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「締め出されんのはお前の方だよ、この酔っ払い」
「……あァ?」
突然投げかけられた粗野な口調に、男の人が不機嫌に身体ごと背後を振り返ったのが空気で伝わってくる。誰も関わろうとしなかった中で、いきなりばっさりと切って捨てるような物言いを誰かがしたことに驚いて、私も思わず目を開いた。
男の人の後ろに見えたのは、高い位置で結い上げられている真っ白な髪。……あの、伸びやかな高音で歌い上げていた人だった。
張りのある声は私でも絶対に出せない音域を苦も無く響かせていたものだから、てっきり女性だと思っていたのに、それは誤解だったらしい。男性にしては高めの声ではあるけれど、身長も高いし、隠されていない細めの首には、確かに喉仏があった。
その人は、ステージ上で見せていた凛とした佇まいはそのままに、まるでルビーを嵌め込んだかのような真っ赤な瞳を携えて、苛立っている男の人にも真正面から対峙する。
「子供の澄んだ話し声より、お前のがなり声の方がよっぽど不快に響いてるっつってんだ。酔っ払って店の空気悪くされちゃあ、店にも客にも迷惑なんだよ」
淀みなく紡ぎ出されていく言葉達に、私は目を丸くしながらそれを聞いていた。背は同じぐらいだけど、明らかに酔っ払っている男の人よりは細身で、喧嘩とはまるで無縁そうな佇まいをしている人が、こんな啖呵を切るなんて。
予想していなかったのは男の人も同じみたいで、最初こそぽかんとしていたけれど、次第に内容を理解したのか、徐々に顔が歪んでいく。浮かんでいるのは明らかな怒りだ。横顔を眺めているだけの私にも分かる。だけど、あの人は全く怯むことなく、むしろ自分に向けられた怒りすら鼻で軽く笑い飛ばして、男性にしては大きめの瞳で真っ向から視線を返した。
さらりと流れた長い白髪が、店内の柔らかな光を受けて、とても綺麗に輝いている。次いで男の人を揶揄するように真っ赤な目を細めれば、それを縁取る長い睫毛が白い肌へと影を落とす。楽しげにすら感じる程の弧を描いた唇は、そのまま余裕の現れなんだろう。
「分かったらとっととお家に帰って、ママのお膝でねんねしな」
明らかな、挑発。うんざりしているというよりは、小馬鹿にしているのを隠そうともしないこの人に、酔っている男の人が怒り出すまで、ほとんど時間はかからなかった。
「っ……この野郎!」
迷いなく、拳が顔へと突き出された。殴られる。自分のことじゃなくても、怖い。ただ、目を瞑る暇さえなかったから、私は身を竦ませた。
だけど、この人は軽く身体を捻るだけで、あっさりと拳を躱してしまった。
あんまりにも無駄のない身のこなしは、まるで予め打ち合わせしていた劇のようで、呆気に取られていた私とは正反対に、この人は顔色一つ変えていない。更に、勢い余って体勢を崩した男の人の太い足を自分の長いそれに引っ掛け、ほんの僅かな動作のみで払ってしまう。嘘みたいに簡単に足元を掬われた男の人は、元々酔っていたこともあってか、大きな音を立てながら顔から床に倒れ込んだ。見るからに痛そうだったし、実際にうめき声を上げているから、全く受け身を取れなかったんだろう。
一方、たった数秒でそれらを全てやってのけたこの人は、こういう事態に慣れているのか、男の人の様子を確認することすらせずに、流れた前髪を長い指で整える。本当に白いな。と、ほくろ一つ見当たらない顔を見上げて、ぼんやりと思った。さっきよりも一歩分縮んだ距離で見るこの人は、欠点に気付いてしまうどころか更に綺麗さが際立って映る。昼間のような明かりがなくても、全てがきらきらと輝いていた。
「まだやんの?」
いかにも面倒そうな、それでいて余裕に満ちている調子で問いかけるその人からは、どちらでも構わないと言わんばかりの興味の薄さが感じられた。
だけど。
「そっちが出て行かねぇってんなら、俺が放り出してやるけど」
どうする? と。続けて放たれた発言は、間違いなく、男の人が吐き捨てた言葉を受けての最後の忠告なんだろう。
起き上がった男の人は、多分さっき打ったんだろう、すっかり赤くなってしまった額を掌で押さえながら、歯切りしつつこの人を睨んだ。幾らか間があったのは、どうすべきかを必死に考えていたんだろう。ただ、酔った頭でも最終的には敵わないと判断したのか、盛大な舌打ちを一つ残して、男の人は何も言わず、荒い足音を立てながらお店を後にした。
