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あれから二か月も過ぎた。何度か酒場に顔を出してはみたけれど、あの人の姿は全くないし、マスターも見ていないそうだ。もう来ないかもなぁ。なんてマスターの呟きに自分がどう感じたのか、その瞬間は良く分からなかったけど、慌てた様子のマスターが私のことをすぐに慰め始めたから、相当ショックを受けたような顔をしていたんだと思う。でも、どうしてそんなに私は落ち込んだんだろう? 〝私とお母様の恩人なのに〟? 事実ではあるけれど、理由としては少し足りないような気がした。幾ら悩んでも答えはとんと見付からない。分かるのは、ただ、もう一度あの人に会いたいと、心の底から私が願っていることだけだった。
今日もまた、いつも通りに一日が終わる。――それはつまり、あの人に会うことができないまま、日が暮れようとしているっていうことだ。花をお届けする為に、お母様が不在しているせいなんだろう。静まり返っているお店の中で一人きりで過ごしていると、気分が沈んでいくのが分かる。何とはなしに、ふう、と一つ溜息を吐いた。
そろそろお店の外に出ている花を店内に仕舞い始める時間だろうか? 時計を確認してみればまだ少し早いような気もしたけれど、何かしらお仕事をしていた方が、きっと気分も紛れるはずだ。
良し、と決めて店先へと歩いていけば、何時の間にか、外で誰かが花を眺めていたことに気付く。風に靡いて見えたのは、人目を引く鮮やかな赤色の外套だ。華やかさから、てっきり若い女の人かと思ったけれど、次いで視界に飛び込んできたのが、とても長くてさらさらとした、見事なまでの真っ白な髪だったせいで、その考えはあっという間に四散した。それだけの特徴なら何人かは当て嵌まる人もいるだろうけど、ずっと期待していた私はすっかり答えを確信し、駆け足で外に飛び出して……そして、その予想が当たっていたことを理解した。
「……あの!」
勢い余って、不必要に大きな声で話しかけたおかしな私に、屈み込んで鉢植えの花を眺めていたその人が、ゆっくりと顔を上げていく。たった一度しか見たことのない、色鮮やかな赤色の瞳。明るい場所で見ても尚透き通るような白い肌。ふんわりとした長い白髪。見間違えるはずがない。服装こそ違うけど、あの晩酒場で助けてくれた、ずっと再会を願い続けたあの人だった。
「この前は、ありがとうございました……!」
「ん? ……ああ!」
突然私がお礼を言い始めたせいで、最初こそ不思議そうに首を傾げていたけれど、どうやらすぐに思い出してくれたらしい。腰を上げたその人は、ゆっくりとお店の看板を見上げた。
絵画に描かれた聖人のような、整い過ぎている顔に、あの楽しげな笑みが浮かぶ。細められた双眸も、ほんの少しだけ持ち上がった口角も。一つ一つがやっぱり綺麗で、自然と目が奪われた。
「お前の店か。道理で良い花が揃ってるわけだ」
思いがけない讃辞をさらりと口にされて、また心臓が大きく跳ねる。私が渡した花のことを覚えてくれていたことが、本当に本当に嬉しかった。やけに胸がどきどきしているのも、きっと喜びのせいなんだろう。――それ以外に、今の私には理由が思い浮かばない。
もっと、この人とお話ししたい。少しでもこっちを見て欲しい。そして、できることなら、仲良くなりたい。……そんな願いが、次から次へと生まれてくる。私はこんなに欲張りだっただろうか? 今まで知らなかった一面に、私の方が驚くばかりだ。村の女の子達にだって、ここまで貪欲になったことはなかったのに。この人にだけはどうしてこうなんだろう? 理由はとても単純そうに思うけど、どうしてもその答えを掴むことはできなかった。それを知るより、この人がいる今のうちになるべくたくさんお話をしておきたくて、必死に私は話題を探す。
「お……お店の人じゃ、なかったんですね」
「ああ。前に仲間が酔い潰れて、マスターに世話して貰ったんでね。あの晩はたまたま、その礼に働いてたってわけだ」
それでも、相当貰っちまったけどな。そう語りながら笑うこの人の横顔を見ていると、何だか私まで楽しい気持ちが伝染してきて、自然と口角が上がる。同時に、心臓の音が一層大きさを増した気がした。
あの日の私は、凄く幸運だったんだ。ほんの少しでも違っていたら、この人と私は出会えないままだったんだから。――そう思うと、出逢えたことが、何より幸せなことに思えた。
逸る胸を押さえる私には気付いていないらしいこの人は、お店の外に飾ってある花をぐるりと楽しげに見回しながら唇を開く。
「うちの船長がここの花を気に入ったらしいんでね。またしばらく船の上だし、買っておこうかと思ってな」
どうやらこの人は元々船乗りだったらしい。それにしては……と言っては失礼かもしれないけれど、赤いコートには至るところに細かい装飾が施してあってかなり高そうな物に見えるし、黒のブーツにも汚れや傷は見当たらない。シャツだって新品のように真っ白で、襟元にも細かいフリルが付いているから、大抵の船乗りが着回し過ぎて古くなった質素な衣服を纏っていることを踏まえると、貴族と言われても特に違和感はないぐらい、身なりはきちんとしていた。相当良い船に乗っているのか、はたまた、昨日みたいに別のところでたくさん稼いでいるんだろうか。色々と知りたいことはあるのに、どうしても上手に話しかける勇気が出ない。望んだ言葉は喉の奥に詰まってしまって、ちっとも出てきてくれないままだ。
