぼけた脳でじっと思い出そうとする。
ここに来るまで、僕は何をしていた? 覚えているのは、きゅうちゃんが色々言って、でっかいエネルギーを吐いた――そこまでだ。
あとは白い光。そこで記憶が断ち切れている。
つまり、ここはきゅうちゃんの言った《創造した空間》の中に違いない。
「それにしても……なんで誰もいないんだろう」
疑問はすぐに身体の中の別の感覚を呼び覚ました。
僕は習慣で、軽く霊気を纏ってみる。
指先から始めて、肩、胸へと広げる。《霊気纏装》だ。
いつもの、ささやかな安定剤。
だが、その感触が妙に違う。いつもならば、術を展開した分だけ霊気が消費されるのを感じる。空になったカップに液体が減るように、僕の内側の量は確実に減るはずだ。
けれど今は――減るどころか、ゆっくりと増えている気がした。
まるで、見えない泉に手を突っ込んだみたいに、霊気がぽたりぽたりと補充されていく。
最初は気のせいかと思った。
錯覚だと踵を返してしまいたかった。
だけど何度も確かめるうちに、それが錯覚ではないことがわかってきた。
術を張っているのに回復する。しかも、普段の回復速度を遥かに超えて。
これは――限界の感覚がぶっ壊れてる?
いや、もっと正確には、ここでは「限界」という概念自体が違うのかもしれない。
普段の僕なら術を使うたびに内側から燃料が減っていくのを自覚する。
だがこの場では、使えば使うほど、むしろ充填される。
まるで空気中に霊気が満ちていて、僕がその中を泳いでいるだけで力を吸い上げられてしまうような、そんな感じだ。
考えを巡らせながら、僕は立ち上がる。
足元の草は柔らかく、踏みしめると僅かに湿気の匂いが上がった。
遠くの木立が揺れて、光がかすかに瞬く。
自分の姿を確かめるつもりで手を見れば、手のひらに小さな光の粉が舞っているのが見えた。
指を開くと、霊気が爪先まで流れ込んでくる。妙だ。
安心感すら覚える。
いったいこの空間は何を模して—or創りだして—いるのだろう。
きゅうちゃんは「時間と空間を司る」と言っていた。
時間がどう作用しているかはまだ掴めないけれど、この空間の「癒し」や「補給」の仕組みは、確実に通常の世界とは違う。
もしかするとここでは、術の消耗自体が流れ戻すように設計されているのかもしれない。ひょっとして安全装置の一種だろうか。
あくまで想像だ。だが想像――というか期待に近い感情が、胸の中で静かに膨らむ。
もし本当にここが術のリチャージに適した場所なら、僕はここでいくらでも練習できる。戦闘の経験値を積める。弱点を試せる。
そう考えると、妙にワクワクしてきた。
それでも冷静さは忘れない。
きゅうちゃんとはいえ、九尾の創った空間だ。
安全装置があるにせよ、そこで何が起きるかは予測不能だ。
油断は禁物だ。
僕は深呼吸をひとつして、霊気を全身に回しながら立ち上がる。
視界の先端で、かすかな地形の起伏が見える。
小さな丘、木の並び、向こうに見えるのは――おそらく、きゅうちゃんが意図した戦場だ。
よし、と自分に言い聞かせる。
まずはこの世界を少し歩いてみよう。情報が欲しい。
どんな効果が働いているのか、どこまで試せるのか。
身体を動かすごとに、内側の霊気はほんのりと満ちていく。
歩を進めるたびに、僕の胸の中の不安は少しずつ好奇心へとすり替わっていった――
――――――――――――
「え、やば。やりすぎたのじゃ」
――まったく、我ながら驚いたわ。
久方ぶりじゃった。妾の妖術――【世界創造】を行使するのは。封印前の頃と同じ感覚で力を振るったつもりじゃったのに、どうやら加減を誤ったらしい。いや、加減自体は正しかった。けれど、妾自身の力が封印される以前より格段に増していたのじゃ。
目の前に広がる新生の空間を見渡しながら、妾は苦笑を漏らす。
「……こりゃあ、《《現人神》》……いや、それより一歩先。《《亜神》》の段に届きつつあるやもしれんのう」
言葉にしてみると、我ながら恐ろしい。だがそれが事実じゃ。
――そもそも、妖の“上位”とは何か?
