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「こんにちは、シャーロット」
店先でお花のお手入れをしていた私に声をかけてくれたのは、毎日のようにお花を買ってくれる近所のおじいさんだった。この村に越してきた私が、最初に覚えたお客様。挨拶を返した私に柔和に微笑んでくれたおじいさんは、店内をきょろきょろと見回して、私一人だってことに気付いたんだろう。杖に両手を置きながら、不思議そうな表情を浮かべて、ほんの僅かに首を傾げた。
「今日はお母さんはいないのかい?」
「ええ。お母様は、あんまり具合が良くなくて……」
平気な風を装う為に、なるべく普段通りの笑顔を心がけながら告げる。と、別の方からくすくす笑う複数人の声が耳に入ってきて、聞き覚えのあるそれに反射的に振り向いた。通りの向こう、少し離れている場所に立っていたのは、この村に住んでいる女の子達だ。
その笑いが、決して好意的なものじゃあないってことは、彼女達が私に向けてくる表情で、子供の私にもすぐに分かった。
「今の聞いた?」
「聞いた聞いた!」
「〝お母様〟だってー!」
互いに顔を突き合わせてこそこそと交わされているはずの言葉は、高い声で紡がれていたせいだろう、離れている私の元へもはっきりと届いてきたものだから、羞恥心がかき立てられた。やってしまった。引っ越してくる前からの癖だ。貴族の方や、そのお屋敷に出入りする人達が多かったあの街とは違って、この小さな港の村じゃあ、誰もそんな風に自分の家族を呼ばないことは、重々承知していたはずなのに。
羞恥心と後悔の念に駆られて俯く私の様子がおかしく見えたのかもしれない。彼女達が更に面白がっていることは、目にしなくても、雰囲気で伝わってきた。
「ほんと、いつでも気取ってるよね」
「当たり前だよ。街から来た人なんだから!」
「きっとあたし達みたいな田舎者とは違うんだって言いたいのよ」
「こら!」
私に聞こえるように紡がれていく言葉達は、当然、お客として訪れていたおじいさんの耳にも入っていたんだろう。流石に大人に怒られるのは怖いのか、叱るおじいさんの声を聞いた彼女達は、蜘蛛の子を散らすようにしてあっという間に駆け去った。
謝罪が欲しかったわけではないけど、それでも、何かお話ができていたら、そんなつもりじゃなかったと伝えられたかもしれないのに。寂しさ交じりにその背中を見送っていれば、溜息を吐いたおじいさんが私の方へと向き直る。彼女達はおじいさんと特別な知り合いというわけでもないのに、おじいさんはとても申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「済まないね、シャーロット。こんな田舎なものだから、街にいた君がどうにも羨ましいらしい」
「大丈夫です。気にしていないので……」
半分本当で、半分嘘の発言だった。私だって、できれば同じ年頃の女の子であるあの子達と仲良くなりたいと思っているし、色々な話もしたかった。だけど、今はそんなことを悲しんでいる場合じゃない。
おじいさんを見送った後、しんと静まり返ったお店に入って、今日の売り上げを確かめる。私一人でお店番をしているからなんだろうか。確認するまでもなく、いつもより売り上げが少ない。やっぱり、お母様がいないと……そんな弱気な考えが頭を擡げて、私は慌てて首を振る。そんなことを思っちゃだめだ。私が、一人でどうにかしないといけないんだから。
水をこまめに取り替えながら、少しでも見栄えがするように花の配置を変えてみたり、時折訪れてくれるお客様に、おすすめのお花をいつもより多く伝えたりして、精一杯働いてはみたけれど、やっぱりお母様みたいには上手くいかない。いつもお手伝いをしているから、勝手は十分理解しているはずなのに。
