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「いやいや、人の幸せを妬む輩ってのは、何処にでもいるもんだなぁ」


 呆れを前面に出した声が、静まり返った深夜の教会へと響く。そんなに大声じゃないはずだ。私の勘違いでなければ、独り言として呟かれたもののようだったから。それでも私の耳にまで明瞭に届けられたのは、偏にその声が何処までも真っ直ぐで、凛としつつも明朗なものだったからなんだろう。――初めて出逢ったあの瞬間、本当に、私の心が全て奪われたときと寸分違わずに。


 振り向くことすらすぐにできなかったのは、齎された衝撃が余りにも大き過ぎたせいだった。本気で理解ができなかった。頭が真っ白になるというのは、正しくこのことなんだろう。聞き間違えるはずがない。私がどんなにもう一度と切望し続けていたのかなんて、私自身ですら分からない程なんだから。聞こえるはずのない声だった。もう二度と逢えないと思っている人のそれだった。


 それをこの人はあっさりと、いとも容易く覆す。


「酒場帰りにお前の店に寄ってみたら、ここにいるって言われたんでね」


 当たり前のことみたいにさらりとあの人は口にしながら、いつかのようにブーツの音を高く響かせて教会の中に入ってくる。今更になって扉の閉まる音がしたのは、私が開けたままにしていたせいかもしれなかった。


 振り返る私の視界に飛び込んできたのは、白い肌、白い髪、白いシャツに、赤の外套。結い上げられた長い髪も、浮かべた笑顔も、歩き方すらそのままに、夢にまで見たあの人は、あの頃と何一つ変わらない姿で私の前に現れた。まるで最後に約束をしたあの日から、ほんの少しの時間しか経っていないとでも言うように。

 私の前まで歩み寄ってきたこの人は、すっかり大人になった私にも、当然のように――きっと、この人にとっては何時も通りに、明るい顔で笑いかけた。


「久し振りだな」

「……お久し振り、です……」


 未だ放心状態であるくせに、たったこれだけの言葉を返す間にも、私の声は微かに震えた。嗚呼。心の奥底に仕舞い込まれた私の淡い初恋は、未だにこの人を前にすると途端に息を吹き返す。まるで一秒の間だって忘れたことなんてないかのように、色鮮やかに、生き生きと。すっかり沈んで固まった過去の想いだと思っていた自分が馬鹿みたいだ。例え叶いはしなくとも、少し形が変わっても、こんなにも心揺さぶられる感情が完全に錆び付いてしまうだなんて、そんなこと、有り得る筈がなかったのに。


「あーあ、こんなに散らされて。折角の花が台無しだ」


 拾い損ねた一片の花弁が、同じ色をした長い指先に拾われる。目の前で片膝を突いたこの人は、声音と同じく残念そうな表情を浮かべていたけれど、私は咄嗟に顔を伏せて視界から外した。こんな、明らかに他人から反感を買った結果だろう状況を知られたことが恥ずかしかったし、さっきの〝人の幸せを妬む輩〟という台詞から察するに、この人は私が嫁ぐことも既に把握しているんだろう。不必要な心配をかけたくなくて、私は散った花弁を包み込んだスカーフを強く握り締めた。


「大丈夫です。まだ、お店の方に、きちんと予備の品が……」


 ありますから。そう続けるはずだったのに、声は徐々に小さくなった。何故だろう。代わりを持って来さえすれば、何の問題もないはずなのに。頭では冷静にそう訴える自分がいるのに、気持ちがどうしても追い付かない。

 嗚呼、どうして。せめてこの人の前でだけは、きちんと振る舞いたかったのに。

 情けなさと、悔しさと、悲しさ。様々な感情の波が押し寄せて、再び目頭が熱くなる。切りそうな程唇を噛んで、私は指先に力を込めた。どうか、泣くことだけは避けたい。それだけが今の願いだった。


 嫌な沈黙が続く。早く、何か言葉をかけないと。懸命に言葉を探すけど、あれから何年も経った今でも、どうやら私はちっとも成長できていないらしい。それらしい台詞が何一つとして浮かばなくて、そんな自分が大嫌いで、何よりとても惨めだった。


「そうは言っても、花嫁さんが笑顔じゃなけりゃあ意味がない」


 またしても静寂を終わらせたのはこの人だった。ただ……切り出した声音は、どうしてだろう。普段の朗々としたものとは異なる、静けさを纏い落ち着いていて、とても真剣なものに感じた。思わず顔を上げた私の目に見えたのは、何時もの明るい笑みを消して、じっとこちらを見据える顔。澄んだ赤い双眸には、間違いなく、私の姿が映されていた。微塵も笑えていなければ、気丈に振る舞えてもいない。情けない姿を目の当たりにして、余計に泣きたい気分になった。

