【コミカライズ】あらそう、では買い取ってさしあげてよ
「こんなのあんまりです……っ! 私が元平民だからって……っ」
麗らかな昼下がり、中庭にある噴水の前で膝をつく一人の令嬢。その腕の中にはびしょ濡れになった彼女の教材一式があった。
隠しているようでまったく隠せていない噓泣きを披露する彼女の前には、赤髪金眼のツリ目が特徴的な公爵令嬢の姿がある。その周りにはくすくすと嘲笑を浮かべる取り巻き令嬢たちもちらほらいた。
なんだか見たことがあるわね、と思ったら乙女ゲームのワンシーンだ。
自身の婚約者に近づく元平民で、現在は男爵家の令嬢として学園に通うヒロインへの初めての嫌がらせシーンだ。
というか、私がその嫌がらせの主犯格である公爵令嬢クリスティーナ・クライトンだった。
「一体なにをしている!」
こんなタイミングで転生者であることを思い出した私の前に、今度は婚約者の王子まで乱入してくる。
なんでこのタイミングなのかしら? いえ、そうよね、だってイベントですものね、これ。なんて他人事のように呆気に取られていたけれど、混乱していた私の口から飛び出たものは。
「そうね、ではそちらの教材一式買い取りますわ」
――なんて、悪役令嬢クリスティーナ・クライトンのゲームでの口癖だった。
私、クリスティーナ・クライトンは転生者である。
第二王子の婚約者であり、お高いプライドと家の権力を振りかざし、お金で解決できないことはないと本気で信じる女。
婚約者と惹かれあうヒロインが許せず、金に物を言わせて嫌がらせを繰り返した挙句、最後にはヒロインに負けて卒業パーティーに婚約破棄を叩きつけられ国外追放。そんな悪役令嬢クリスティーナ・クライトン。それが私である。
まさか嫌がらせシーンの最中に前世の記憶を得るとは思いもしなかったけれど、幸か不幸か、今回のことでヒロインが選んだルートを把握できてしまった。
自身の婚約者に近付くヒロインに、それまで口頭での注意に済ませていた悪役令嬢がついに嫌がらせを開始するのは、ある一定の好感度を満たしたことで起こるイベント。その場所によってルートが分かれる仕組みだが、中庭であればヒロインが選んだルートは私の婚約者であるダニエル王子のルートだ。
あのあと本来であれば王子の介入により悪役令嬢を追い返し、王子の婚約者のせいでひどい目にあったにも関わらず「いえ……きっと私が悪いんです、どうかクリスティーナ様を許してあげてください。私も気にしませんから……」なんて謙虚なヒロインの姿に好感度キャップが解放。より一層二人の仲が深まるイベントなのだけれど、私が教材を買い取ってしまったからどうなったのかしらね。王子もヒロインも取り巻き令嬢たちも皆呆気に取られていたものね。
それよりも、これからどうしたものかしら。ため息を呑み込みながら教材一式を買い取った私が家に戻ると、この国では珍しい銀髪に紫瞳が気に入って幼い頃、金で手に入れてからずっと側にいた従者のヨハンが出迎える。
「おかえりなさいませ、お嬢様。その手にあるゴミは処分いたしますか?」
なんて、従者のくせに笑顔のひとつも浮かべず、今は乾いてごわごわになった教材をゴミ呼ばわり。いえ、まぁゴミよね、確かにそうだわ。今にも渡せといわんばかりに手を差し出すヨハンにゴミではなく学生鞄を手渡す。
「とりあえずお茶の用意をしてちょうだい」
「かしこまりました」
部屋に戻り、数人のメイドたちが黙々と着替えを手伝う中、部屋の隅に置いた教材を見下ろしながら小さなため息をこぼす。
私、本当はあの教材を地面に叩き落とそうとしたのよ。実際は私の手が触れる前にヒロインが噴水に投げ入れていたけれど。驚いてそんな動きになったのなら分かるわ。けれどあの子、嘘泣きしていたわよね? あまり考えたくないことだけれど――ヒロインも転生者なのではなくて?
いえ、別にね? ヒロインが王子狙いなのは良いのよ?