陽が沈んで、そろそろ店仕舞いする時間になって、祈るような気持ちで今日の売り上げを確かめる。――嗚呼、やっぱり、全然足りない。これじゃあ、今日もお母様にお薬を買えないままだ。明日には貯まるだろうか。でも、それまでにもっと具合が悪くなったら? ……不安ばかりが私の頭を支配して、そのまま帰るなんていう選択をする気にはなれなかった。
大丈夫よ、シャーリー。このぐらいなら、お薬なんて買わなくても、きっとすぐに良くなるわ。――体調を崩されてから、お母様は毎日そうおっしゃっているけれど、具合は悪くなる一方だった。昨日まではどうにかお店にも出ていたけれど、今日はとうとう歩けなくなってしまった程に。どうやら近頃流行っている病気みたいで、すぐに効くようなお薬の値段はまだまだ高い。
でも、このままお薬を買えずにいたら、もしかしたら、お母様は……
想像すれば悪い考えばかりが浮かんで、私はぎゅっと拳を握る。
迷っている暇はなかった。たった一つの希望を胸に、私は一番大きな籠に花束をたくさん詰め込んで、閉めたお店を後にする。太陽は既に沈み切っていて、背中からは大きく浮かんだ満月が明るく道を照らしていた。
†
『酒場にだけは、決して近付いてはだめよ』
そうお母様はおっしゃっていたけれど、今だけはその言い付けを守っている場合じゃなかった。お薬を買うにはどうしたってたくさんのお金が必要で、それにはお花を少しでも多く売らないといけない。だけど、もう日が暮れたから道行く人の姿はまばらだ。こんな時間でもたくさんの人がいそうな場所なんて、そこしか私には思い浮かばなかったから。
子供の私には全く縁のない場所だ。厚い木でできた扉越しに、ごくりと一つ息を飲む。とても緊張していたけれど、それ以上に期待と不安で頭の中は一杯だった。
私にとっては少し高い位置にあるドアノブへと手をかける。祈るような気持ちで籠を抱え直しながら、私はゆっくりと扉を開けた。
中から出てきた空気と共に、私の元まで響いてきたのは、酔った人達の喧騒じゃない。
何処までも華やかで明るい曲を、とても朗々と歌い上げる、誰かの高い声だった。
誰だろう。確かこのお店は、楽器を演奏してくれる人は数人いるけれど、歌い手はいなかったはずなのに。不思議に思ってステージの方に視線を向けて――私は瞬時に釘付けになった。
見入る、なんて言葉はきっと、この時の為にあったんだろう。それぐらい、私は一瞬で視線を完全に奪われた。
とても綺麗な人だった。子供の私が思い付く褒め言葉を全部使ったとしても、一割だって表現しきれないぐらい。酒場の中はそこまで明るいわけでもないのに、その人の周りだけはまるで満月の光でも注がれているみたいに不思議ときらきら輝いていた。まるで暗さを感じない。だけど眩し過ぎるとも思わないのは、纏っている色に強く主張するような派手さがないからなんだろう。
最奥にある簡単なステージの中央に立っているその人は、白い肌に、白い長髪、白いシャツと、そして真っ黒な衣装に身を包んでいた。タキシードに見えるけれど、男性の出せるような音域じゃないから、背の高い女性が敢えてそういう服を選んで着ているんだろう。大勢の人を前にしても、背筋を伸ばして凛と立っているその姿は、他の演奏者と比べても一目で違いが分かる程に堂々としていた。驚くような高音すらも容易く響かせてしまうその余裕も相俟って、ほとんど満員状態の酒場の中でも、一人だけ飛び抜けた存在感を絶えず示し続けている程に。
どうやら丁度一曲歌い終わったみたいで、演奏が終わるかどうかのタイミングにも関わらず、割れそうな程に大きな歓声と拍手とが酒場全体に響き渡った。熱気が凄い。既に次の曲を要望する声も方々から飛び交っていて、それに混じってお酒の注文が殺到するから、お店の人達もてんやわんやな状態だった。酒場にはもちろん入ったことはなかったけれど、お母様と外を通りかかっても、ここまでの活気はなかったはずなのに。子供の私にも分かるぐらい、お店側の人手が不足している状態から察するに、今日の状況はよっぽど特別なんだろう。