 だけど、そんな私に向けて、この人は優しく微笑を浮かべる。大丈夫だと、言外で告げるかのように。


「――だから、これは俺からの餞別だ」


 堂々とした宣言と共に、す、と差し出された品物を見て、私の思考は停止した。


「……え?」


 目の前に存在する物が一体何なのか、何秒間も理解が追いつかない。それでもようやく脳が受け入れ始めれば、生まれてくるのは驚きだ。どうして。なんて、疑問を抱きはしたけれど、思い当たる理由がないこともない。……否、でも、まさか。


「どうだい」子供のように得意気な顔で、この人は私に尋ねてくる。「お前程じゃないが、俺も存外、上手く育てられたと思うんだけど?」


 小首を傾げながら、伸ばされた手が掴んでいたのは、私の視界を覆う程の立派な花束。――最後にこの人がお店に来てくれたとき、この人が買っていったのと同じ品種の、たくさんの白い薔薇だった。

 ただただ茫然としながらも、私に渡そうとしていることだけは理解して、ゆっくりとそれを受け取った。ふわり。控えめに漂ってくる香りは、この薔薇と、それからこの人からのもの。瞬間的に、頭の中がぼんやりとする。間近で見下ろしてみても、可憐な薔薇には一点の汚れすらなくて、本当に見事の一言だった。


「きれい……」

「そりゃ何よりだ」


 本心からの言葉に、彼は笑って言葉を返す。決して社交辞令じゃないと伝わっているのかは分からないけど、そこに言及する余裕はなかった。

 きっと、とても丁寧に育てていたんだろう。真っ白な薔薇は元気に咲き誇っていて、今まで大事にされてきたことを存在そのもので証明していた。

 そして同時に、この人があのとき買った薔薇は、誰かへ完全に渡してしまったわけではないという事実も、この花は私に教えてくれる。誰かへ向けて、一人で、なのか、或いは、誰かと一緒に、だったのか。細かい部分はもちろん私には知ることができない。分かるのは、当然のことではあるけれど、その相手が私ではなく、私の見知った人でもないこと。この村の誰も知らないだろう、別の世界に住んでいる相手だったということだ。


 未だ茫然とした心地のまま、もう一度この人の顔を見て、気付く。前までは確かにしていなかったはずの装飾品――耳元を彩る、瞳と同じ色をした石の付いたイヤリングに、悟らされる物があった。時の流れ、この人の世界……私の知らない誰かの存在。自分で購入した可能性も否定はできなかったけど、装飾品を一つたりとも身に着けていなかったこの人が買ったと考えるよりも、別の人からの贈り物だと捉えた方が、よっぽど正解に近い気がした。

 私も時を経て変わったように、この人にもまた同じだけの時間が過ぎている。そのことを改めて実感するには、私にはそれで充分だった。


「これで約束は果たせたな」


 まるでそれだけが気掛かりだったとでも言うように――裏を返せば、その約束を果たした今は、もう思い残すことなんて何一つないと言うように。満足げな笑顔を浮かべたこの人に、私は頬を緩ませた。すとんと納得してしまう。嗚呼そうだ。この人は、最初からこういう人だった。過去になんて生きていないし、やっぱり私はこの人にとって、旅先で出会った大勢の中の一人に過ぎない。長い長い人生の中で、幾度か擦れ違っただけの子供。そんな私との口約束をこうして守ってくれるんだから、とても律儀だと思う。

 この人は私が抱える花束を再びゆっくりと手に取ると、花瓶に十分水が入っていることを確認してから、とても丁寧な手付きで活けた。夕方に私が準備したものより華やかで綺麗に見えるのは、実際にそうだったことに加え、気持ちの部分で余計にそう感じている部分もあるんだろう。


「どうせ暇だし、朝まで見張っておいてやるよ」


 提案しながら、こちらの反応を待つこともせず、近くの椅子に腰掛ける。お世辞にも信心深いようには思えない人なのに、教会に一人座っている様は、不思議と似合っているように感じた。


