愛と幻想のジレンマ
小説塾の課題小説です。
(一部改稿してあります)
1.
山田タカシは辟易していた。
それは妻に対して向けられた偽ることのできない感情であった。
積年の想いが数年間のときを経て、彼を不貞行為へと走らせたのだ。
心配性な妻だった。タカシの気持ちが揺れ動くのを敏感に察知すると、「ねえ、私のどこが好きなの?」と執拗に迫った。週に一回は必ず行われる地獄のような時間だった。幸い、タカシは頭の回転が速かった。だから大抵の質問にはアドリブで返すことができるのだが、妻の質問はしつこく行われて、多いときには十個以上も列挙しなければ満足しないときもあった。
「ぶっちゃけ魅力なんて感じてないけどな。惰性で付き合っているだけ」
妻の寝顔を見つめながら、本当の言葉を、ウイスキーとともに飲み込む。複雑な造形をした透明なグラスが、カランと丸い氷を転がした。度数の強いアルコールを含んだ茶色い瓶をとろんとした目で眺めると、妻の顔もマシなものに思えてくるから不思議だ。人は年を取る。その年月が重なるごとに美しさは失われる。どれだけ努力をしたところで、若さには勝てない。
「いいんですか。奥さんに叱られませんか?」
同じオフィスにいる若い女性社員を口説いて酒の席に誘ったら、そうやって鋭く返された。
その女性は化粧が薄くて整った目鼻立ちをしていた。
手の甲にはしわがほとんどなく、爪の中も綺麗なピンク色をしていた。
「女って鼻が利くんですよ。どれだけ隠し通したつもりでいてもバレちゃいます」
「そのことなら心配いらないよ。可愛い後輩の悩みを聞いていたって言えば問題ないさ」
「タカシさんって想像よりもずっと悪い人なのね」
「そうだよ。嫌いになったかい?」
「全然。そんなことない」
それからは適当なダイニングバーへと赴いた。
それなりの金額は取られたが、料理はうまいし、酒の種類も豊富な店だった。
タカシは飯をおごり、酒を飲ませた。
彼女の顔が上気して、服を脱ぎ始めたときには思わず胸元に目をやった。
形のよい豊満な膨らみに、口の端を思わず緩めてしまう。
「やっぱり女は若さだ。若くなければ美しくない」
小さく呟いて、バーテンダーに隠れてキスをする。店内の薄暗い照明。
もしも同僚に見られていたとしても、この暗さならごまかしが利く。
タカシは彼女の唇を食んだ。むさぼるようにして。
彼女の唾液が、吐息が、歯が、舌が、全てが、愛おしかった。甘くて濃密な時間に脳の奥がじんと痺れたようになる。彼女の飲んだカルーアミルクの味が、タカシの口内に広がっていた。
「顔色が悪いな。ちょっと休憩するか?」
うん、と軽く頷く彼女に服を着させて、お会計を済ませる。
「ちょっと外で夜風に当たって来てくれ。嫁に電話をしてくるから」
タカシはトイレで妻に電話をかけた。
妻は、その後輩にも変わってくれと申し出たが、タカシは拒否して通話を終えた。
「男には刺激が必要だからな。マナミもこれくらいだったら許してくれるだろう」
言いながら店を出て、ホテルで一晩を過ごした。
多少の後ろめたさはあるが、悪くない気分だった。
2.
出社して鏡を見たときに、タカシは昨日の後輩社員と別れることに決めた。
有り体に言ってしまうと、知性が足りない、というのが理由だった。
黒のスーツに身を包み、ワイシャツやネクタイの位置に気を配っているときに、それを見付けてしまった。いつの間につけられたのだろうか。首筋には彼女の口紅がついていた。
こんな物を堂々とつけて勤務などしていたらそれこそ不倫がバレてしまうじゃないか。そんなことにも頭が回らないのか。もしくはそこまで考えて、俺と妻の仲を引き裂こうと画策していたのか。
どちらにせよ、こんな女と一緒にいるのは危険すぎる。
タカシはそれとなく別れ話を切り出した。
正直な理由を伝えるわけにもいかなかったので、妻に不倫がバレたと話をねつ造した。彼女は申し訳なさそうにして頭を下げるだけで、それ以上は何も言わなかった。
「ようマナミ。久しぶり」
タカシは、大人しくて華奢な女性社員に声をかけ始めた。
「え?」彼女は振り返る。「私、マナミじゃありませんけど」
タカシは頭の中で「しまった」と叫んだ。
ついつい妻の名前を呼んでしまった。
性格はともかく、見た目は若い頃の妻にそっくりだった。
「ごめん、カナちゃん。ゆうべは眠れなくてさ。頭が回ってなかったよ」
彼女はいぶかしむような目線を向けてきたが、とくに何も言わなかった。
タカシはほっと胸をなで下ろす。怪しまれてはならない。
「ところで今日さ、一緒にイタリアンレストランに行かないか?」
「どうしてですか? 奥さんがいらっしゃるでしょう」
「どうやら嫁が浮気をしてるみたいなんだよ」
タカシは声を落として、周りに聞こえないようにする。
「こんなことを相談できるのはカナちゃんしかいないしさ」
彼女は狼狽したように手を組み替えて、メガネの位置を直す。
それを見たタカシは、一瞬にやりとしてから思考を開始する。このタイプの女の子は周囲への気遣いができるタイプだ。だからだれのことも傷つけたくないし、調和をはかろうとする。相談を持ち掛けられたら断るのは苦手だし、ぐいぐい押せば簡単に妥協するだろうな。
「で、ですが……」
「そこのパスタがうまいって評判でさ」
まずは撒き餌を用意する。
