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「だから、丈夫で育てやすいこの薔薇を常に用意してあるんです。でも、まだ他にもたくさんあるので……!」


 納得してくれるだろうか? 私の、精一杯の説明で。

 役に立ちたい。ひたすらに願うのはそれだった。きっとそれは純粋な善意から生まれた望みじゃない、不平等にも程があるような想いからくるものだったけど、そんなことはもう些事だ。私が、望みを叶えたかった。他でもないこの人の、とても真剣な願い事を。


「……幸せを呼ぶ、ね……」


 いつになく静かな声で独り言ちたこの人は、何かを想うようにして、大きくて赤い目を細めた。次いで、閉じた唇が緩やかに弧を描いていく。それは舞台に立っていたり、危ない相手と対峙しているときに見せた、自信と余裕に満ち溢れている表情とは全く違う。何処までも穏やかで、誰か大切な人を想っている、愛情に満ちたものだった。

 ……やっぱり、この人にも、幸せになって欲しいと願う相手が何処かにいるんだろうか。そんな疑問が浮かんでくる。だけど問うことをしないのは、深い仲ではないからじゃない。答えを聞くことを心が拒んでいるからでもない。――漠然とではあるけれど、正解を悟っているからだ。

 彼は酷く繊細な手付きで、まだ咲きかけの薔薇へと触れた。たった一回、花弁をそっと撫で上げる。そうすることで、この人の気持ちは固まったらしい。


「それじゃあ、この薔薇をくれ」

「……はい!」


 支払いを終えて、鉢ごと薔薇を包み終えて。緊張しながら手渡せば、あの人はとても慎重な手付きで受け取った。誰の目から見ても明らかに大事そうに持ち上げた薔薇を、しばらくの間じっと眺めて、それから、ほっとしたように頬を緩める。そんなあの人の一連の変化を、私は無言で盗み見ていた。初めて見る表情だ。私には……ううん、この町の誰にも向けているところを見たことがない、優しくて穏やかな微笑みは、そのまま私の知らないあの人の一面が、世界が、まだまだ存在している証だ。

 息苦しいのは、狭いお店に閉じこもっているせいだろうか。……そんな疑問が一瞬でも浮かんだ自分に、声もなく笑ってしまいそうになる。そんなわけがなかった。だけど、私はそれに蓋をする。開いたところでどうしようもない。結果は、分かり切っていた。


「有難うございました」

「ああ、こちらこそ。有難う」


 丁寧に言葉を返してくれたこの人のことをじっと見詰める。

 もしかしたら、何時の日か、この人は私からこの花を買ったことを忘れてしまうかもしれない。そんなことをぼんやりと思った。そして多分、そのときには、この人の隣には私じゃない、別の誰かがいるんだろうとも。誰かと一緒に笑っているこの人のことを想像することは容易くて、だけど肝心の相手の方は曖昧なまま判然としない。一つはっきりと言えるのは、私の空想の中ですら、隣に並んでいるその相手は、私じゃないってことだけだ。


 私だったら、どんなに嬉しいかと思う。そんな未来を全く期待しないわけじゃない。もしかしたら……ひょっとしたら。そんな、ゼロに等しい可能性でも夢見てしまうぐらいには、どうしようもなく惹かれてしまう。でも、その一方でそんな自分は、おかしな程にしっくりこない。この人のことを眺めているだけの自分なら、すぐに想像できるのに。

 分かってる。そう、自分の中で繰り返す。分かってる、分かっているんだ。そう、諦めを促すかのように。諦めなければいけないんだと、自分を諭すかのように。


「……もしも」


 気付けば、私はそう切り出していた。この人の視線が私に向けられているのを感じる。真っ直ぐな瞳だ。何時だってこの人はそうだった。大きくて真っ赤な双眸を、私は一呼吸置いた後、覚悟を決めて、正面から見詰め返す。


「綺麗に咲いたら……良かったら、見せに来て下さい」


 咄嗟にそう口にしたのは、自分でも気付かないうちに抱いていたからなんだろう。漠然とした――それでいて理由は明確な、不安と、焦燥。この人は村の外の人で、いつこの村に来なくなってもおかしくない。船乗りなんて常に危険と隣り合わせの暮らしだろうし、そうでなくとも、船を降りて陸での暮らしを始める可能性だってある。出身は何処なんだろう? 聞いて私に分かるだろうか。少なくとも、この村でこの人が親戚付き合いらしいことをしている姿は見たことがない。……考えれば考える程、素知らぬふりをしてきた現実が荒波のように押し寄せて来て、その恐ろしさを振り切る為に、私は言葉を欲していた。きっとこの人は見事に育て上げるだろう。根拠はないけど、不思議とそう言い切れる。

 だから、それと結び付けて、どうしてもこの人と明確な〝次〟が欲しかった。


「おう」


 私の勝手な願いにも、あの人は屈託なく笑って、拍子抜けしてしまいそうな程あっさりと受け入れる。どうして、なんて疑問すら挟まない。面倒がっている様子もない。私がどんな気持ちで頼んだのかをこの人は決して尋ねたりせず、同時に気にした風もなく、人好きのする笑顔を浮かべる。