幼少期、初めてお会いしたダニエル王子の容姿が気に入って、お父様に無理を言ってお金で手に入れた婚約者の地位だけれど、実はそれほど固執していない。自分の婚約者に手を出す女が許せないと嫌がらせした悪役令嬢の心は、それはお高いプライドからくるものだから。
なので王子とヒロインがめでたく結ばれようがどうでもいい。けれど国外追放だけは阻止したい。なぜって、だってどうして最初に不貞を働いた二人のために、この私が追い出されなければならないの? 嫌がらせをしたから? 不本意ながら代償も支払っているわ。それにもうする気もないもの、理由になんてさせやしない。
もしヒロインも転生者であるならば、あの子もハッピーエンドを目指してなにがあっても私を悪役令嬢に仕立て上げることだろう。
あら、そう考えると少し面白くなってきたわね。売られた喧嘩は買ってさしあげてよ。……買う? あぁ、そうよ、今日のようにお金で解決すればいいじゃない。
「お嬢様、悪人面になっております。メイドが怯えていますよ」
「――あら?」
いつの間にか着替えは終わり、お茶を運んできたヨハンの後ろにメイド達がぷるぷる震えながら隠れていた。特徴的なツリ目のせいでなにをしても悪人面になるらしい。ヨハンが言っていたけれど。
メイドを下がらせ、ヨハンの淹れてくれた紅茶で唇を湿らせる。従者としてこの男の態度はどうかと思うけれど、彼が淹れるお茶は気に入っている。部屋の片隅に捨て置かれたごわごわの教材を見つけたヨハンが真顔で見つめてきた。
「やはりあのゴミ、処分いたしますか?」
「ダメよ。それより厳重に保管してちょうだい」
「はぁ? 理由をお聞きしても?」
ねぇ、今「はぁ?」なんて言わなかったかしら? 馬鹿じゃねぇのコイツって意味の「はぁ?」って言わなかったかしら?
仕事は完璧、お父様やお母様に対する礼儀も知っている。なのにどうしてこの男はいつも私にだけこの態度なのだろう。
「こういうときは理由を聞かずに従いなさいよ」
「お嬢様のおっしゃる"こういうとき"がどんなときなのかは存じませんが、すぐになんでも欲しがり散財を繰り返すお嬢様の命令は残念ながら素直に承服いたしかねます」
「ヨハン……貴方、解雇するわよ?」
「私の雇い主は旦那様ですので、その脅しは通用しません。時おり本気でそうおっしゃるお嬢様の姿は最高に笑えますが」
これである。思い出し笑いでもするように肩を震わせる始末である。
普段はまるで笑顔なんて知らなそうな無表情のくせして、こんなときだけ笑うんじゃないわよ。
「で? 理由をお聞きしても?」
「ふん、まぁいいわ。この私が懇切丁寧に教えてさしあげる」
「やっぱり止めてもいいですか。そう言われるとちょっと、聞くのが嫌になりました」
「貴方ねぇ!?」
いけないわ。これじゃあ彼に流されたままになるじゃない。
わざと大きくため息を零し、改めて紅茶で喉を潤す。
「私、いずれ婚約者である殿下に婚約破棄される恐れがあるの。それに留まらず、この私に国外追放まで命じる算段よ」
「――は?」
「それもこれも、私が想い人に嫌がらせをしたから――なのだけれど、私ってばほら、寛大でしょう? 確かに嫌がらせをしようとはしたけれど、結局は彼女が自ら破損させたのよ。それを私が買い取ってさしあげたの。その私物が貴方が先ほどからゴミ呼ばわりしている学園の教材なのだけれど」
前世の部分は当然伏せて、婚約者であるダニエル王子に嫌われていること。その王子には惹かれている男爵令嬢がいること。その男爵令嬢に今日嫌がらせしようとしたこと。もうするつもりはないけれど、それが発端となりいずれ婚約破棄されること。しまいには国外追放されること。優しい私は懇切丁寧に教えてさしあげた。
と、いうのに。
「なるほど、さすがお嬢様ですね。思考の方向性が常人から逸脱しておられる」
これである。