「人が来たら渡しておくから、お前は安心して眠っておきな」


 告げる口調は、幼い子供に言い聞かせているようだった。まるで最後を感じさせない口振りだけど、私がこの港の村を離れて街へと移り住んでしまえば、船乗りであるこの人と出逢う機会はきっとゼロに違いない。だけど、この人はそこには決して言及することはせず、また、微塵もそんな素振りは見せない。惜しむことも、悲しむことも、自分には全て無縁だとでも言うように。それもそうかと、私は勝手に納得した。船で色々な世界を巡っているんだろうこの人にとって、別れなんて当たり前、日常の一部のはずだから。むしろ涙を流して別れを惜しむ姿の方が想像できない。こざっぱりしているのがこの人らしいと、私はひっそりと笑う。


「……本当に、有難うございます」

「おう」


 深々と頭を下げる私に、この人は屈託のない笑顔を浮かべた。あの頃と何一つ変わらない、人好きのする、心底楽しげな笑みだ。私よりも年上だろうこの人に、今となっては幼さすらも覚えるのは、多分この人の表情に裏表を少しも感じないせいなんだろう。


 嗚呼。きっと、これで本当に最後なんだ。目前に迫るその瞬間をじわじわと実感してくれば、切なさに胸が詰まって息苦しい。だけどどうにか最後まで笑顔は崩したくなくて、せめて忘れないようにと、この人の姿をじっと見詰める。

 綺麗な人だ。明るい人だ。何時だって目を惹く輝きを持つ、何処へ行っても誰かに囲まれているような、孤独とは無縁の、愛される人。


 良くある恋物語のように、どうか今すぐこの手を取って連れ出して欲しいとは思わない。私とこの人の生きる世界は最初から最後まで違っていて、ほんの僅か、擦れ違っただけの関係に過ぎないから。……それを理解して、どうにか割り切ることができる程には、私も大人になったから。


 これできっと、良い思い出として締め括れる。そう思って、私は無言で背を向けた。小さな教会は出ていくまでにそう時間はかからない。足の感覚もないまま扉に向かって歩いていけば、あっという間に離れてしまう。呆気ない。だけど、きっとこれで良いんだ。頭の中で自分に何度も言い聞かせながら進んでいく。


「お幸せにな、シャーリー」


 足が止まる。


 嗚呼、と、酷く泣きたい気持ちになった。それは嬉しいからなのか、悲しいからなのか、或いは全く違う感情から生まれてくるものなのか……私にも良く分からない。一つ言えるのは、この人がまともに私の名前を――それも愛称で――呼ぶのは初めてだってことだ。お母様にでも聞いたんだろうか。どうしてなんて尋ねる余裕はなかったし、一度話し始めてしまえば、きっと止まれなくなるから、結局それを聞くことはできなかったけど。


 時間の流れすら止まったかのように感じる中で、この人との思い出が幾つも蘇ってくる。

 それ程たくさんの時間を共にしてきたわけじゃない。だけど、その少ない邂逅の一つ一つが、私にとっては眩しいほどに輝いているものばかりで、大切で、優しくて、痛い程に愛おしい、宝石のような宝物だ。きっと忘れることはないし、忘れられもしないだろう。抱いている気持ちはきっと、捨て去れるようなものじゃない。このままずっと、私の深い深い場所で、ずっと輝いているままだ。


 冷静になれと自分に必死に言い聞かせて、ひっそりと唇を噛む。じんわりと熱を持つ目頭に、視界は徐々に滲んでいった。


「……ええ」


 決して震えたりしないように、必死に声を絞り出す。

 振り返りたくなった自分の気持ちを必死に殺して、ただ私は前を向く。扉を開けばもう終わり。触れる程の距離にある木製の扉が霞んで見える。たった一滴、床に雫が滴る音が響かなかったことだけは、幸運と取るべきだろう。


「有り難う。……貴方も、どうか、お元気で」


 最後ぐらいは背中を見送らずに行きたかった。振り向くことのない後姿を、覚えておかなくて済むように。最後に見たあの人の姿は、私に向けて綺麗に微笑む、大好きな顔のままが良い。


「――さようなら」


 冷たい空気が吹き付ける。これがあの人との最後だと、私に言い聞かせるかのように。


 きっとあの人はもう、私のことを見ていない。分かっているけど、それはとても寂しいけれど、私が好きになったあの人はきっと最初からそういう人で、そういう人だからこそ、この人はこんなにも長い間、私の奥底に住み続けているのだろうから、私も振り返ることをせず、小さな教会を後にする。


 さようなら、私の初恋の人。私の、永遠に忘れ得ぬ人よ。

 きっと、私達は、もう二度と、巡り会うことはないでしょう。

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