ずぃるば
どこかの屋敷の小さなホール、壁の一面に並んだ大きな窓ガラスから差し込む昼間の陽光に照らされて、私は公衆の面前に晒されながら緊張の面持ちでピアノを弾く。
指が鍵盤の上で忙しなく跳ね、しなやかに踊っていると、突如として音が外れる音がした。
途端に椅子に座っている聴衆の目が、みんな私を絞るように凝視してくる。せっかくの天才音楽家たちによる楽譜と、それによる夢見心地が台無しにされたと言わんばかりに穴の空くほど見つめてくる。
どうにか どうにかしないと
たった今壊してしまった雰囲気を修正しようと脳が働く最中、幾度も重ねた練習が次の音を出すタイミングを知らせてくる。
指の位置は鍵盤一つ外側にズレたまま。頭で考えるより先に体が動き、繰り返しによって染みついた運指がただ一つのズレによって不協和音を奏でる。
溜息が聞こえ、寝息や話し声なんかも聞こえ始める。
否。そんなはずがない。二つの音が響く隙間に、会話や睡眠を始められるわけがない。だからそれらは、私が勘違いで生み出したまやかしだ。
錯覚し、錯乱した脳内で、私は朧げな次の音を思い出そうと躍起になる。
練習が足を引っ張り、覚えのない一音が尾を引いて、遂に私の頭は真っ白になる。
ピアノ……壇上……演奏者……聴衆……ママ……
ママ、ごめんなさい
脱色されたように白む視界の中で、嫌に冷たい鍵盤よりも冷徹な指が弱々しく白鍵を押す。
一つ押し込む度に指の力は抜けていき、段々と鍵を沈ませる力すら失われていく。
…………あぁ
もういっそのこと
消えてなくなりたい
***
銀毛の少女は誰かが魘されている声を聞き、自室のベッドの上で目を覚ました。
ぐっしょりと嫌な汗に濡れた上体を起こし、一人しかいない室内を見回して、魘されていた声の主が自分だったことに気づく。
そうか また半年前のあの夢を見ていたのか
銀毛の少女は両手の全ての指の間から滲んだ汗を眺めて、心の内で呟く。
あの日から変わってしまったモノばかりで、出来ることならあの日のことは夢でだって思い出したくない
夢で得た感情と縁を切るかのように、銀毛の少女は左右の手の指を折り曲げて軽く握り、皮膚下から残りの汗を滲ませる。それからベッドから降り、部屋の床に立った。
銀毛の少女の部屋には今し方離れたベッドと、同じサイズのピアノ、一人用の小さな机と椅子、それにドアと対角に位置する暖炉がある。
銀毛の少女はベッドの頭側の壁に嵌められた部屋唯一の窓に歩み寄り、外側へと開く。
すると、温かな朝の日差しと夜の湿った空気が一緒に部屋へと入り込んできた。緩やかに吹き込む風は室内の重たい空気を入れ替えて、目一杯広げた手の平にこびり付いていた汗を奪い去っていく。
少しの間、外の空気をこねるようにして両手を乾かす。銀毛の少女はこの時間が何よりも大好きだった。
暫くして手の平を擦り合わせても引っ掛かりを覚えなくなったので、銀毛の少女は多大な存在感を放つピアノ、その椅子へと腰掛ける。背筋を伸ばし、鍵盤の上に手を置く。
すると間も無く、銀毛の少女は右手で胸を押さえて、黒鍵スレスレに項垂れた。左手は上げた鍵盤蓋の裏に突き、染めたことのない銀色の前髪がはらはらと鍵盤に垂れ下がる。
大丈夫……大丈夫だから
体の芯を締め付ける何かを掴むように、銀毛の少女は胸の前の衣服を皺くちゃにする。
浮いた肋骨越しに伝わる脈拍が馬よりも早く鳴動し、次第に呼吸が浅くなっていくのが分かる。
銀毛の少女の頸や額に、脂汗とも冷や汗とも取れぬ液体が汗腺から浮いてきた。
もうこんなことで怒られたくはない
銀毛の少女は初めて過呼吸を引き起こした際に母親から鬼の形相で叱られたことを思い出し、なんとか死の淵から這い上がってくる思いで症状を軽くしていく。無理矢理に呼吸を深くし、狭まる視界を気持ちでこじ開ける。
やっと軽い運動後程度には心拍が落ち着きを取り戻し、銀毛の少女は再発に備えるように回復の余韻に浸る。