まぁ、一蹴するヨハンの気持ちは分からないでもない。前世の記憶でもなければこんなこと、戯言に聞こえて当然ね。思い込みの激しい妄想だと反対の立場なら私も鼻で笑っていたもの。
「まぁ? 仮に? お嬢様の常軌を逸した国外追放という妄想が起こりうるとして、どうせお嬢様のことですから、なにか企んでいるのでしょう?」
「あら、当り前じゃない。えぇそうよ、だから私――全部買い取ろうと思うの」
「――は?」
「全部よ、全部。今後あの男爵令嬢が嫌がらせを受けたとして、そのとき破損した私物のすべてを私が買い取ってさしあげるの。そしていつか来たるべき日にすべてお返しして、言ってあげるの。よろしければお売りしましょうか? ってね。ねぇヨハン、私って本当に寛大だと思わなくて?」
いえ、思いませんけど。と呟いたヨハンは恭しく首を横に振る。
「いけません、お嬢様。きちんと感謝してもよろしくてよ? くらい言わないと」
「あら、さすがじゃない。その台詞買い取ってさしあげるわ」
いいえ、お譲りします。なんて頭を下げるヨハンを見ながら、なんだかんだ私の味方であるヨハンに気をよくして、私は完璧な作戦に高笑いをあげたのだった。
それから、私はヒロインが嫌がらせを受けて破損したすべてのものを本当に買い取った。
彼女の私物はもちろん、破かれた制服、故意に落とされた昼食、しまいには破かれたというノートの端っこまで。
嫌がらせに関わっていない私がどうして買い取れたかというと、わざわざご丁寧に王子が怒鳴り込んでくるからだ。その後ろに携えるヒロインと一緒に。だからそのたび「あらそう、では買い取ってさしあげてよ」と微笑んでみせた。するとどうだろう、王子とヒロインは味をしめたように連日怒鳴り込んでくるようになったのだ。
初めのうちは嫌がらせをした本人が弁償するなんて変わっている。そんな目で見ていた周囲の人間たちも、次第に怒鳴り込んでくる二人の姿に不信感を覚え、今では私の心配までしてくれる。一度だけ大丈夫かと聞かれたことがあったけれど「えぇ、なにも問題ありませんわ。寛大な私の行為に、きっと今頃感謝しているに違いありませんもの」と正直に答えたのだが、それはどうやら強がりながらも気丈に振舞っているように見えたようで、なぜかその日から私を見る目が輝いていたわね。
ともあれ、そうして過ごしているうちにいつの間にか私の周りには友人と呼べる令嬢が増え、比例するように王子とヒロインに近づく人間は減っていった。それにより、私が嫌がらせをしたとされる時、友人たちとお茶やお買い物をしていることで二人の嘘は周知のものとなっていった。
そういえば他の攻略対象者たちも二人からは離れていたわね。側近である彼らからも見放されるだなんてお可哀想。
――そんな日常を過ごして早二年。さらに言うならば本日、いよいよ卒業パーティーを迎える。
これまで買い取った品々、それに伴う弁償代とした金額も記載されたリスト。準備も管理もヨハンがしてくれたけれど、まるで抜かりのない私に怖いものはない。絶好の国外追放阻止日だわ。
「ねぇヨハン、どうかしら? いつにもまして綺麗でしょう?」
「えぇ、お嬢様。あれこれ欲しがって集結させた本日の出で立ち、とてもお似合いです」
「貴方ね、今日くらい素直に褒めなさいよ」
友人に囲まれ、あっという間の月日を過ごしても私の性格はもちろん変わらず、頭の天辺からつま先まで金に物を言わせた完璧な装いだ。
赤髪に煌めくバラの形を模した髪飾り、たっぷりのドレープで仕立てた黒のドレスは重くなりすぎないようレースも編み込んで、それに合わせたオペラグローブに、スカラップレースと宝石を散りばめたハイヒール。それらに使用される生地、デザインはどれも私が気に入り、金に糸目をつけず今日の為に準備したもの。
けれど、足りないものがある。
「お父様が用意してくださったアクセサリーは? あぁ、それね? ヨハン、つけてちょうだい」