「約束な」


 短く、だけど確かにそう残し、去っていくあの人の背中を、いつも通り、お店の外に出て見送った。有難うございます。そう告げた理由を、単なるお買い上げに対するものと受け取ったのか、約束に対してのものだと正しく受け取って貰えたのか。振り返ることのないあの人の表情は確かめることもできなくて、圧倒的な寂しさと一抹の悲しさに片手で胸を押さえながら、私は最後まで背中を見詰め続けることしかできなかった。


 それが、私が最後に見た、あの人の姿だった。


   †


 あの人は村を訪れなくなった。理由は見当もつかないし、誰に聞いても手掛かりはない。一体何処へ行ったのか、そもそも、元々は何処から来ていたのか。分かったことは、地図にも載っていないような遠くの国から来ていたらしいってことぐらいで、確固たる情報は何一つ残ってはいない。今となっては思い出以外にあの人は何処にも存在していなかった。まるで夢か御伽噺だ。誰の口からもあの人の話題を聞かない日が続いていれば、私だってきっとそうだと思い込んだに違いない。何人かの女の子達が涙している場面を見かけたから、あの人と過ごした時間は確かに現実だったんだと、辛うじて実感したけれど。


 嘆いたのは私も同じだ。悲しみもしたし、恨めしく思うこともあった。誰かがお店に来る度に期待してしまう自分がいて、それが外れて勝手に落ち込んでしまったりして。散々隠れて泣いたりもしたし、何日も何日も来ることのないあの人の船が寄港するのを、海を眺めて待ちもした。痛む気持ちは、傷だなんて称して良いものなのかは分からない。あの人が傷付けたわけじゃない。私が臆病で、幼くて、ただの一歩すら踏み出せずに立ち止まっていたせいなんだから。


 何より悔やんだことといえば、思い出す姿のことだった。思い出の中であの人は何度も笑っていたはずなのに、圧倒的に浮かべる表情は笑顔が多かったはずなのに。あの人を想うと、浮かんでくるのは、最後に目にした、決して振り返ることのない後ろ姿だけだった。もっとちゃんとあの人の顔を見ておけば良かった。もしくは、見送らなければ良かったんだ。そうすれば、今でも目蓋の裏に焼き付いているのは、私が一番好きだった輝くような笑顔のまま、せめて記憶の中だけでも、ずっと私に笑いかけてくれていたかもしれないのに。悔やんでも詮無いこととは理解していた。それでも、どうしても後悔してしまうんだ。それはまるで、私の向けていた想いが全部、あの人にとっては刹那の出来事に過ぎなくて、見向きもされてはいないんだと、容赦なく突き付けてくるように。


 分かっていた。分かっていたんだ。私が抱いている感情が、恋心だってことぐらい。そんなの、とっくの昔に知っていた。知っていたけど、同時にそれが叶わないことも当然のように頭では理解してしまっていたから、気付いていないふりをしたんだ。あの人と私が生きている世界はまるで違うし、あの人のことをほとんど知らない私でも、あの人の世界はとても広くて、私と過ごすお店での時間は、私にとっては一等大事なひとときでも、あの人にとってはほんの一瞬、些細な出来事に過ぎないことを。特別なことなんて何もない。お店の花を気に入ってくれてはいたけど、私は単にその花を売っていただけの子供だ。あの人の記憶の中に私の存在がどれ程あるのか、私には全く分からない。


 もう、忘れてしまったかもしれないな。そんなことを、ぼんやりと思うようになった。涙は、出てくることはない。


 何年もの歳月が過ぎた。私も年頃と言えるような歳になって、何時の間にか親しい一人の相手が出来て、当然のように彼との結婚の話が上がった。嬉しい気持ちは嘘じゃない。不思議と抵抗感はなかった。忘れてしまったわけじゃない。だけど、あの人への気持ちは幼い頃の思い出と共に、心の深い場所へ沈んで、浮かんでくることはなくなった。動かず、消えず、ただただじっとそこに在る。いつか存在していることすらも意識しないようになるのだろうか。人はそれを忘却と表現するのだろうか……私には、難しくてまだ分からない。

 結婚相手である彼は、とても優しいと評判の人だったからなのか、或いは街に住んでいる裕福な家の跡取りだったからなのか。周りの人は、彼のことを盛んに褒めるばかりだった。私のことを幸せ者だと、たくさんの人が断言してくれたから、今の私はきっと幸福なんだろう。欠点なんて一つもない。――ただ、相手があの人じゃないだけ。たった、それだけのこと。躊躇する理由になんてなり得なかった。夢物語のような再会を思い描く子供の時期には、とうの昔に、別れを告げてしまったから。


 私は明日、あの人じゃない男の人と結婚する。


   †


 式のときに持つブーケは、村の習わしに従って、教会で一晩、月明かりの元に置いてある。大丈夫だとは思うけれど、万が一にも萎れたりしていたら大変だからなんだろう。自分で確認をしに行こうとしているお母様のことを制止して、私は一人で教会に向かった。村の小さな教会だから、普段から特に施錠もされていないけれど、置いてある物は花も含めて高価というわけでもないし、何かされることもないはずだ。