彼女がパスタ好きであることは事前にリサーチ済みだった。
それでもカナは首を縦には振らなかった。
「あの、私なんて。恋愛経験が少ないので、お役に立てないと思います」
「そっか。もう予約しちゃったんだけどなー」
タカシは罪悪感を利用して揺さぶりをかけてみることにした。
「え、それじゃあ、お店にも、迷惑がかかっちゃうじゃないですか」
「そうなんだよ。来てくれる?」
「は、話を聞くだけなら」
よし、オーケーだ。店にはこれから予約を入れよう。
妻に別れ話を切り出すのは、次の恋愛が成就してからだ。
いつまでもひとりの女に固執しているわけにはいかない。
定時に退社をして、二人きりでイタリアンレストランへと向かう。案内された予約席からは、夕暮れに照らされた庭園が一望できた。「きれいですね」と発音する彼女のあでやかな口元にタカシの目は釘付けになった。本当に妻にそっくりだ。
「メニューは何にする?」
そう言ってメニュー表を向けると、彼女の細長い指が、料理の写真と眉間とを行き来し始めた。
「ピザもいいしなー。でもパスタも食べたい」
彼女の独り言を漏らさず聞き取ったタカシは、
「じゃあシェアして食べよっか。俺もちょうど食べたかったし」
そう提案して呼び鈴を押した。彼女はおずおずと頷いた。
メニューを注文し終えると、店員は頭を下げて厨房に戻った。
「なんか、ごめんなさい。話を聞くことしかできなくて」
「そんなことはない。こちらも話を聞いてもらえてすっきりしたよ」
タカシがそう微笑みかけたところで、ピザとパスタが運ばれてきた。
ピザは生地が厚くてチーズもたっぷりのっていた。パスタも見栄えよく彩られている。
そのうまそうな見た目と匂いをかいで、タカシは胸が痛むのを感じた。
一瞬、タカシの脳裏に、妻の面影が重なったのだ。
本当に喜ばせたい相手は、この女の子だろうか。
マナミ、と声が漏れそうになるのを必死にこらえる。
「どうかしましたか?」
そう彼女はタカシの表情をのぞき込む。
え、と取り繕ったタカシに対して、
「なんだか具合が悪そうですけど」
彼女は心配そうに尋ねてきた。
「うん、大丈夫だ。ありがとう」
コップの水を口に入れようと手で触ると、水面が細かく揺れた。口の中が異常に熱い。それは氷水がぬるま湯に感じてしまう程だった。
高熱を出したときに、妻が看病してくれたときのことを思い出す。落ち着け。タカシは自分自身にそう言い聞かせ、おしぼりで手を拭いた。
「さ、ピザでも食べるかな」
タカシがそれを一切れ持ち上げると、チーズがゴムのように伸びた。
あわてて口に放り込み、うまい、と快哉を叫んで見せる。
「ですよね。すごくおいしいです。ここのピザ!」
タカシは微細に表情を変化させた。
彼女の純真無垢な笑顔を見て、辛くなったからだ。
「彼女は、マナミじゃない」
頭の奥で声が響く。
「本当に、妻と別れてもいいのか?」
タカシはごくりと唾を飲み込んだ。
また頭の奥でだれかが語りかけてきたのだ。
「妻と、別れる……」
その言葉が茨となって、タカシの心を締め付けた。
不意に、ぐっと苦しくなる。
思い出はいつでも華やかなままだった。
急性虫垂炎をわずらったときに、嫌な顔ひとつせずに看病してくれたマナミ。仕事で辛いときに、ただただずっとそばで黙って愚痴を聞いてくれたマナミ。出張の間はついつい食生活が偏りがちになってしまうタカシのために、彼女は管理栄養士の国家資格を取ったりもしていた。そのどれもが美しく、尊い思い出だったと気付かされる。
最初は何ひとつ噛み合わないふたりだった。好きな音楽も違えば、好きな映画もドラマも小説も、趣味も嗜好もバラバラだった。顔を合わせればケンカばかりしていた。それでも出会いを重ねるごとに、同じ音楽を聴くようになって、映画やドラマや小説も共有するようになった。趣味も嗜好も少しずつ似るようになり、一緒になって、笑ったり泣いたり怒ったり悲しんだり、ささいな経験を積み重ねることができたのだ。そうしていく中で、タカシにとってのマナミは、いつしか特別な存在へと変わっていた。
「今度また、妻を連れて来ようと思うよ」
高熱でうなされたときのように身体が熱い。
胸の辺りが焦燥で燃えている。
早く妻に電話しないと。早く妻にあやまらないと。俺には彼女が必要なんだ。
そんな感情が高速で身体中を駆け巡る。
くるくるとフォークでパスタを巻き付けていたカナは顔を上げ、
「はい、それがいいと思いますよ」と屈託のない笑みをタカシに向けた。
悲しいくらいに、美しい笑顔だった。
それでも妻の笑顔には遠く及ばない。
女は若さで、若さこそが美しさ。
もしもそうなのだとしても、若さを超えるものがこの世にはあると知った。
それはともに過ごした年月だ。
お互いに苦楽を乗り越え、協力してきたからこそ、その関係は特別なものになる。
最初から特別な人間などこの世にはいない。
ともに過ごし、はぐくんできた年月こそが、何よりも美しく尊いのだ。
ふふっと目の前の彼女が、微笑んで見せた。
「マナミ」
タカシがそう呟くのを聞いて、
「奥さんのお名前ですか? よっぽどお好きなんですね」
カナはからかうようにそう言った。
「ああ、この世で一番、大切な人だよ」
タカシは庭園に目をやる。それは美しくライトアップされていた。
3.