元より婚約者であるダニエル王子が私にドレスや宝石類を贈るとは思っておらず、それも自分で準備しようとした私を止めたのはお父様だった。この卒業パーティーまでに用意するから待っていて欲しいと言われたアクセサリー。それらが入った箱を取り出すヨハンは、珍しく文句のひとつも言わず丁寧につけ始めた。
アメジストで合わせたイヤリングにネックレス。お父様のセンスを疑っていたわけではないけれど、そのどちらも私のためだけに輝いていると思うほどに素晴らしい。
「お似合いです、お嬢様」
これまた珍しく囁いたヨハンに気をよくしてほくそ笑む。いやね、当り前じゃない。
ヨハンが馬車の扉を開け、先に降りてから手を差し出す。その手を取って降り立つが、一向に彼の手が離れる気配がない。不審に思い見上げたところで。
「お嬢様、誠に申し訳ございませんが、このときをもって貴女の従者を辞することをご報告いたします」
「――え?」
「旦那様から許可は得ておりました。ですが、今日この時を臨む貴女を見送るまではお側にお仕えしたかった。とても綺麗ですよ、お嬢様。誰も貴女の美しさには敵わない。どうぞ最後まで胸を張ってくださいませ」
突然の辞職報告だった。
あまりのことに言葉を失っていると、優しく微笑んだヨハンが手を取ったまま傅く。
「ですがすぐにお迎えに参ります――どうか俺を信じて欲しい、クリスティーナ」
「ヨハン……貴方……」
呼び捨てるなんて無礼だわ。なんて言葉も出なかった。傅いて見上げてくるヨハンの瞳があまりにも真剣だったから。その紫瞳に見つめられて、なにかとても大事なことを思い出せそうな気がしたけれど、それがなにか思い出す前に勝手に口が開く。
「信じるわ、ヨハン。だからあまり私を待たせないでちょうだい」
「――仰せのままに」
堪えきれず笑むように口元を緩ませて、心底嬉しそうに目を細めるヨハンの顔があまりにも楽しそうだから、悔しくて手を離し私は歩き出す。そう、断罪イベントの会場へと。いいえ、振り返りはしない。せいぜい私の背を見つめなさいな。先ほどまで触れていた温もりが指先に灯ったように熱いから、思わずネックレスに触れて気づいた。あぁ、彼の瞳の色だわ。これを用意したのはもしかして――まさか、ね。
気づいたばかりの彼の色と共に、開かれる扉をくぐって入場した私に視線が集まる。
羨望、嫉妬、嘲笑、様々な視線を受けたところで私の魅力が変わることはない。思わぬ辞職報告に驚きはしたけれど、彼が言うようにこの場で一番美しいのは私よ。
――さぁ、断罪イベントを始めましょう。
「クリスティーナ・クライトン! 前に出ろ!」
エスコートもなしに入場したばかりの私を呼ぶ声が響く。
それまで賑やかだった会場は水を打ったように静まり返り、ヒロインの肩を守るように抱きしめる王子が私を睨みつけた。会場中の視線に晒される中で私は胸を張って一歩前に踏み出す。大袈裟に扇を広げると、空中を撫でるように優しく口元を隠した。
「ごきげんよう、殿下。いきなりこのように呼びつけて、どうされましたの?」
「今ここに、貴様との婚約破棄を告げる!」
途端にざわめきを取り戻す会場内。ひそひそと囁く声の多くは卒業パーティーを台無しにし始めた二人への批難だが、自分たちの行いを信じ切った本人たちはまるで気づかない。瞠目する陛下にも、青白い顔で自分の息子を睨みつける王妃殿下のことにも。
「婚約破棄、ですの? 理由をお聞かせ願えるかしら?」
「空々しい! 貴様がこれまでステファニーにしてきた数々の嫌がらせを忘れたとは言わせないぞ。そのような悪態、未来の王妃には不相応! よって、この場で貴様との婚約を破棄する!」
ヒロイン――ステファニー様を呼び捨てしたことでまた会場が騒めいた。婚約者以外の女と妄りにも身を寄せ合うことにご婦人たちが眉をしかめる。令嬢たちは不潔だわ、と囁き合ってすらいた。
「嫌がらせ、と申しますと?」
「ひどいですわクリスティーナ様……っ、私の物をいつも壊していたじゃありませんか! それに、母の形見まで壊されて……っ」