中央に立っていたあの人は、優雅にお辞儀をしたかと思えば、演奏していた人達に二言三言告げてから、ステージを降りていってしまった。がっかりしたような声があちらこちらで上がる中、少ししたら再開することを演奏者の人に知らされて、歓声や指笛でまた店内が賑やかになる。人知れず、ほう、と感嘆の溜息を吐いたのは、私もまた魅せられたうちの一人だったからなんだろう。
「シャーロット! どうしたんだい? こんな時間に!」
慌てたように声をかけてきたマスターであるおじさんに、ようやく私は我に返った。
すっかり圧倒されていたけれど、ぼうっとしている暇はないんだ。人がいなくならないうちに、お花を買ってくれそうな相手を見付けて、お薬代を集めないと。家で寝込んでいるお母様のことを思い返せば再び不安が胸を占めて、自然と花篭の持ち手を握る掌に力が入った。
「おじさん、あの……」
勝手に商売を始めてしまうのは失礼だからと、店主であるおじさんの顔を見上げて、ここに来た訳を告げようとした、その瞬間。テーブルを拳で叩くような、大きな音が響き渡った。思わず身を竦める私の耳に、すぐに荒っぽいと分かるような足音が何度か飛び込んできて、視界の端に、大きな影が映り込む。咄嗟にそちらへ顔を向ければ、お酒を瓶ごと無造作に煽りながら私を見下ろす、大柄な男の人がいた。見覚えがあるような気がするのは、多分、この村の人だからなんだろう。幸か不幸か、お知り合いじゃあなかったけれど。
「何だァ……? おいテメェ! ここはガキの来る場所じゃねェぞ!」
初めてかけられた乱暴な言葉に、思わず両肩がびくりと跳ねる。お世辞にも紳士的とは言い難い、汚れの見受けられる衣服に、ぼさぼさの頭、普通じゃ有り得ない程に赤く染まっている顔と、少し充血している目。誰がどう見ても泥酔していることが見て取れた。酒場の中でも分かるぐらい、この男の人からはお酒の匂いが一際強く漂っているから、よっぽど飲んでいるんだろう。
ただ、呂律こそ若干回ってはいないけど、さっきのテーブルを叩いた音の大きさから察するに、力はきちんと入るらしい。むしろ酔ってしまっている分、力の加減ができていない可能性すらあった。
「おい親父! ガキなんざとっとと締め出せよ!」
遠慮のない大声でカウンター越しに怒鳴り付ける男の人に、自然と全身が強張った。怖い。今まで酔っている人を見たことがないわけではないけど、決して近付かなかったから、どうすれば良いのか分からない。
この男の人があんまりにも大きな声で喋っているせいなんだろう。あれだけ賑やかだった酒場の中は、何時の間にか、しんと静まり返っていた。それに気付いていないのか、もしくは気にしていないのか、男の人は更に何度もテーブルを叩いて催促する。
「ガキにぎゃあぎゃあ騒がれちゃあ、せっかくの酒がマズくなっちまうだろうが! あァ!?」
私、騒いでなんていないのに。反論したい気持ちはあっても、大人の、それも乱暴そうな男の人に大声を出されて、刃向う度胸なんてなかった。マスターが何かを言ってくれてはいるけれど、男の人は鬱陶しそうに顔を歪めては乱暴な言葉を返すばかりで、受け入れてくれる気配はない。結局おじさんの何度目かの説得で、とうとう男の人は我慢の限界を超えてしまった。
「そうかよ! そっちがやらねェってンならな、オレが放り出してやらァ!!」
こちらへと伸ばされる太い腕には、もう恐怖しか感じなかった。逃げなきゃ。頭ではきちんと理解しているのに、足は床に根を張ったかのように少しも動いてはくれない。掴んで放り出されるんだと分かっていても、大人の男の人相手じゃどうしようもなかった。おじさんが何かを必死に言ってくれているような気がしたけれど、私には良く分からなかったし、男の人も反応していなかったから、多分、あちらにも聞こえてないんだろう。私はただ、すぐに訪れるだろう衝撃になるべく耐えられるように、身を硬くして目を瞑る。
刹那。
かつり。
意図したような高い靴音が、男の人の後ろから響いて止まる。