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不定期に訪れるあの人は、その後も幾度となくこのお店を訪れて、そしてお花を買っていった。私のことはそれなりに覚えてくれているらしく、「また背が伸びたな」だとか、「髪形変えたんだな」だとか、そういうことをたまに口にしてくれる程度になった。親しくなったと受け取っても良いんだろうか? どうにも判断に迷うのは、それが私だけの特別じゃなくて、あの人は誰にでもそういう風に接することができるってことを私が知っているからだ。分け隔てするようなこともなく、威圧感を纏うことだってまるでなく。常に笑っているあの人にかかれば、その程度の会話なんて、何でもない日常の一部だろう。
そう。あの人は、この村に花だけを買いに来ているわけじゃない。休息も兼ねているようだったし、食料の調達や、得てきた品物の交換もしているらしかった。
だから、彼と関わる機会があるのは、私だけじゃ、もちろんない。
お店とは違う場所で時折見かけるあの人は、私と違って、常に誰かに囲まれていた。天気や時間がどうであろうと関係なく、淡い光を帯びているかのように全てがきらきらと輝いていて、孤独なんかとは丸きり無縁で、誰より人気者だった。老若男女問わず惹かれている人は多くて、見かける度に大勢に、特に子供に囲まれている。そこには私と上手くいかない同じ年頃の女の子達も混ざっていたから、今度こそ私も仲間に入りたいと望む反面、目にしているとどうしてなのか、胸がぎゅっと締め付けられるような心地がして、楽しげな輪には何時まで経っても加わることができなかった。中心で笑うあの人が眩し過ぎたせいかもしれない。もしくは、皆が楽しそうにしているから、既に完成されているかのようなその空間に、私が入り込んだら悪いと感じさせられたからなのかも。それぐらい、あの人と一緒にいると、皆が皆、幸福で満ちているように思えた。
今日もやっぱりあの人は子供達に囲まれていて、そこに入る度胸のない私は、遠くからそれをじっと眺める。お店のお手伝いもあるし……それに、あの人の隣は両方、私を見るとくすくすと笑う、同じ年頃の女の子達が固めていたから、近付くことができなかった。
意図的なことがすぐに分かる程ぴったりとあの人に身を寄せている女の子の視線は何処か熱っぽくて、それがひたすらにあの人へ向けられていることにもすぐに気付いてしまう。うっとりとした表情、薄く赤みを帯びた頬。それに、普段よりも念入りにお化粧の施された顔。あの人はもっと小さな子達に視線を向けているせいで気にしている様子はなかったけれど、そんな姿を見ていると酷く胸が痛かったから、唇を噛んで皆を視界から外す。私もお化粧をしてくれば良かった。そんなことを思ってしまう。大人とはまだ言えないけれど、幼い子供とも言えないぐらいには、最初の頃よりはずっと私も大きくなって、背だってかなり近付いたのに、妙に遠く感じてしまう。目にしなければ少しは楽になってくれると思ったけれど、相変わらずじくじくと胸の辺りは疼いたままだ。
「つぎはあたし!」
「ちがうよ! ぼくだよ!」
「はいはい。順番な、順番」
子供達が代わる代わるあの人に歌って欲しい曲を口にしているらしい。あれだけの上手さだ。きっと高いお金を払ってでも聴きたい人はたくさんいるはずなのに、あの人は自分の歌を披露することを惜しまない。しばらく沈黙が流れた後、伸びやかな歌声が響き出すのを、お店へとゆっくり戻りながら耳にする。今日の晴れ渡る空のような明るさと温かさのあるそれは、何気なく聴いているだけでも心地が好くて、子供達が順番を取り合ってしまう気持ちが良く分かった。心なしか、窓の開いている家が普段よりも多い気がするのは、勘違いじゃあないだろう。
今日は、あの人はお店に来てくれるだろうか。帰ってきたお店の中で、そんなことを、ぼんやりと思う。