「形見? あぁ、いつぞや私に見せてきたあのネックレスかしら? お金では買えない思い出が詰まっている、とおっしゃっていたわりに、私から得た金銭であっさり新しいものを購入して、押し付けてきたあのネックレスのことかしら?」
「ひどい! あれはクリスティーナ様がお金で奪ったんじゃありませんか! ひどいわ……っ! 謝ってくれたらそれで、私は良かったのに……うぅ、あんまりです……っ」
「あぁステファニー、なんて可哀想に……」
突然泣き始めるヒロイン、そして彼女を慰める王子の行動が決定的だった。
周囲の視線は最早二人に対する嫌悪の色が滲み、会場の雰囲気は一言で表せば最悪。卒業パーティーという祝いの席を踏み台に、自分たちのことしか考えられない二人の三文芝居に無言の批難が飛ぶ。
えぇ、分かるわ。こんな茶番なんかで喧嘩を売るヒロインの浅ましさに私も拍子抜けだもの。けれどこの場の主役は私ですのよ。どうぞ皆さま安心なさって。
「嫌がらせなど、身に覚えがありませんわね」
その場の空気を払うように告げ、ゆったりと二人を見つめる。
「覚えていることといえば、今しがた言ったネックレスのように、殿下とステファニー様が破損した品々を私に押し付け、弁償としてお二人から金銭を要求されたことくらいですわ」
「貴様……っ! 言い方には気をつけろ! 私たちが押し付けたのではなく、貴様が金で奪い取ったのだ! なにより金を出すことが罪を認めた証拠! この期に及んで見苦しいぞクリスティーナ!」
なんて言葉に私はわざとらしく首を傾げてみせた。
「可笑しなことをおっしゃいますのね、殿下。毎日のように壊れた壊れたと子供のように喚き散らしているステファニー様が可哀想だと思いませんでしたの? あまりにも見ていられなくて、私は善意で施してさしあげたのですわ」
「善意だと……!? よくも抜け抜けと……っ!」
「あら、見て見ぬふりをするよりよっぽど親切ではなくて?」
私の返しにくすくすと嘲笑の声が響く。仮にも貴族の人間が、同じ貴族相手に可哀想と言われる屈辱を知っているのだ。
卒業パーティーを台無しにした二人に対する批難は多いけれど、嫌がらせの件に関しては金で解決してきた私を疑う貴族の視線も混じる。学園の者はもちろん私の無実を知っているけれど。
だからこそ、ここから一気に片をつけてさしあげるわ。
「私がしてきたという嫌がらせは身に覚えがありませんけれど、これまで押し付けられた品々は確かにこちらにありましてよ。そして殿下とステファニー様が壊されたと訴えるとき、私が現場にいなかったことは多数の友人、そして教師の皆さまが証言してくださいますわ。さぁ、殿下、そこまで言うのでしたらそちらも証拠をお出しになって」
ぴしゃん、と手のひらに扇を叩きつける。これはヨハンと事前に決めていた合図だった。それと共に買い取った品々とリストを彼が持ってくる手筈なのだ――そこでふと気づく。そういえばヨハン、辞職したわね?
いいえ、彼のことよ。他の者にその役を任せたに違いないわ。と信じて待つ。けれどさすがに遅いんじゃないかしら? と焦り始めたとき――。
「第一王子、ヨハン・バル・ディケンズ様の入場です!」
会場の出入口を守る騎士の声と共に開かれた扉から、王族のみが許された意匠を施した正装を身にまとうヨハンが現れた。その後ろからは買い取った品々を運ぶ騎士の姿もある。
その瞬間だった。前世の記憶部分に稲妻が走り、私は思い出してしまった。
そう、この光景を私は知っている。このスチルを見たことがある。未プレイのDLCシリーズ第一弾、新発売の公式宣伝PVでこのスチルを見たことを、私は思い出してしまった。
ヨハン・バル・ディケンズはこのゲームの隠しキャラだったのだ。
……いえ、スチルには買い取った品々を運ぶ騎士は当然いなかったけれど。
何食わぬ顔をして私の近くまで歩み寄ったヨハンが微笑む。
「待たせた、クリスティーナ嬢」
「……貴方、」
すぐ迎えに来るとは、このことだったの?