それはすなわち、《《神の領域に片足を踏み入れた存在》》を指すのじゃ。
普通の妖は、ただ霊気を喰らい、術を操るだけのもの。しかし妾たち上位の妖は違う。与えられしは「妖術」と呼ばれる力。だが実際にはその正体、神が行使する“権能”の劣化版にほかならぬ。
神の“権能”は無制限。無から有を生み、因果をねじ曲げ、存在そのものを書き換える。文字通り、世界を創り変える力。人の身で扱えるはずのない領域だ。
対して、妾たちの“妖術”はそこへ至るための影。力の源は“妖気”。いかに強大な力を誇っても、無限ではない。限界もあれば、代償もある。だからこそ“劣化版”と呼べる。
……だが、劣化版とはいえ、その力は人間にとっても妖にとっても十分すぎるほどの脅威。妾が空間を創造すれば、そこは完全なる異界と化す。時すら流れを変え、生命の理すら歪ませることが可能じゃ。
つまりは――今この瞬間、妾が生み出した空間は、神の力の残滓を宿す新たな「世界」そのものなの。
封印される前よりも力が膨れ上がっている理由は、まだ掴めておらぬ。だが一つだけ言えるのは、妾はいまや妖を超え、神に近いものへと変じている。
――しかし、いまの妾の力は、もはや過去と同じではない。
かつては「権能」の劣化版を振るうにすぎぬ、ただの上位妖にすぎなかった。けれど今は違う。劣化版という枠を超え、確かに“権能”そのものに片足を突っ込んでいるのが分かる。
その理由は、ただひとつ。
――信仰の力が、妾に集まりはじめているのじゃ。
なぜ人間どもの祈りが妾に向けられているのかはわからぬ。だが確かに、封印されていた間に人々の怨嗟も、畏怖も、憎悪すらも「信仰」と化し、妾へと注がれていた。憎まれようが恐れられようが、それは人の意識を集めるという点で変わりはない。
それらが積み重なり、妾の妖術――いや、権能もどきは進化を遂げた。
そして生み出されたのが、この世界。
「……これは、まるで平安京を再現してしまったといっても過言ではないのう」
見渡す限りの都の景色。楼閣、路地、瓦屋根に至るまでが整然と広がり、川は流れ、人の気配すら感じられる。妾が創造した世界は、ただの空間ではなかった。まさしく「ひとつの時代」が丸ごと複製されたような完全な都市であった。
平安京――妾が生き、そして暴れ、封印されるに至った舞台。まさか己の妖術でその姿を再び目にするとは、思いもしなかった。
「ふむ、眷属はすぐ近くにおるが……神城はどうやら別の場所に飛ばされたようじゃな」
妾はまぶたを閉じ、この世界を《《認識》》する。
妾の創り出した世界。ゆえに妾が絶対の支配者。空間のひとつひとつ、生命の鼓動に至るまで意識を通わせることができる。
そこで気づいた。
「ッ……?! なんと、この世界に生命まで産まれておったか」
人の群れ、商いをする声、子の笑い声、牛馬のいななき。すべてがただの幻ではなく、確かな命として息づいていた。妾の生きた平安京が、世界ごと複製されている。これが「創造」の果てか……。
驚きに身を震わせながらも、妾は掌握を止めない。次に求めるは、神城の所在。
――見えた。
妾たちの立つ場から真反対、平安京の街を越え、さらに遠方。彼はそこに存在していた。
「ふむ……距離はあるのう。だが、かまわぬ」
むしろ好都合じゃ。彼がそこにおれば、いずれこの時代に残る陰陽師たちと交わることになるだろう。軽く探った限りでも、この世界には劣化版とはいえ《《妾を封印した陰陽師》》が存在していた。歴史の複製であるなら当然か。
陰陽師。妾にとっては憎き敵。されど神城にとっては、学ぶべき最高の教材となるはず。
「技というものは、見て盗むものじゃ。神城よ……お主がこの時代最強の陰陽師から学び取ってくれることを、妾は望む」
そう呟きながら、妾はふと思い出す。まだ結界の中に閉じ込めていた眷属の存在を。
――彼奴も、この世界で必要な役を担うやもしれぬ。
妾は指先を軽く鳴らし、結界を解く。閉じ込めていた眷属が解放され、空気を震わせる妖気が流れ出す。
すべては、己が新たに創り出した「世界」を最大限に活かすため。
妾は微笑み、玉座に腰を下ろすように堂々と佇んだ。
「さぁ、遊戯の始まりじゃ」