単なる偶然かもしれないけれど、お花を買いに来るときだけは、あの人はいつも一人だった。理由は良く分からない。お母様も、どうしてなのか、一緒にお店で仕事をしていたとしても、あの人が来ると笑いながら奥へと下がってしまうから、決まって私が一人きりであの人の対応をすることになった。二人きりで過ごす短い時間が、私の一番の楽しみだ。――あの人を、ほんの少しの間だけでも、独り占めすることができるから。
ただのお客様に過ぎないあの人のことを、独占したい、だなんて。そんなことをちらとでも考えてしまう自分に凄く驚いたし、同時に酷く落ち込んだ。なんて嫌な子なんだろう。今まで誰にもそんな我が儘なことを考えたことはなかったのに、何時の間にかこんなにも欲張りな私が胸の奥に住んでいる。
「よう」
それでも、人好きのする笑顔を浮かべて、今日もまた一人でやってきたあの人の声を聞くだけで、全ての悩みは些細なことになってしまう。
目的は花だ。分かってる。あの人の特徴の一つでもある、大きくて澄んだ深紅の瞳には、いつだって目の前で咲いている花達が映されていて、私の方へと向けられるのは用事があるときぐらいのものだ。分かってた。だけど、それだけで十二分に満たされていたんだ。同じ空間にあの人がいる。その事実があるだけで、本当に本当に幸せだった。
だから、その先にある自分の望みも、深い場所で息衝いている気持ちにも、ずっとずっと、気付いていないふりをした。
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それは、何度目の来店だっただろう。
「いらっしゃ……」
挨拶をしようとして、視界に飛び込んだ色合いに、私は相手をすぐに察した。自然と破顔してしまうのは、もう条件反射みたいなものだ。
「お、お久し振りですね!」
「おう」
短く返したあの人は、笑顔を浮かべてはいるけれど、その表情が普段とは少しだけ違って見える。何処がと誰かに聞かれたら、具体的には答えられなかっただろう。だけど、いつもなら興味津々で花達を見回す大きな瞳が、やけにゆっくりとお店中の花から花へ移っていくから、何かしら目的があるように感じた。
「何か、お探しですか?」
「ああ、まあ、ちょっとな……」
私からの問いかけに、あの人はほんの少しだけ困ったような顔を浮かべながらそう返してきた。曖昧な笑み、とでも表現すれば良いんだろうか。いつも堂々として淀みなく言葉を口にしていく人なのに、歯切れが悪いなんて珍しい。……というよりも、初めて目にする姿だった。きっと何かあるんだと、いつもとは様子の違うあの人に確信することはできたけど、それ以上言及することを許される程、親しいという自信はない。私にできることはただ、あの人が考えていることを私に打ち明けてくれるのを、ただ黙って待つだけだ。
沈黙は、それ程長くなかった。多分、あの人は最初から希望を持っていたんだろう。ただ、普段とは違って、決断するのに、幾らか多く、覚悟が必要だっただけで。
「……この店に、白い薔薇の花はあるか?」
何時になく真剣な口調だった。何時の間にか、私のことを見下ろす顔から笑顔も消えてしまっていて、澄みきった赤色の中に私の姿が映り込む。
「なるべくなら、育てやすいのが良いんだが」
育てやすい花。それも、薔薇に指定しての希望だなんて。どちらの要望もあの人の口から告げられたことはなかったから、内心少し驚いた。自分で育てるつもりなんだろうか。そう思いはしたけれど、どうにもしっくりとこない。彼が花を買う理由はいつだって、花を愛しているという船長さんの為っていうものばかりだ。今までのこの人の言動とは繋がらず、心の中でだけ首を傾げた。
船長さんの為に育てるつもりなんだろうか? それとも……ひょっとして、別の誰かと育てるつもりなんだろうか。でも、誰と? 必死に今までのこの人のことを思い返してはみたけれど、それらしい相手は浮かばない。同じ船に乗っているらしい男の人達は、一応、何人も目にしてきた。だけど、ほんの少し言い難そうな口調でもって紡ぎ出すこの人の様子からは、何か特別な理由があるように思えて仕方がなくて、それに当て嵌まる人物が、私には見当もつかなかった。――多分、直感的に、その相手は女の人だと感じたからなんだろう。正しいという保証はない。でも、不思議と当たっている自信があった。ただ、特別この人と親しい女の人に関しては、年齢問わず心当たりがなかったし、噂で聞いたこともなければ、この人が話してくれたこともない。これだけ何度も会っているのに、ただの店員に過ぎない私に、その情報は皆無だった。