いやだわ、待たせないでと言ったじゃない。貴方、遅すぎよ。
そんな叱責の視線すら、すべて受け止めたように目尻を和らげる彼に負けるのが癪で、ほくそ笑んでみせた。
「なっ、なんだ貴様は!」
会場内が突然のことで静まり返っている中、真っ先に声をあげたのは婚約者である王子だった。
私に向ける微笑みが消え失せ、王子に放たれるヨハンの視線はぞっとするほど冷たい。
「久しぶりだな、ダニエル。あぁ、いや……今は亡き側妃を母に持つ兄の顔など、お前は覚えていないだろうな」
「あ、兄だと? 嘘をつくな、兄は亡くなったと聞いている!」
「死んでいたさ。お前が立太子されるまっとうな王子であれば、な。正妃の子としていずれお前が王になるとき、私の存在が王位継承の妨げにならぬよう、第一王子の存在は早くから黙されてきた。そんな死人を今、お前は起こしたのだ」
「な、にを……?」
「私の登場で皆を混乱させたこと、申し訳なく思う。だが、忠誠を誓った貴族に対し王族による恫喝の疑いありとされ、身分を隠し真実を見極めた協力者としてここに立つことを宣言する」
会場のどよめきや悲鳴を無視してヨハンが軽く片手をあげる。それを合図に買い取った品々が並べられた。言っておくが、そこに故意に落とされた昼食などはない。当たり前だけれど。
改めて見ると、最初の頃に買い取っていた破れた制服や教材はまだしも、最後の頃に押し付けられた破かれたノートの端っこなんかは押し売りの他意がありありと見て取れた。
そして遅れて連れられてきたのは、私が初めて嫌がらせするシーンで登場していた取り巻き令嬢たちだった。いつのまにか側から消えていたからすっかり忘れていたわ。
数人の騎士に囲まれ震えている彼女たちを見たヒロインの顔が青ざめる。
「ここに並ぶ品々は先ほどクリスティーナ嬢が述べたように、お前とステファニー嬢がクリスティーナ嬢に嫌がらせを受けたなどと言いがかりをつけ、代償として金銭を要求したものだ。当時クリスティーナ嬢がどんなものに言い値のまま支払ったのか、それもリストとしてここに残っている。また、彼女たちが証言した。ステファニー嬢に対する嫌がらせの数々、そして後に彼女と協力関係を結び、クリスティーナ嬢から騙し取った金銭を分け与えていたことを」
「……な……っ!?」
「無実の人間に罪を着せ、あまつさえクリスティーナ嬢の厚意を踏みにじり利用したお前たちのそれはただの恫喝だ。王族として、人として恥を知れ」
圧倒的なヨハンの物言いにダニエル王子は身を震わせ、最後の助けを求めるように自分に寄り添うヒロインに視線を向ける。彼の様子から見て、きっと嫌がらせが自作自演であることは知らなかったのだろう。私も取り巻き令嬢たちが嫌がらせをしていたなんて知らなかったわ。だって、ゲームではすべて私が悪いことをしていたもの。それに私、ヒロインが誰から嫌がらせを受けようが興味はなかったもの。
自分を見つめる王子に力なく首を横に振るヒロインだが、すでにお互いがお互い信用しきれていない。その瞳が徐々に失望の色を浮かべると、なにを思ったのかヨハンに駆け寄ってきた。
「私、そんなことしていません……っ! どうか信じてくださ……きゃっ!?」
だが、ヨハンの胸に飛び込もうと駆け寄ってきた彼女がそれ以上動くことはない。ヨハンを守る騎士たちの剣先を突き付けられたから。
いよいよ顔色を無くしたヒロインは、次に私を睨みつけてくる。
「クリスティーナ様! ひどいです……っ! あの方たちに罪をなすりつけ、騙し取ったなんて嘘を吹き込んだのでしょう!? 今なら、今謝ってくれたら許します! だから謝ってください!」
なにを言っているのかしら、この子。
さすがの私も呆気に取られた。私だけでなく、会場の誰も彼もがヒロインの言動に絶句している。貴女の選んだ王子なんて顔面蒼白じゃない。今、王族であるヨハンが連れてきた彼女たちが証言したと告げた時点で、それは確かな裏付けに基づく真実でしかないというのに。
その事実に気づけない彼女に憐みの視線を向けると、びくりと震えた彼女が一歩さがる。まるで助けを求めるように周囲を見渡してやっと、味方がいないことに気づいたようだった。
その瞬間、顔を歪ませた彼女が私を指さした。
「貴女……! 貴女も転生者なんでしょう!? だってそうじゃなきゃ可笑しいじゃない! どうして隠しキャラのヨハン様が悪役令嬢の味方なのよ! ヨハン様のルートを狙うためにこんな馬鹿王子の好感度をあげていたのに、なんでよ! 好感度をあげたら出会えるはずの店にもいないし! 一体いつからヨハン様を隠していたのよ!」
きっと、この場で私以外の人間は彼女を残念な目で見たことだろう。自白した内容はあまりにも理解不能だ。そう、転生者でもない限り。
ヒロインを危険人物と認識したのか、ヨハンが騎士を動かそうとするのを扇をかざして止めると、ゆったりと一歩、彼女に近づく。
大体ね、ヨハンもヨハンだわ。この断罪イベントの主役は私ではなくて?