「テレビ見ながら食事する癖を直しなさいって何回言えばわかるの?」
いざテーブル越しに向き合ってみると、妻のほうれい線が目立っていることにタカシは気付いた。文句を言いながら箸を動かして口に運ぶ姿。その手の甲を見ても以前よりもしわが多くなっていた。彼女は若さを保つため、外出前には化粧に時間をかけているが、朝方に食卓を囲んでみると妻の加齢が目についた。
「うるさい。そんなの関係ないだろ」
タカシはそんな憎まれ口を叩く。本当は観葉植物への水やりを欠かさずにやっていることへの感謝だったりとか、風呂を沸かしたり、洗濯物を畳んだりしていることについても、少しくらいは褒めてほしいものだと思ってしまう。
だけどこうして家事を手伝うようになってみてようやく妻の苦労を肌を通して実感できるようになったのも事実ではあった。
「お前だって洗濯物を脱ぎっぱなしにしてたり、洗い物を流し台に出してなかったり、家計簿の支出計算を間違ったりしてるだろ」
「あのさあ、私がそうなるのって誰のせいかわかる? あなたが迷惑ばかりかけるせいよ」
「ああ、そうか。お前と話していると高血圧でぶっ倒れそうになるよ。いつもいつもお前のご機嫌取りばっかりさせられる俺の気持ちを考えたことはあるか?」
「なんですって?」
椅子をがたんと倒して立ち上がる妻を尻目にタカシは平然と洗面所へと向かった。電動の髭剃りを肌に当てる。その様子を鏡台越しに眺めてみる。「昔よりも線が細くなったな」タカシは呟く。痩せてカッコよくなったという感じではない。年々食事量が減っているのが原因だろう。今ではラーメンの大盛りは食べられないし、焼き肉を食べに行ってもときどき胃もたれをしてしまうことだってあるのだ。年を取ったのは妻だけではない。
食卓に戻ってみると、妻が冷蔵庫からモンブランを取り出していた。
ぎくりとして引きつった妻の表情。それもどこか憎めなかった。
やれやれ、と腰に手を当てて、タカシは言い放つ。
「そんなことじゃいつまで経っても痩せないぞ」
「うるさい。誰かさんがストレスになるのが原因よ」
「仕方ない。久しぶりにスポーツセンターにでも行かないか? 若い頃みたいに汗を流せば少しは痩せるかもしれないぞ」
「はあ? 誰があんたなんかと行くものですか」
妻のカミソリのように鋭い眼差しを受け止めたタカシは頬を赤らめて、
「まあ、あのときのテニスウェア姿を、また見てみたいなって思ってさ」
タカシとマナミは、大学生時代にテニスサークルで出会ったのだった。
「だから、もしよかったら、俺のためにもう一度着てみてくれないか?」
しばらく長い沈黙があった。
ようやく妻が口を開く。
「仕方ないわね。一度だけだからね」
白のテニスウェアを箪笥から出している妻を見て、タカシはもう一度顔を朱に染めた。当時の記憶が蘇ってきたのだ。いつの間に妻は、俺にとっての特別な存在になったのだろうか。タカシは気付かれないようにそっと首を傾げた。どうやら特別な存在とはある日突然ぱっと現れるものではないらしい。
愛は、長い年月をかけてゆっくりとはぐくまれていくものだから。
「ねえ、私のどこが好きなの?」
そうやって繰り返される質問にため息を吐きながらも、
「どこが好きかなんてことはもう語り尽くせないさ」
タカシはそう真剣に応じた。
お題
A.「久しぶり。〇〇さん」
B.「いいえ、私は〇〇ではありませんけど」
以上のセリフを用いて、6,000字以内で物語を創作せよ!
ただし、登場人物の性別については不問とし、セリフも不自然のないように変化させて構わない。