叩き付けるような音を立てて、木製の扉が乱暴に閉じられる。瞬間、囃し立てるかのような歓声が、再びあちこちから上がった。向かう先はもちろん対峙していたこの人で、そのお兄さんがひらひらと手を振って応えてみせれば、まるで何事もなかったかのように、店内には活気が戻った。
「ったく、しょうがねぇなぁ」
お客さん達がそれぞれお酒や料理を楽しむ様子を確認したこの人は、呆れたようにそう独り言を呟いて、カウンターへとお金を置いた。――「これ、あいつの酒代」「いや、でもそんな……!」「良いよ別に。今日はたんまり稼いだし」――そんな遣り取りをマスターと交わしているこの人の声を聞いているうちに、ようやく助けて貰った実感が湧いてくる。安堵を得れば、自分がまず為すべきことも理解して、急いで私は頭を下げた。
「あ、ありがとうございました……!」
「別に良いよ。それよりどうした?」
カウンターに背を預けて立つこの人の仕草は、口調のことも相俟って、ステージ上での気品に満ちた姿とは違う粗野なものに映るけど、少しも怖いと思わないのは、浮かべた笑顔に威圧するような雰囲気が少しもないからだろう。男の人と対峙していたさっきまでとは打って変わって、人懐こさがあるような接しやすい笑みを湛えているこの人に、内心ほっと安堵する。同じ大人の男性でも、さっき怒鳴っていた男の人とはまるで違う。咎めるわけでは決してなくて、ただ私の事情を理解してくれようとする気持ちが、言葉にも態度にもきちんと感じられたから。むしろ、一瞬でも怖い人なのかもしれないと警戒してしまった自分が恥ずかしかった。
でも、真っ直ぐに注がれる視線に……どうしてだろう、少しずつ、私の頬が熱くなる。別にみっともないことをするわけじゃないのに、顔がじわじわと赤くなっていくのが、見えてもいないのに自分でも分かった。
「……あ、の……その、」
もごもごと口を動かすばかりで、要件を中々言えない私にも、この人は表情を全く崩さない。優しげな笑顔を浮かべたまま、私の言葉を、急かさず待ってくれている。
この人なら、もしかしたら。そんな希望が、少し浮かんだ。言うしかないと思ったのは、甘えからきたものなのか、はたまた、それ以外の返答が全く浮かばなくて、焦っていたせいなのか。どちらにせよ覚悟を決めた私は、目の前に佇んでいるこの人を見上げて、花束を詰めた籠を持ち上げて見せた。
「……お花は、要りませんか……!」
いきなりそんなことを言い出したのが予想外だったんだろう。きょとんとしたその人は、丁度三回瞬きをしてから、からからと楽しげに笑い出した。私はどうしてこの人が笑っているのか考えもせず、ひたすら言葉を待ち続ける。
慌てたのは、カウンター越しに遣り取りを聞いていたマスターの方だ。
「お、おいシャーロット、この方は……!」
このときマスターは何と言おうとしたんだろう。正解は今でも分からない。ただ、後から思えば、私の選択はどう考えてもおかしかったことは事実だ。恩人に物を売り付けるなんて非常識にも程があるし、そうでなくとも、この人はあれだけ人気のある歌い手なんだ。花なんて自分で買わなくたって、いくらでも贈って貰えるだろう。明らかに贈られる側であるこの人に、そんな商売を始めた私は、確かにとんでもない子供だった。
だけど、私が幼かったからなのか、或いは、元々そういう性格なのか。この人はおじさんの制止なんて気にも留めずに、楽しげに笑みを深くした。
「俺に花を買わないかって? そいつぁ良い提案だなぁ、お嬢さん」
ちっとも不快に思った様子なんて見せることなくそう言い切ったこの人は、嫌味じゃなくて本心から楽しんでいるような表情のまま、自分の胸に手を当てる。
「何せ今この店にゃあ、俺以上に花の似合う奴はいないだろうしな」
得意げに口にされた台詞は、疑いようのない事実だった。もしかしたらこの人は冗談のつもりで言ったのかもしれないけれど、圧倒的に華があるこの人だったら、肌や髪が白いことも相俟って、どんな花でも似合うだろう。女の人を含めて判断したとしても、店内どころかこの村中で一番花が似合うのは、この人で間違いないと思った。
彼はその場に屈み込んで、私の持ってきた色んな種類の花束を眺めた。曇りのない瞳から、真っ直ぐに視線が注がれる。ふわり。長い純白の髪からなのか、或いはこの人自身からか。お酒とも花のものとも違う、優しい香りが漂ってきて、不思議と頭がとろんとした。幸い、この人は花束を眺めることに夢中で、私の反応に気付いた様子はなかったけれど。