美味しいところだけ持っていって、いくら隠しキャラといえども、最後の幕引きくらいは私に譲るべきだわ。
わざと音を立てて扇を広げると、たっぷり時間をかけて口元を隠す。
「黙りなさい」
静かな会場に落とした声音は、自分が思う以上に甘い響きを伴っていた。そして、それ以上に怒気を孕んでいる。
「一体なんのことをおっしゃっているのか、まるで分かりませんわ。それよりもご自分の立場を分かって? 貴女はこのクリスティーナ・クライトンの厚意を踏みにじり、あまつさえ今日という祝いの席を台無しにした。ねぇ、教えてくださる? そんな権利が貴女のどこにあるというのかしら? ねぇ、聞かせてくださる? 他者を利用し貶めようとしたその心を。いいえ、いいのよ? 言えないのならば私が口にしてさしあげる。愉快だった――でしょう?」
所詮ただの悪役令嬢として見下していたのだろう。間近で見る公爵令嬢という存在に呑み込まれ、言葉を失っている彼女に目を眇める。
「私ね、婚約者であるダニエル様のお心を貴女に奪われて、とても悔しかったわ。この気持ち、今なら貴女も分かってくださる? だって、私からこれまでたくさんの金銭を奪ってきたのだから。その優越感が崩れた今、もうお分かりでしょう? 分かったのなら、今の貴女に売ってさしあげてよ? えぇ、えぇ。貴女がこれまで押し付けてきた数々を。さぁ、今ここでそっくりそのまま返してちょうだい」
「……そ、んな……」
「あら、無理なのかしら? そう、残念ね。ではせめて――この世界の住人として矜持を持って、自戒なさい」
この世界の住人、と言ったことで彼女も私が転生者であることを確信したらしい。飛びかかろうとした彼女の頬に扇を打ち付ける。えぇもちろん鉄扇よ。淑女の嗜みだもの。
突然の衝撃にその場に転げ落ちた彼女を騎士たちが捕らえる。王子はそんなヒロインを呆然と見つめたまま立ち尽くし、大人しく幕引きだけ譲ったヨハンは大笑いを堪えるように口元を緩ませていた。
私は最後の締めとばかりにその場でくるりと会場の人間に向き合い、カーテシーをひとつ。
「皆さま、ご卒業おめでとうございます。記念すべきこの日を共に迎えられたこと、喜ばしく思います。そんな祝いの席にてこのようなお目汚し、大変失礼いたしました――ですが、このクリスティーナ・クライトンと共に卒業できる名誉と比べれば些末なこと。そうは思いませんこと? 私、湿っぽい空気は嫌いですのよ。ねぇ、どなたか。私をダンスに誘う誉れをさしあげてよ」
会場中の視線を一身に浴びてほくそ笑む。誰も彼もが私の態度に目を見張り、声を失っている。お父様とお母様だけは誇らしげに見守っているけれど。
誰一人動かない中で背後から近づく男が私の前に傅いた。
「クリスティーナ嬢。その誉れを願い申し出ること、お許し頂けますか?」
「えぇ、もちろんですわ」
男――ヨハンの差し出す手を握ったなら、楽団の音楽と共に踊り出す。最初は見惚れて動けなかった卒業生たちも、次第に私たちにつられる様にダンスの輪が広がれば、卒業パーティーは本来の吉事としてこの日を締めくくった。
――それからのこと。
卒業パーティーを終えた私は王城に呼び出され、その足でそのまま陛下の元へ参上した。
そこで聞かされたのは、ヨハンが言っていたように王位継承の妨げにならぬよう、側妃の子である彼を死んだものとして扱っていたこと。
近隣国からやってきた側妃様はとても控えめな方だったらしい。王の寵愛を一身に受けたものの、元来の身体の弱さで出産と共にお亡くなりになったそうだ。当初は第一王子として王宮で育っていたヨハンだったが、側妃様を嫌っていた王妃様が将来の王になるのは我が子であると、ついに邪魔なヨハンを手にかけようとした。その一件から、まだ子供だったヨハンは市井にくだることを自ら望み出た。
しかし、その市井にくだるその日、平民の装いをした彼は生意気な小娘と出会ったらしい。