顔を上げ、平常時へと帰ってきた心臓から右手を離して、恐る恐る鍵盤に両手の指を配置する。
垂れ落ちる冷や汗と滲み出た涙が目尻で混ざるが、それを拭う手間を惜しんででも優先すべき用事が銀毛の少女にはあった。
大丈夫、大丈夫。そう内心で言い聞かせながら、優しく柔らかく、まるで気持ちがこもっているかのようにピアノの音色を響かせ始める。固い動きの指先とは裏腹に、屋敷内に響き渡る音楽は初めからそこにあったかのように流暢である。
半年前の大失態以来、銀毛の少女は一度たりとて失敗が許されなくなった。例え練習であっても、失敗すれば金切り声や怒号、平手が飛んでくるようになった。
やがて、それらが飛んでくるのにミスをしたかどうかは関係なくなった。
私はできない子だ
銀毛の少女は絡繰人形さながらに暗記した譜面をなぞっていく。
なんにも持っていない子
容姿も悪く、家事もできない
おまけに頭も悪い
だから、芸を磨く他に生きる術が無い
お母さんが教えられるピアノ以外に、私の生きる道は無い
お母さんのおかげで、ピアノだけは取り柄になり得る
なのに。
そのはずだったのに、私はそのピアノですら人前でまともに弾くことができなかった
銀毛の少女はドア越しにメイドから名前を呼ばれて、母親の教育によって日課となった早朝練習を終いにする。
ならばなぜ、私はこれまで消えずにいるのだろう?
「今から弾くところを同じように弾いてみなさい、いいわね?」
春の温かな風が花弁を撫でるが如く、優しい指導を行う茶髪の女性と、それに正しく頷く銀毛の少女は、四面の壁全てに花柄の壁紙が貼られた一室にいた。四面の内の、出入り口の対面にある一面には少し大きめの窓が設置されていて、そこから差し込む陽光が、ピアノと椅子が二つあるだけの室内をよく照らしている。
この部屋は母親が娘の事を思って旦那に作らせたもので、白と緑のお花模様の壁が特徴的な、ピアノを練習する為だけの場所である。
そんな所で、母親は鍵盤の上を滑るように指を動かす。まるで舞踏のように華麗に動かし、しかしながら、一つ一つの音を確かに聞かせるような、指導するに相応しい心構えが聞いて取れる音色を屋敷中に響かせる。
音の対象者である銀毛の少女はと言うと、母親の指先が鍵を押す圧力を真剣な顔つきで見て、聴いて、一音毎に込められた圧を捉えていた。ともすれば、発作が出るか、色が抜け落ちたあの日の再来となってしまいそうなほどに。
「さ、弾いてみなさい」
お手本の演奏を止めた、今は先生として振る舞う母親に促されて、銀毛の少女は高さの合わない椅子に腰を下ろす。左右の手を鍵盤の定位置に持っていくと、無意識のうちに肩の辺りから指の先端まで、一本の木が内部を通ったみたいに固くなってしまう。しかし弾かなければ鼓膜を裂き切るような甲高い声で、「私の娘ではない」と罵られるのだと銀毛の少女は記憶から己を鼓舞する。はたまた脅えさせる。
震える余裕もない指先で、母親の教え通りに音を鳴らし始めた銀毛の少女。
指の動き一つが品定めされている気で、今さっき耳にした音楽と瓜二つの音を目指していく。
銀毛の少女が操る指は、矢のように突き刺さる視線によって何度も鍵盤と縫い止められそうになりながら、懸命にピアノを奏で続ける。
教わったことを忠実に再現しようと銀毛の少女の脳みそが指先と目と耳の感覚以外、他の全部の受容感覚を遮断して暫くした頃、銀毛の少女の耳はお手本にはなかった空気の振動をキャッチした。
その瞬間、反射的に指が止まり、咄嗟に母親の方を振り向いてしまう。
銀毛の少女が、半端な所で演奏をやめたことへの罰を覚悟していると、母親からは平手ではなく凍てつく声音が投げつけられた。
「ねぇ、あの子を超えたいんでしょう? だったらなんでこんな間違え方したの? ねえ?」
銀毛の少女は頭を垂れて小さくなる。喉を締めて、あらゆる体の筋肉が心臓に引っ張られるようにして、銀毛の少女は存在や自身の価値を小さくしていく。反省していることを全身で隈なくアピールしていく。
