004 交渉不成立
「――あなたは......誰ですか?」
覚悟を決めたはいいものの、結局口から出たのはそんな締まらない一言だった。
もっとこう、「お前を封じる!」とか「かかってこい!」とか、主人公っぽいセリフを吐けたら格好ついたのかもしれない。
でも、目の前にいるのはおそらく伝説級の妖――九尾。
変なことを言って即刻バラされる未来が見えたので、結果的にこれが最適解......と、自分に言い訳しておく。
僕の問いを聞いた九尾は、すっと目を細めた。
「妾は九尾。狐の頂点に立つ妖であり――絶賛『はんぐりー?』とかいう奴じゃ」
......はんぐりー?
その瞬間、僕の脳内で緊張が音を立てて崩れ去った。
あれ、なんかおかしくない? 九尾って、もっとこう......おどろおどろしくて、時代がかった言葉を使う存在じゃないの?
なんで現代スラング混じってるの? しかも片言だし。
思わず突っ込みたかったけど、命が惜しいので飲み込む。
とはいえ、この妙な可笑しさのおかげで、さっきまで喉を絞められるようだった緊張はかなり和らいだ。
......それにしても、お腹が空いているらしい。
僕には【霊質変化】がある。霊気を食べ物に変えるなんて、ちょっとした芸当だ。
もしかすると、これで懐柔できるんじゃないか? 少なくとも、「見逃す」くらいはしてくれるかもしれない。
そう思い立ち、ポケットから紙コップを取り出すみたいな気軽さで、渋柿を生成して差し出した。
「あの......お腹、空いてるんならこれいります?」
九尾はそれを見て、わずかに逡巡する。
そして小さく、ぼそぼそと何かを唱えた。
次の瞬間――。
九尾の身体から力の奔流が迸り、その威圧感の塊だった巨躯が音を立てて縮んでいく。
重厚な気配は霧散し、代わりにそこに立っていたのは......まるで幼子のような小柄な姿。
頭にぴょこんと立った狐耳、ふわふわの尾が小さく揺れている。
......なにこのギャップ。威厳どこいった。
小さな九尾は、とてとてと擬音が似合いそうな歩調で近づいてくると、ぴょんっと驚異的な跳躍力で僕の手から渋柿を奪い取った。
「うむ、もらうのじゃ」
がぶりと渋柿に食らいつく姿は、どう見ても子どものおやつタイムだった。
いや、見た目が幼いだけで中身は伝説の妖怪なんだけども......。
「うむ......悪くない。それにしても、お主。霊術の使い手であったのじゃな」
「あぁ、はい。最近教えてもらいました」
答えるのも、さっきまでみたいに命がけじゃない。
なんなら今は「のじゃロリキャラ」にしか見えなくて、妙に気楽だ。
この姿で巫女装束なんて着せたら、たぶん即座に界隈で人気者になるだろう。
「うむ、もういっこよこすのじゃ」
「あ、はい」
条件反射のように渋柿を生成して渡してしまう僕。
受け取った九尾は、尾をぱたぱたさせながらご満悦の様子でかじりついている。
......なんだろう。無限に渋柿をあげてたら、この九尾とは仲良くなれそうな気がしてきた。
いや、本当に仲良くなれるなら安いもんだけども。
――――――――――――
――静寂の裂け目から降りてきた光景は、我が長らえた想像の範囲を遥かに越えていた。
封印は破られ、自由の甘露が我らの髄に染み渡る。だがその解放の余韻を掻き消すほど、目の前の光景は我が理を混乱させた。あたかも時代が狂ったかのように、我が主は――あの九尾は、人の少年と隣り合って笑っているのだ。しかもその姿は、幼子の如く縮まっているではないか。
理解ができない。理が拒む。
我の脳裡に刻まれている主の姿は、もっと威厳に満ち、世界を震わす牙を剥く存在であった。人を屠り、概念を焼き尽くす。人類の価値など我等の前では塵芥に等しい。あの夢――《《人類を根絶やしにする》》という理想を、主は幾度も語り、我らはそれを甘美に聞いた。あの時の主が、笑いながら今のように人と戯れているなど、断じてあり得ぬ。
だが、目の当たりにしているのは紛れもない現実だ。主は小さく、しかし力は満ち、少年と語らい、渋柿を頬張り、時に「たぴおかみるくてぃー」とかいう奇妙な言葉を口にする。主の顎が外れそうになるほどの衝撃が、我を貫く。
――我は、記憶を辿る。
封じられていた時、我らは何を考えていたか。主が如何にして世界を我らの爪の内に取り込むかを。人の悲鳴、人の苦悶、その全てが我らの食となる日を夢見た。主はその語り手であり、我らの道標であった。
しかし今、主は微笑む。人の少年と、饒舌に会話している。しかもその少年は、我が主の目を真っ直ぐに見上げている。滅すべき宿敵と思われし存在が、主に対して無防備な温もりを差し出している。その無邪気さが、我が理性を抉るように憤怒を喚起する。
どうしてだ。どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして……ッ!