「何かお薦めはあるかい?」
運良くこの人が話しかけてくれてほっとする。話題も良く振られるものだったから、私にもすんなりと答えられる……はずなのに、どうしてだろう。やっぱり緊張してしまって、喉がどんどん乾いていった。一つ息を飲んでから、私は花へと視線を向ける。風が吹けば、またふんわりと優しい香りが漂ってきて、頭に靄がかかった気がした。
「それじゃあ……」
何時も通りに、説明はきちんとできたはずだ。はずだ、なんて曖昧な言い方なのは、必死に喋っていたせいで、自分でも何を口にしたのか今一つはっきりとしないから。すぐ隣から簡単な質問がくるたびに指先が震えて、この人の示す反応が逐一気になって仕方がなくて、見ればすぐ傍にある綺麗な顔に息が詰まって、けれども視線を逸らせば途端にもう一度だけ見たいだなんて衝動に駆られた。矛盾ばっかり、不思議なことばっかり、初めてなことばっかりで、自分で自分が分からない。
それでも。
「じゃあ、またな」
去り際に、あの人は確かにそう言った。再びを口にしてくれた。それだけで本当に踊り出したくなるぐらいに嬉しくて、すっかり舞い上がってしまった私は、結局あの人の名前をまた聞きそびれてしまったことにその晩になって気付いたけれど、今度は次の約束があるんだから構わない。いつになるかは分からないけど、きっと会いに来てくれる。そう思うだけで、私はとっても幸せだった。
†
「いらっしゃいま……」
「おう、久し振りだな」
振り向き様に耳朶を打った、男の人にしては高めの声。耳で理解するより先に、視界へと色が飛び込んでくる。白い髪、白い肌、そして鮮やかな赤のコート。交わる視線の先にある瞳の色もやっぱり赤で、私と目が合ったあの人は楽しげに明るい笑みを浮かべた。
「お、お久し振り、です……!」
あんまりにも突然の再会だったからなのか。どうにか挨拶は返せたけれど、それ以降が続かない。耳に届くのは私の心臓の音ばっかりだ。この人はとっくに私じゃなくて店内の花を眺めているのに、ちっとも気分は落ち着かない。
相も変わらず、この人といるとどきどきする。最初の失敗で悪く思われている様子はないし、今回は特別褒められたってわけでもないから、緊張する必要なんて全くないのに、どうしても他のお客さん達に接しているときのようにはいかない。頭の中では色々考えているのに、まるで真っ白みたいにも思えて、自分が自分じゃないみたいだ。矛盾している。こんなに上手くいかないことなんて今まで一度もなかったから、内心酷く困惑した。
本当に、私はどうしたんだろう?
戸惑うばかりの私の前で、この人は私の目線に合わせるようにして、ほんの少し膝を折る。こちらを向いた綺麗な顔が思ったよりも近くにあって、それを理解した瞬間、驚きで呼吸が止まってしまう。苦しい。だけど、嫌じゃない。今までにない至近距離で見えたあの人の瞳には、私がはっきりと映っていた。
「また幾らか買いたいんだが、今のお薦めは何だ?」
運の良いことに、この人が話題を振ってくれた。それも、予め想定していた範囲のものを。
大丈夫だ。前回は上手く伝えられた自信がないけど、あれから何度も頭の中で練習して、きちんと説明できるように準備をしてきたんだから。ほんの少しでも油断をすれば、あっという間に萎んでしまいそうな気持ちを奮い立たせつつ、私に浮かべられる一番の笑顔で精一杯の説明をした。最後まで声は震え続けていたけれど、それでもどうにか及第点は取れたと思う。だって、あの人は満足そうに笑顔を浮かべて、私が口にした花達を全部買ってくれたんだから。
「お……お気を付けて……!」
「おう、またな」
ああ、〝また〟だ。
おかしくないかな、失礼じゃないかな……そんな不安に駆られながらも、全部の勇気を振り絞って告げた私に、蕾も混じる色々な花を抱えながら華やかに笑んだあの人は、明朗にそう返してくれた。私が言わせたわけじゃない。自分からそう言ってくれたんだ。短い中でも、次を示す言葉を進んで口にしてくれた事実に、思わず頬が緩んでしまう。歓喜の声すら零れ出しても不思議じゃない程、私は舞い上がっていた。
胸元に温かなものが広がっていく中、去っていくあの人の背中をお店の外でずっと見送る。角を曲がって姿が見えなくなった瞬間、膝の力ががくんと抜けて、その場に座り込んでしまった。こんな情けない姿、誰にも、特にあの人には見られなくて良かったと、心の底からそう思う。はあ、と溜め息を吐いて、ぺたりと頬に手を当てる。特に指先が冷えているわけでもないのに、やけに頬との温度差があった。どうしてなのかは、やっぱり分からないけれど。
早く、次が来れば良いのに。今別れたばかりなのに、欲張りな私は、そんなことを、もう願ってしまっていた。