2025/04/25pm14:48
幸せとはなんなりや。
こんにちは、私用でこの時間になりました!
今朝起床したばかりのぼんやりした頭で思ったんです。
”幸せの絶頂” ”関係の頂” ”瞬間の切り取り”において、個人であろうと物語であろうと、その時点で永遠にしたい場合は、やはり終わりを迎えることが重要なのかな、と。
右肩上がりでこれ以上はない、最高にいる場所で退場すれば下落は少なくともない。
寧ろ伝説になる。
悲しいし寂しくてつらいんだろうけれども、一度完結させる。
そして新しい形で再スタートを切る。
それは名前と形を変えた転生であったり、或いは間接的、直接的に引き継ぎ、継承させる。
するとどうだろう、その地点からスタートを始められる。
全てに当てはまるわけではないだろう。
だけれども有効ではある。
考え方自体は応用が利くと個人的には思っている。
が、やっぱり使いたくない手法だ。
というのも昨晩読んでいた漫画の主人公らがこれだった。
まさに苦しみから逃れている最中、もう元の生活に戻れない。
壊れた日常に壊れた恋人。
二人で1つだけれども、逃げ出した高校生活と社会は彼女らを追い詰める。
宿屋を泊まり歩き、ふたりきりの旅行気分を楽しむ日常に紛れる警察官。
未成年であるという理由だけで型に押し込められ、些細な出来事で虐められ。
それでも歪んだ愛の中には確かに互いの存在はあった。
共依存の形だったから、剥離するぐらいなら心中というのも読み終えた後では一部理解できる。
まあまあ、要は私は悲しい。
彼女たちの行く末がそこで途切れることが。
作者が何かの気まぐれで”実は彼女たち生きてたんですよね” ”ギリギリで助かりました”
と言ってくれたらどれだけ嬉しいことか。
時間が来たのでまた次回。
よいじんせいを。