 そんな私の考えが甘かったことに気付いたのは、教会からこそこそと出てくる影を、遠目に確認したときだった。


 神父様か誰かだろうか? 最初こそ、ぼんやりと思っているだけで特に疑問を抱くこともしなかったけれど、その影が一つじゃないことに気付いて、更にその正体が見知った人達であることを悟れば、すぐに心臓の辺りが冷えた。

 そのうちの一人が、私に気付いて立ち止まる。多分、あちらも動揺したんだろう。無言でこちらを見詰めているのは、普段よりも目立たない服装をしてはいるけれど、間違いない。私と同じ年頃の、あの女の子達だった。


 どうして教会で何の催しもない今夜、彼女達が連れ立って中から出てくるんだろう? ……頭の中ではそんな疑問が浮かびはしたけど、答えを既に私は察している気がした。私もあちらも顔が強張る。違う、いくら何でも、流石に、そこまでのことはしないはずだ。――徐々に焦りが生まれる中、必死に平静を保とうと自分に言い聞かせるけれど。だけど、それじゃあ、どうして? なんて、反論したくなる自分もいて、嫌な予感が止まらない。

 そうこうしている間に、他の子達も私の存在に気付いたらしい。「早く!」「行くわよ!」……立ち止まった子を叱咤する、極力潜めた、それでも此方にまで声の主をしっかりと伝えてくれるような鋭い声が、夜の冴えた空気を伝って私の元まで届けられる。

 早足に去っていく複数の背中を茫然と眺めていた私は、彼女達が角を曲がりきるか否かのところでようやく駆け出した。決して追いかける為じゃない。用事は教会の中にある。


 扉の前で一度立ち止まったのは、確認することに躊躇いを覚えたからだった。知らないといけない。だけど、もしも想定外の事態に陥っていた場合、それを受け入れるだけの覚悟が、この僅かな時間に決まったかと問われたら答えは否だ。深く息を吸い込んで、極力自分を落ち着かせてから、重い扉に手を掛ける。

 軋むような音を立てて、木製の扉がゆっくりと開いた。静まり返った教会は、誰一人いないこともあって、宵闇の中でも神聖な空気で満ちている。今夜は満月なこともあってか、灯りがなくても大体の様子は見て取れた。


 彼女達は一体、この場所で何をしていたのか。把握するのが遅れたのは、私が自分の足元を見ていなかったせいだろう。祭壇の上に置かれた花瓶。その中で、最も重要な物がないことに気付いて、きちんと探し始めるまでにそこそこ時間がかかったのも、私が未だ、この現実を受け入れたくないせいだった。


「…………これは、」


 花瓶は傷一つなく、正面の中央に置かれている祭壇の上で、しっかりと存在を示していた。だから、一瞬、何も起きていないものだと錯覚したんだ。――祭壇付近の床に散った、哀れな白薔薇の残骸を目にするまでは。

 床を目にして、思わず思考が停止する。誰だってきっとそうだっただろう。私は家が花屋を営んでいて、花が一等好きだったから、尚更強い衝撃を受けた。

 わざわざ花だけが引き抜かれ、床に落とされ、無残に踏み躙られている。それこそ、薔薇の花弁を全て毟るような手間のかかる真似すら為されているあたり、この残虐な行為の裏に相当な感情が潜んでいたことが窺えた。


 罰なのだろうか。そんな考えが頭を擡げた。私が結婚する彼に心底誠実だったと言えば、きっと嘘になるだろう。二心があったわけじゃない。それでも、心の一番深い場所に、別の男性を住まわせ続けていることは、褒められた真似じゃあないはずだ。


 務めて平静を保ちながら、無理矢理散らされた花の亡骸を掻き集め、髪を纏めていたスカーフで包む。幸い、まだ日付は変わっていない。急いで新しい薔薇を持ってきて飾り直せば間に合う話だ。最悪、教会じゃなくて自宅でも良い。月の光をたっぷりと浴びせた白薔薇さえ準備できれば、私はきっと、幸せに……

 そこまで考えて、スカーフを結ぼうとしていた手が止まる。時間はほとんど残ってない。分かっているのに、どうしてだろう、動く気にはなれなかった。


 果たして、そんなことをしても、そこに意味などあるのだろうか。そう、冷めた声が頭に響く。

 自棄になっている可能性もないことはない。だけど、それ以上に、私の中で、何かがぷつんと音を立てて、呆気なく途切れてしまった気がした。それはきっと、言い伝えも、幸せになるということにも、彼女達に対しても、今ある物事に対して、全て。


 じわじわと涙が浮かんでくる。このまま消えてしまいたい。何処か遠くへ逃げ去りたい。そんなことはできないけれど、子供のような我が儘をそのまま実行してしまいたくなるぐらい、頭の中が熱くなる。いっそ、本当にいなくなれたなら。――そんな暗い考えがちらと頭の片隅に浮かぶ程、何とも説明しがたい衝動に今にも駆られてしまいそうだ。


 そんなときだった。

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