それを眺め続けて、やがて呆れた風に顔を顰めながらも、母親はレッスン再開を言い渡した。
銀毛の少女は指先に体温を取り戻しつつピアノに向き直る。
あぁ 今日は運が良かった
昼食休憩を挟み、午後。母親は屋敷の仕事をする為に出掛けて行った。
代わりに、銀毛の少女は白と緑の花柄に囲まれて、細身の男からピアノのレッスンを受けていた。セットしていないカールが目立つ金髪の男は、指導の言葉を口にする傍ら、銀毛の少女の華奢な指を、自身のゴツゴツとして骨ばった手で包み込むように握る。側から見れば運指について熱心に教えているようにも見えるが、よくよく近付いて見てみれば、握っているのは指の一本ではなく五指であった。
「君のその、灰を被ったような髪色、他の人は毛嫌いしているようだけれど、ボクは唯一無二でとても素敵だと思うな」
銀毛の少女の手をにぎにぎしながら金髪男は言う。
銀毛の少女は頭皮を掻き毟りたい衝動に駆られた。
母親が教えられない時に代理でピアノを教える家庭教師として雇われたその若い男は、代々音楽家の家系であり、母親の予定では娘の将来の嫁ぎ先であった。
結婚させるとは言っても、話や事が進むまでは娘の純真や貞操を守りたい母親にとってレッスン以上の行為は御法度である。それ故に、金髪の男に頼む際には必ず部屋の外にメイドを一人配置してから出掛けていた。当の監視役のメイドは、他の仕事を片手間にこなすことも許されていない為、見張るだけの楽な労働だと気を抜いていることもしばしばだが。
金髪の男の吐いた息が耳にかかり、全身の毛穴という毛穴から脂汗を湧かせて空間との断絶を図る。声を出して叫びたい、掴まれた右手ごと突き飛ばしたい、それらを押し殺して銀毛の少女は指示に従順になる。
そうしていれば想像するような、又は想像を絶するような事態には陥らないと、凡そ9年間の人生経験で銀毛の少女は知っていたからだ。
人としての尊厳の尊重が足りない扱いに銀毛の少女は舌の奥を苦くして、この時間が早く終われと切に願う。
金髪男の手汗が、噴き出た脂汗と混じって銀毛の少女の指紋に染み込む。
私を知る人間にとって、私はなんて空っぽな人間なんだろう
そう、空いた穴にからっ風が吹く。
私にはなんにも無いように見えるのだろうか
事実、私にはなんにも無いけれど
それでも、“私自身”はあると思うのだけれど
それとも、私は透き通って見えてしまうほどに
“自分”すらも無いのだろうか
色が無くて、白ですらなくて
色を塗ることも、色を抜くことも
他人が勝手にして良いような、そんな存在なのだろうか
私がそんな、輪郭だけの無色透明な人間ならば
それなら
こんな人生消えてなくなってしまえ
金髪男が今日のレッスンを終わりにし、ピアノ以外に何も置かれていない部屋から出て行った後、銀毛の少女は再び一人で鍵盤を押し始めた。三週間後に演奏会が控えているというのもあったが、しかし銀毛の少女にとってはピアノを弾く行為そのものが防衛本能に基づいた防御反応であった。
銀毛の少女はふとチラついた演奏会に眉をひそめて、意図的に見ないようにしていた箱の中へとその単語を戻す。考えただけで食道が上から下まで小さくなり、内容物が行き場を失って露わになりそうだった。思わず奥歯を噛み締めたのに釣られて、考えなしに力んだ手先が曲調に相応しくない力強い音を鳴らす。
気を取り直して一から弾き直そうと演奏を一時中断すると、先程までのピアノの大きな音とは対照的に、花の落ちる音すらも聞こえてしまいそうなほど静かなピアノ部屋に、はやる気持ちを心ばかりで抑えているような足音が近づいてきた。
銀毛の少女は目の前が一瞬にして真っ暗になり、残った理性で平静を保っているフリをする為に、辛うじて指先を下に押し込む。
ポーン……
見当はずれな音が響くと同時、早歩きの音の元凶は開けっぱなしのドアから顔を真っ赤に歪めて飛び込んできた。