「……うん、良い花だ」
真っ直ぐな讃辞の呟きに、心臓の音が急に大きくなったのは、期待のせいなんだと思った。買って貰えれば、お薬代にも手が届く。そんな下心のせいなんだと。褒め言葉と共に浮かべられた微笑はとても綺麗だったけど、その顔からは目が離せなかったけど、全部期待のせいだと思った。ぼんやりと見詰めるばかりの私には、そうとしか理由が浮かばない。
その人はほんの少しの間、私の持っている花束を眺めてから、軽く口角を吊り上げる。決意の現れなんだろう、「良し」と短く呟いて。
「全部くれ」
にかりと笑い、迷いなく言い切ったこの人に、一瞬、誰もが沈黙した。詰め込んだ花束の数は十じゃ利かないぐらいだし、全部合わせれば流石に気軽に持ち帰れるような量じゃない。何より、幾つか売れれば良いぐらいの気持ちで持ってきた私にとっては、いきなり全部が売れるだなんて予想外過ぎて、思わず目を見開いた。
「ぜ……全部、ですか?」
「おう、全部だ。船に飾るにゃ丁度良い」
予想外のことに慌てふためいている私を置き去りにして、この人は発言を撤回することもせず、笑顔のまま上着の中を漁り始めた。船って何の話だろうとか、飾るにしたってこの数じゃあ多過ぎるんじゃないかとか、言いたいことはたくさんあるはずなのに、いきなりのことで混乱していて、上手く言葉が纏まらない。
「ん、お代」
戸惑う私を待つことなく、上着の内ポケットから無造作に差し出されたのは、金貨や銀貨を飛び越えて、一番高いお札だった。相当豪華なブーケでも作らない限り、こんなお金は貰わない。精算する為にお釣りは結構持って来てはいたけれど、全部合わせたとしても到底間に合わない大金だ。
「あ、あの、こんな大金、お釣りが……!」
「良い良い。今日は十分稼いだんでね」
そう私に返しながら、この人は上着の内側を見せてくれた。はみ出したお札は私に差し出されたものと同額で、それが何枚も入ってる。確かに、相当稼いだみたいだった。でも、と、額の大きさから判断しあぐねている私を置いてきぼりにするように、私の手にお札を握らせたこの人は、籠の中から花束を全部取り出した。
思った通り、色取り取りの花を抱えている姿は、一層華やかに輝いている。この人自身を構成している色の中で一番主体となっているのは間違いなく白だから、様々な色合いの花が共にあればそちらの方が目立ちそうなものなのに。きっと、白は白でも、周囲に溶けていきそうな淡い白じゃない。決して染まることのないような、はっきりと存在を示すような眩しくて明るい色なんだ。だからこそ、多くの花も添えたように引き立て役になるんだろう。
そんな魅力を新たに纏ったこの人は、思い出したように笑う。
「それよりも。また酔っ払いに絡まれる前に、家に帰った方が良いんじゃねぇの?」
何でもない風に告げられた台詞に、はたと私は思い至る。――そうだ。お母様の為にも、早くお医者様のところへ行って、お薬を頂いて来ないと。――そのことですっかり頭の中が染まった私は、お釣りの問題は全部忘れて、急いでこの人に頭を下げた。
「あの、本当に、どうもありがとうございました!」
「おう」
軽く笑ってひらひらと手を振るその人に対し、挨拶もおざなりになりながら私はお店を後にする。
あの人に名前を尋ねるのを忘れたことに気が付いたのは、恥ずかしい話、元気になったお母様にあの人の名前を尋ねられたときだった。とんだ無礼者だ、私は。恩人であるあの人に、名前すら聞かなかっただなんて。
その翌日、慌ててお店に確認しに行ったけれど、あの人の姿は何処にもなかった。マスター曰く、あの日だけ特別に働いてくれていた方らしい。てっきり新しく雇った人だと思っていたから、自分の浅はかさをそれから毎日後悔した。自分がしでかしてしまった失礼なことを謝罪して、改めてきちんと感謝して、それから、あの人の名前を尋ねたかった。後でできると何処かで思い込んでいたんだろう。その全てが不可能なことに、今更気付いても後の祭りだ。
あの人は、この村に住んでいる人じゃなかった。船と口にしていたのは、この村から旅立つのに船を使ったからだそうだ。おまけに、次に来るのは何時なのか、或いはもう来ないのかすら、マスターにも全く分からないらしい。
もう二度と会えないかもしれない。そう思うと、何だか酷く悲しかった。