悪化する日常2025/05/21am07:59
“To live is to suffer, to survive is to find some meaning in the suffering.”
「生きることとは苦しむことであり、生き抜くこととは苦しみの中に意味を見いだすことである」
フリードリヒ・ニーチェ(ドイツの哲学者)
おはようございます。
人間失格を描いていた太宰治さんですが、彼に共感しました。
なんてぬるいことはいえない。
彼は果たすべき義務の元権利を訴えのたうち回り苦悩し生きたのだから。
現代ではある程度のことは金と行動、知識があればなんとかなる。
多様性だとか平等だとか、下らない戯言がなんと、真剣に受け止められる。
人間社会というのは歪なのだ。
平等を歌うたくせに”女性の日”であったり”男性の日”であったり。
”母の日”であったり”父の日”、”こどもの日”なんてあったりする!という私も、この「均一化」に踊らされている。
区別と均一化は違うのにもかかわらずにだ。
それは言葉の表面上の意味合いだけを受け取り、根底の本質を見失っているから他ならない。
読書をしない人間ほど流される。SNS便りで生きている人間は、ことごとく発信者に騙され手のひらの上でダンスを踊る羽目になる。
まさに私も踊っている最中なのだけれども。
私が真に言いたいことはきっとこうだろう。
”私も発信するので、みなさん仲良く手をつないで踊ってください”
まるで画面の向こうにあるモノが真実にみえるだろうけど。映してる人間は真実を知っている。
虚像を鵜吞みにする幸せは視聴者の権利だろう。
義務としては愚か者であり続けること。
そうでなければスマートフォンの携帯と服、通販は辞めざるを得ない。
服を買い替えたければ着られる状態でも新しい季節の洋服を買うべきだし、通販では購入したい商品があれば即カートに放り込んで注文するべきなのだ。
お金を稼ぐことにおいては、サラリーマン、雇われ仕事を懸命にこなすしかあるまい。
それらを外れた先に富はあるし、大勢が行うことに列を成して付き従うことは、つまりは愚かであれることにほかならない。
つまり、笑われる人間、後ろ指をさされる人間こそ、本来我々が目指す楽園が存在する入口なのだ。
といっても、大半は目を逸らし、残ったうちの大半は嗤い。片手で数えられる人間のさらに半分が真剣な顔で頷くのだ。
これを読んでいる人間は前者だろうし、私も前者だ。後者に移りたいが今しばらくは大衆に混ざりフォークダンスを踊ることにする。楽だからね。
また次回。良い人生を。