「あんたは本当に人をイラつかせるのが上手ね」
振りかぶった平手が一切の躊躇いなく振り下ろされ、銀毛の少女の頭頂部前方に当たる。衝撃をモロに喰らい、銀毛の少女の首ががっくりと前方に傾く。
屋敷の外で何か嫌なことがあったのだろう、と銀毛の少女は首を上げながら、視線は床に固定する
「あんたは!本当にあんたは!!」
平手が一つ、二つと顔をはたく。銀毛の少女は「もうこれ以上は本当にやめて」とでも訴えるように、申し訳なさそうに首を縮めて両腕を顔の前に交差させる。
最大限の抵抗として己の身を守るために掲げられた二つの白く細い腕に、母親は我が子の萎縮をようやく感じ取る。
「あぁ、ごめんなさい。そうよね、このことにあなたは少しも関係ないもの。なのにこんな八つ当たりみたいなこと……でもね。でも、それとこれとは話が別よ? なに? さっきのあの恥ずかしい音は。あの音を本番でも出す気なの? あなたはあの子を超えたいんでしょう? 天才になりたいんでしょう? なら、そんな音出してる暇無いじゃない。まさかサボってたんじゃないでしょうね。あなたはピアノ以外にやることなんてないはずよ。少なくとも、あなたがあの天才少女に憧れているならさっきみたいな頭のおかしい失敗をしてはいけないはずよ」
一転、母親は捲し立てる言葉の中で顔色を再びこの部屋に入って来た時のものと同じにする。
「ご、ごめんなさい。お母さん」
もうすぐ夕暮れ。花柄の部屋には暗さが目立つようになり、銀毛の少女の声は部屋の暗がりに今にも消えそうになる。
「え? なんて言ったの? 私の耳が悪いって言いたいの? ごめんなさいね。耳が悪い人がピアノを教えてしまって。頭も悪い、見た目も悪い、なんの取り柄もないあなたに人から評価されるような何かを身につけて欲しかったのだけれど。ごめんなさい。私は要らないってことね。耳が悪いってだけで全てが悪いあなたにそこまで言われてしまうなんて思わなかったわ。それじゃ、明日から屋敷を出て行って好きに生きなさい。明日と言わず今からでも良いわよ? ほら、早く」
反論の言葉も否定の目線も、荒げる高音の波に遮られた末に、銀毛の少女はつむじら辺の髪の毛を鷲掴みにされる。白と黒の毛が何本か抜け、頭皮に引っかかった毛根が頭蓋骨を捲らんと痛みに訴えてくる。強制的に開かされた毛穴から、とめどなく色んな汗が流れ出てきた。
「ご、ごめなさい。ごめんなさいお母さん。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」
抵抗や拒否なんてもってのほか。銀毛の少女は上げた腕で母親の片腕を掴むどころか自分の顔を隠して、己の弱さをひけらかすようなことをする。
母親は無造作に掴んだ銀の髪の毛を後方に引っ張って、横取りされたものを取り返すかのように銀毛の少女を椅子から引き摺り下ろす。銀毛の少女は咄嗟に後ろ手に突き、床との衝突は間一髪避けたものの、それを反抗として受け取られないか瞬時に不安に駆られ、ゆっくりと肘を折って背中を床に着ける。
幸いにも母親の気をそれ以上逆撫ですることはなく、両足が椅子から完全に離れるまで部屋の中を引き摺られるだけであった。
ぺたりと、母親は糸が切れたように尻餅をつき、顔を伏せる。
銀毛の少女は痛みの残る頭皮や乱れた髪に触らないよう気をつけながら上半身を起こし、ドア付近から室内の様子を見渡す。夕焼けによって明るいのは、最早ピアノより向こう側だけであり、ドア側は斜陽とは反対方向に影が長く伸びている。
そんな影の中心で、俯いた母親は醜く感情のこもった声で泣き喚く。
「もう、、もう出て行って!! 私の前から消えて!! お願いだからぁ! 私からいなくなってよぉ! 消えて、、、消えてってばぁぁ!!!!」
何度見ても慣れることはない母親のちぐはぐな姿、そして言われた台詞に銀毛の少女はどうするべきか悩み、一歩も動けなくなってしまう。