『貴方の髪も瞳もまるで宝石のよう。いいわ、気に入った。お前、私の従者にしてあげる!』
まだ幼い癖に金遣いが荒く、周りの使用人たちを困らせてもまるで悪びれないどころか、それが当然と振舞う美少女――そう、私と出会ったことで公爵家で匿うことを望んだのだ。
そのときすでに元王子の婚約者であった私。もしも二人が惹かれあうことがあれば王位継承の妨げになる可能性もあった。また、王がひとつの家にそれほど信頼を注ぐのは貴族のバランスも崩しかねない。けれど陛下も人の子であり、父親だった。
結局、私と元王子の妨げを決してせず、従者として在ることを約束に、ヨハンは公爵家の従者として私の側にいることとなる。
ヒロインが言っていた出会えるはずだった店、とやらはきっと、ヨハンがそのまま平民として忍んでいた未来にあったフラグなのだろう。そこはさすが私だわ。幼い頃からその魅力で知らず知らずのうちにフラグをへし折っていたのだもの。美しくてごめんなさいね。
そして成長した私の突然の婚約破棄されるかもしれない発言。
私を想っていたヨハンは行動に出た。その発言の信憑性、それに伴い露見する元王子の王族としてあるまじき実態。それらが引き金となり、死した第一王子はこの国に蘇ったのである。
そして王子たちの処罰についても聞かされた。
王子は王位継承権を剥奪のうえ幽閉、ヒロインは修道院送り、取り巻き令嬢たちは貴族籍を抜かれてヒロインと同じ修道院へ。私が買い取ってきた品々は各家が快く引き取ってくださるとのことで、今回の件で発生する慰謝料と騙し取った金銭の返金もしてくれるとか。まぁ、当然よね。
「けれどね、ヨハン。私、貴方が許せないわ」
「ずっと黙っていたから?」
「それもあるけれど、私に恥をかかせたわね?」
「恥なんてかかせていない。ちゃんと俺が運び込んできただろう? お嬢様?」
あれから数日後、国外追放阻止が果たされた私はヨハンと共に王宮の庭園にいた。すっかり王族として振舞う王太子となった彼の婚約者候補として。候補、というのは私がすぐに承諾しなかったから。それくらいあの日のことに腹を立てていると、少しは理解なさいな。
「私を不安にさせたことがそもそも罪だわ。それに貴方ったら、良いところだけ持っていくだなんて。それになんなのその態度。従者のときとはまるで違うじゃない。調子が狂うわね」
「良いところ、ね。そうは言うが、あの日の主役は間違いなく貴女でした。最後なんて特に最高でしたよ――惚れ直すほど、とても美しかったですお嬢様」
「……っ」
まるで化けの皮が剝がれたよう。従者と王太子の顔を使い分けて私を揶揄うなんて、本当に貴方いい度胸してるわね!?
不貞腐れたようにお菓子を摘む私を見て、悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべるヨハンを睨みつけるけれど、なぜか彼はそれすら嬉しそうなのでとても悔しい。
「いいえ、許せないわ。どうしても許して欲しいというなら、そうね、考えてあげなくもないかしら」
「今度は一体なにが欲しい?」
どうせまたなにか強請るのだろうと踏んで、慣れきったヨハンがやれやれと肩を竦めてくる。だから、私は言ってさしあげるの。
「心して聞きなさい――貴方の人生を私が買い取ってさしあげる。支払いは私の人生よ。ねぇ、光栄でしょう? だからこれから先、一生をかけて私を幸せにしなさい」
この日まで保留にしていた婚約者の話を承諾してあげると、ほんの一瞬驚いたヨハンはけれど、やっぱり微笑み返してくる。
「――仰せのままに」
そしてあの日のように私の手を取って、あの日は立場が許さなかった甲への口づけと共に傅いた。
だから許してさしあげる。ねぇ、寛大な私に感謝なさいな。そしたらいつか言ってあげるわ。
本当は私もずっと、ずっと昔から貴方を慕っていたのよ――とね。