問いは、脳髄の奥で反復する。反復するほどに、心の奥底で燃え上がるものがある。それは裏切りの熱。主が我らと共有した理想を放棄するなど、断じて許されぬ。主は我等の旗手であり、我等が渇望する終焉の証であるはずだ。だがその主が、いまや人と親しげにしている。主の笑顔が、人の少年に向けられている――この事実は、我の存在原理そのものを揺るがす。
「ど、どうしたのじゃおぬし」
主の声。――困惑の色が僅かに混じる。あの風合い。その冷ややかさは残るが、温度が違う。主の問いは、我に対してではない。むしろ我らが抱く疑念を増幅させるだけだった。
「てかこの人だれなのよ」
無神経にも、宿敵が口を開く。滅すべき相手が舌を滑らせるごとに、我が血は沸騰する。主の側に立つ存在が、我らの夢を阻害する敵だという認識は確固たるものだ。
あぁ、だめだ。そうだ、おかしいのだ。
主がおかしくなってしまったのは、全てこの滅すべき敵のせい。
こいつを殺せば、主は戻ってくれる。戻ってくれるのだ。
――単純明快。思考は一つの結論へと収束する。
《《多少霊力を持っていようが》》、こんな子供に我が力が屈するはずがない。されど、ここは慎重であれ。主への復讐は迅速かつ確実に実行すべきだ。無駄な轟音を立てず、瞬時に――屠る。
我が爪が空を裂く。霊圧が渦を巻き、周囲の空気が激しく振動する。地面に落ちた落葉が一斉に舞い上がり、視界に乱舞する。主の縮まった姿、少年の顔色、渋柿の小さな破片――その全てが我が急襲の標的となる。
思えば、我は何百年も夢を見た。主と共に世界を燃やす夢。人の血の潮の味が舌に蘇る日を待ちわびていた。だが我は待ち続けただけではない。渇望は我を鍛え、我は術を磨いた。封印の淵にあっても、我は決して鈍らなかった。今こそ、その研ぎ澄ました刃を見せる時である。
「——殺すッ!」
叫びは、我の全身を貫いた。怒号とともに、我は地を蹴る。脚が一瞬で数十の里を駆けるかの如く加速し、敵へと接近する。心臓の鼓動は雷鳴のように轟き、霊圧が濃密な渦となって前方を切り裂く。
我が速度は光のように速く、引き裂く風が少年の髪を掻き乱す。小さな九尾の瞳に映るは、驚愕と困惑。主の顔には、まだ戻る兆しがない。それが我をさらに掻き立てる。主の理を取り戻すためには、滅すべき存在の抹消以外に道はない。
一瞬の躊躇も許されぬ。敵の息の一つを断ち、視界を塗り替えるのみだ。全てが終わった暁には、主は我らのもとへと戻るであろう。世界の再編は、そこから始まる。
私は、この地を蹴った――。
――――――――――――
「...え?」
なんかよくわからない人が出てきたなぁ、と思って九尾のきゅうちゃんとその「よくわからん人」の会話を眺めていたら——次の瞬間、その人が僕に殴りかかってきていた。
世界がスローモーションになったわけじゃない。だけど、周りの音が一瞬遠のいて、視界の端っこが白く滲んだような感覚になる。心臓が一拍、そして二拍。脳の中の「危ない」ランプが真っ赤に点滅して、体が勝手に最適な動きを選び始める。これが火事場の馬鹿力ってやつかもしれない。
無意識のうちに霊力を纏う。指先からひんやりした光が滲み出して、身体の表面を薄い膜のように包んでいく。僕はそれを《霊気纏装》と呼んでいる。攻撃を受け流すための最低限の防御だ。
霊気が全身に行き渡った頃には、殴りかかってきた「よくわからない人」——取りあえず敵と呼ぶことにする——はすでに目の前にいた。拳は振り上げられ、筋肉が盛り上がり、表情は怒りで歪んでいる。
ここで下手に殴り返して相手の懐に飲まれたら、危ない。だから、距離を詰めて受け流しつつ一気に崩す。頭で考えるより早く、足が動いた。
相手の引いている拳を自然な流れで掴む。握った瞬間、拳の熱と暴力の意志が手のひらに伝わってくる。相手が力を込めた反動を利用して、腰を落とし、相手の背中に回り込むようにして体を入れ替える。なめらかな動作で背負い投げ——
「カハ...ッ?!」