すると母親のお付きのメイドが溜息で腹を膨らましたような顔をして部屋に入ってきた。彼女は「お嬢様はお部屋へお戻りになって下さい」と言い、母親の側にしゃがみ込む。
銀毛の少女は促されるままにその場を後にする。
部屋に戻るまでの道中、廊下には母親の卑劣な叫びがこだましていた。
……お願いだから消えて!!……
***
夕方の食事が終わり、屋敷全体が寝静まった頃。
満月の銀光が、部屋唯一の窓越しにピアノを輝かせている。銀毛の少女はベッドに横になりながらそれを見つめ、微睡の中、暗闇と月明かりの境目に溶け込むように自分自身へと問いかけた。
私の存在意義とはなんだろうか。
小さい頃は、ピアノを弾いているとお母さんがよく褒めてくれた。それが嬉しくて、また褒められるのが楽しみで、ピアノを弾くのが好きだった。そういえば、あなたにはピアノの才能があるってあの頃に言ってくれてたっけ。
それから何年かして、段々と思い通りに弾けなくなっていった。理由ははっきりと分かりきっていて、私に才能なんか無かったのだ。それでも上手くいけばお母さんが褒めてくれて、その為なら努力を惜しまなかった。才能であるように見せる為の、才能に匹敵する努力をしていた。当時は全てのうまくいかないことは、すべからく自分の能力不足のせいだと思い込んでいたが、今になって振り返ってみれば、この頃からお母さんの指導は出鱈目に厳しくなっていたような気がする。そしてその理由はきっと、“天才少女”が世に現れたからだろう。最年少ピアニストという明確な目標、凶悪なライバルが降って湧いた為であろう。
そして去年。私は最年少を塗り替える第一歩目を大きく踏み外してしまった。初めての大勢の前での演奏に気が狂ってしまった。あの日以降、私は天才と呼ばれる人たちとの埋められない差を知り、お母さんは悪魔に取り憑かれてしまった。
口汚い言葉や遠慮のない暴力は勿論、一番辛かったのは私の毛色を抜いてきたことだ。
どこかで貰ってきたらしい特殊な液体に強引に浸けられ、真夏の昼間に木陰一つ無い屋敷の庭に裸で締め出された。痛くて、暑くて、痛くて、暑くて、それを何度も何度も繰り返し、最後には真っ白にさせられた。
私は生きた心地がしなかった。ブリーチの全工程が終わった直後には、「これであなたの黒い部分は一切無くなったわ」とお母さんに言われた。
半年前の拷問に似た責苦は、確かにあった現実として記憶に刻まれているけれど、その最中に見たものだったり聞いたことだったりは何一つとして思い出すことができない。それこそ、夢にすら見ない程に、ブラックボックスと化してしまっている。フラッシュバックの為の関連ワードごと頭から消し去られている。
恐らく。辛く、苦しい思いをした。
辛く、苦しい思いをさせられた。
私は、そんなお母さんが大嫌いだ。
だけれど、何よりもまず私自身のことが大っ嫌いだ。嫌いな人間の期待にも応えられないような自分が、嫌になるほど嫌いだ。
もう昔のように褒めてもらおうとは死んでも思わない。ただ、そうでなければ私の価値とはなんだろうとも思う。
言われるがままに生きてきた私に、ピアノ以外にしてこなかった私に、今更なんの価値があるのだろう。
何もない私に、根拠もなくたった一人期待してくれたお母さんは、私に「消えてくれ」と切実な願いを叩きつけてきた。
であれば、私には存在意義なぞ無いのではないだろうか。
古めかしく生え残った白と、新しく生え始めた黒が入り混じって映える銀毛の少女は、何一つ母親の思う通りに弾けない昼間の自分を思い出し、眠り始めた思考の中ぽつりと呟く。
「……ごめんなさい、ママ……」
銀の夜は、今日もまた深まってゆく。
お読み下さり、ありがとう存じます。
何かあれば何かしていただけたらと思います。
やっと書きたかった家族の話が書けました。ただ、書きたいように書くには能力が全く足りなかったです。
タイトルは銀を意味するドイツ語、Silberの読みらしいです。
次は壁の話が書きたい。