私は未だ、この人のことを何も知らない。突き付けられた現実に愕然としたけれど、今の私にショックを受けている暇はなかった。
どうすれば良い? 頭の中で浮かんだ疑問に、ずるい考えが一瞬浮かぶ。――店内に白薔薇はあるけれど、育てるのは比較的難しいものばかりだ。それだけを告げれば、もしかしたら、この人はそのまま諦めてしまうかもしれない。……そんな未来が、確かに私の頭には少しの間浮かんだけれど、それは自分から進んで彼方に追いやった。
嘘を吐くことに罪悪感があっただとか、誠実な対応をしなかったことを万が一にもこの人に知られて嫌われるのが怖いとか、そんな細かい理由じゃない。ただ、この人の役に立ちたかった。このお店になかったら、この人はきっと別の港で花屋に寄って、目的の花を買うんだろう。この人の知る世界はきっと私には想像すら及ばない程に広くて、私の存在なんて、きっとそのほんの一部に過ぎないんだ。
だから。
「ちょっと、待ってて下さい」
断ってから、急いでお店の奥に行って、大きな棚から目的の物を慎重に取り出した。ずっしりとした重さのあるそれは、お母様をずっと手伝っている私ですらほとんど触ったことがない。だけど、きっと、これだったら。そう思って、一度大きく深呼吸をして自分の気持ちを落ち着かせてから、大事に抱えて、あの人の元へゆっくり戻る。
「……こちらはどうでしょう?」
私がカウンターの上に載せて見せれば、この人の視線はすぐに花へと向けられた。真っ直ぐに注がれている眼差しは、今まで見たどんなものより真剣みを帯びている。気軽な贈り物じゃないんだ。言葉にされなくても伝わってくる感情に、私も一層気合いを入れた。ちり、と焼けるように胸の奥が痛んだけれど、気にしている場合じゃないと無視をする。大丈夫。花と向き合ってきた時間は、きっと力になってくれるはずだ。そう信じて、ひっそりと深呼吸した。
「これは、アイスバーグって品種を改良したもので、とっても育てやすいんです」
「……うん。綺麗な花だ」
あの人はようやくいつものように、満足そうに微笑んだ。どうやらこの花はこの人の御眼鏡に適ったらしい。私がほっとするのと同時、どうしてなのか、あの人は僅かに表情を曇らせる。赤い瞳に映されたのは、薔薇ではなく私の方で。
「でも、奥にあったってことは、大事な品なんだろ?」
お店に出していなかったことを気にしてくれているらしい。気遣ってくれたあの人に対して、私は素直に頷いた。嘘を吐くつもりはない。この人は私より年上だし、何よりも細かいところに良く気が付く人だから、その場の思い付きで誤魔化しても、きっと見抜かれてしまうだろう。そんな不誠実なことをするよりは、真摯に対応した方が、この人にはきちんと納得して貰えるはずだ。必死に思考を巡らせて、私に考えられる中で最良の言葉を探し出す。
「この辺りでは、ブーケや大事な贈り物に、白い薔薇を使うんです……月の光をたっぷりと浴びた白薔薇には、幸せを呼ぶ力があるって言われているので、花嫁さんとか、教会の方が、必要とされることが多くて……」
説明の中に、気になる部分でもあったんだろうか。心なしか、さっきよりも一層食い入るようにして白薔薇を眺めている気がするこの人に、胸の辺りで、何とも言えない複雑な感情が渦巻くように温度の低い熱を持つ。幸せを呼ぶという言い伝えか、或いは……花嫁さんという言葉の方か。頭に浮かんだ可能性に、鉛のような重い物が胸の奥まで埋まっているような感覚がした。この事態を、自分がどう思っているのか、正直良く分からない。そんな中でも、はっきりと頭にあったのは、もう少しでこの人の役に立てるかもしれない――絶対にやり遂げたい。そんな確固たる想いだった。