相手の息がつまる音。重心が崩れ、足が一瞬もつれる。地面に叩きつけられる衝撃が伝わったが、霊気がクッションになり、こちらのダメージは最小限だ。相手の腕を取り、肘関節を抑えつける形で地面に拘束する。
地面に張り付く土の匂い、砕けた落ち葉の擦れる音、相手の荒い呼吸。胸の中のアドレナリンがまだぶるぶる震えているのを感じる。視界の端では、縮んだきゅうちゃんが渋柿の残骸を頬張りながら、こちらをちらりと見ていた。表情は相変わらず無邪気だ——いや、悪魔的に無邪気だ。
押さえつけながら、僕は状況を整理する。相手はさっききゅうちゃんが「補佐」と言っていた人物だ。詠歌の直属の眷属。つまり、ただの人間ではない。力が強いはずだ。だが今のところ、腕力だけで殴りかかってきたところを見ると、理性より感情が先走っている。嫉妬か、あるいは主の支配から生じた混乱か。
僕はそっと相手の顔を覗き込む。どこか見覚えのある面影がある。疲労と苛立ちで目が赤い。牙のように見える歯並び。人とは違う、獣のような気配が皮膚の下で蠢いている。
「えーと...きゅうちゃん? いきなり殴りかかってきたんだけどもこの人どうなってるの??」
僕の声は、今日一番の冷静さを装っていたつもりだ。けれど喉はまだ震えている。心臓は激しく打っている。きゅうちゃんは、渋柿をかじりながら、咀嚼音だけで答える。
「うーむ、こやつは妾が封印される前に妾の補佐というかそんなことをやってくれていたやつでのう...なんでお主に殴りかかったのかはわからん」
補佐...補佐? 封印される前ってことは——。僕の頭の中でピースがはまる。しかし、ピースが全部揃っても、何かが噛み合わない。
「——もしかしてこの人も妖なの?」
僕の中で冷静さが一つ、増す。ヤバい、こいつはただの人間じゃない。力がある。念の為、押さえの圧力を強める。足で相手の肩甲骨を押さえ、両手首をしっかりと組んで縛る。霊気が腕の先から固まって、縛りのように作用する。気配を封じる簡易拘束だ。
相手は暴れ、土を蹴る。筋肉が盛り上がるたびに、僕の腕に力が伝わる。しかしこちらも術を使っている。簡単には外れない。地面の冷たさと、湿った土の感触が伝わる。相手の荒い息が、僕の耳元を掠める。
「そうじゃの、妾直属の眷属じゃ。たぶん妾の眷属の中でも上位を名乗れるだけの強さは持っていると思うのじゃ」
きゅうちゃんの言葉を聞き、僕は改めて背筋を伸ばす。彼を無害化するのは簡単ではない。だが今は攻め込まれてはいけない。主(詠歌)を守るための最善策は、暴走を最小限に抑えることだ。
落ち着け、と自分に言い聞かせながら、僕は旧補佐の顔を覗き込む。どこか見覚えのような、しかし微妙に違う。狂気が滲むそれは、人のものではない。どこか、かつての主に仕えていた忠誠の残滓を感じるが、今はそれが歪んでいる。
「えーっと、旧補佐さん? 暴れるのやめてくれたら拘束するの離すけど...どうする?」
声は出来るだけ優しく、しかし揺るがないようにする。交渉の余地は残しておきたい。怪我させたくないし、下手に殺める理由もない。だけど、相手の反応は予想を裏切った。
「——殺すッ!」
その一声は、僕の耳に雷のように落ちた。交渉不成立。旧補佐の目が狂気で血走り、全身の霊圧が一気に膨れ上がる。僕はその瞬間、拘束を固めるために残しておいた奥の手を準備する。逃げ道はない——ここで踏ん張るしかないのだ。
あとがき———————
どうも、最近新作とかかいててサボってるtanahiro2010です。
なんかあとすこしでこの小説が10万文字を超えることに気づいたのでできるだけ更新することにします。
閑話はマイペースに更新しますが、次章は完成させてからの毎日投稿にする予定です。
ぜひともこれからも読んでいただければ幸いです。
《宣伝》
https://kakuyomu.jp/works/16818093088242310857
最近10万文字達成しました!ネオページの書き出しコンテストも最終選考までいっています!
政治ネタたっぷりですが読んでいただければうれしいです!!