三
「穂波さん、裏借りますね」
先生が穂波さんに一声かけて通されたのは、柳井堂のバックヤードをさらに行った奥。一度外に出て、『柳井』と表札のかけられた一軒家だった。
お店の裏が柳井さんの家になっていたのか。純和風の家はお店と同じく時代を感じさせる。
「柳井堂って昔からあるお店なんですか?」
「ん? 江戸時代から続いていると俺は聞いている」
江戸時代! やっぱり老舗だった……。
先生は勝手知ったる様子で家の中へと入っていく。
「先生! 一言言ったけどこんな勝手に入っていいんですか!?」
「穂波さんには言った。それに俺もここに住んでいるから平気だ」
ふーん。ってえっ!? ここ先生も住んでるの!?
ちょっと緊張してきた……。
「みちる、めいっぱい匂い堪能しときなさい」
「しないよ!」
囁いたほのこに思わず大声で返してしまう。先生が怪訝な表情でこっちを見た。あぁもう……。
通されたのは大きな広間だった。畳張りにふわふわの絨毯が敷かれ、低いテーブルと二人掛けの黒いソファが向かい合わせに並んでいる。あと上座に一人掛けのソファ。あたしはほのこと並んで座り、翼くんはその向かいに座った。
先生がお茶を乗せたお盆を手に戻ってくる。
「おら、そんなに縮こまるな」
いや無理でしょ。先生ふんぞり返りすぎだって。翼くんはかわいそうなくらい小さくなってしまった。
先生は漆塗りの箱を取り出した。
「これ、落としていっただろ」
箱に入っていたのは、翼くんが落としていった『行人』だった。あいかわらず、黒いもやが絡みついている。
「あっこれ!」
手を伸ばそうとする翼くんから先生はさっと箱を取り上げる。
「なにすんだよ! それはおれのだ!」
「ならその前に言うべきことがあるだろう?」
先生と翼くんは、そのまましばらく睨み合いを続ける。大丈夫かな……?
「……ごめんなさい」
先に折れたのは翼くんだった。「よし」と先生は箱を机の上に置く。
「返す前に聞いておきたいことがある。あのブックカバー、先週お前買っていったよな?」
「……うん」
「うまくいかなかったのか?」
その言葉に翼くんははっとした。
なに? どういうこと?
翼くんは俯いて膝の上でぎゅっと両手を握っている。
「あさみちゃんとつきあってほしかったんだ……。いつもぼくのめんどうを見てくれるけど、それだけじゃいやだって……。あさみちゃん、本好きだから。花言葉? で伝えようって」
そっか、翼くんはあの子のことが好きだったんだ。あのブックカバーには花言葉が添えられていた。うまく伝わらなかったのか。
「それを言うべきはお前じゃないだろう?」
だけど先生は不思議なことを言う。
「想いは人伝てじゃ伝わらないこともないが、直接伝えてこそ意味を持つ。お前はどうしたい?」
先生の言葉は端的だ。ときに鋭く突き刺さる。
だけど、背中を押すには強い力を持つ。
「ぼくは……あさみちゃんとお兄ちゃんがつきあってほしい!」
瞬間、『行人』のもやが箱から飛び出した。先生はすかさずいつものあの本を取り出して、もやを吸い込ませる。
同時に部屋にノックの音が響いた。顔を覗かせたのは、柳井さんだった。
「ナツメ君? 翼君の兄弟だっていう人が来ているけど……」
「翼!」
「翼くん!」
慌てた様子で入ってきたのは、学ラン姿の男の子とあさみちゃんだった。
二人は翼くんに駆け寄る。
「あの……弟がなにかしたんでしょうか?」
「さっき店の奥に連れて行かれるのを見かけて、翼くんのお兄さんを呼んだんです。なにがあったんですか……?」
かちりと頭の中でピースがかみ合った気がした。さっきほのこから翼くんにお兄さんがいると聞いたときに思ったことだ。
『行人』は兄弟と兄の妻の物語。妻の気持ちを信じられない兄は、弟に妻を試すように頼むのだ。
もしかして、翼くんも同じだった……?
「ちょっと顔色が悪かったから、休ませてあげていただけだ。ほら翼」
先生はそう言って、翼くんになにかを手渡した。あれは、ブックカバー?
翼くんはブックカバーを手にふらりと立ち上がる。そしてお兄ちゃんとあさみちゃんの前に立った。
「翼……?」
「お兄ちゃん。これ、お兄ちゃんからってあさみちゃんに渡してごめんなさい……。ウソをつこうと思ったわけじゃないんだ。あさみちゃん、僕のお世話ばっかするから僕がじゃまなんじゃないかって思って……」
「邪魔だなんて思っているわけないじゃない! 私も翼くんのことは弟みたいに思っているよ!」
翼くんの言葉を遮るように叫んだあさみちゃん。でも翼くんはもどかしそうに唇を噛んだ。
「そうじゃなくて! 二人ともおたがいに気持ちを伝えてよ!」
翼くんが叫ぶと、二人は目に見えて動揺しだした。顔を真っ赤に染めて、ちらちらとお互いを見ている。
なるほどねぇ。弟を言い訳に、友達以上恋人未満の関係が続いてしまっていたっていうやつか。
「おら、出るぞ」
先生はあたしたちの背中を押す。
あらま、毒舌いじめっ子先生も、一世一代の告白を邪魔しないでおこうっていう優しい気持ちはあるのか。
翼くんはお兄ちゃんにブックカバーを手渡すと、背伸びして耳打ちした。
「あのね、この花。『愛の告白』って意味があるんだって」
あたしたち五人は外に出た。きっと今ごろ、あの二人は両想いになっているんだろう。
あたしがほくほくしていると、翼くんが玄関を背にずるずるとへたりこんだ。
「翼くん!? どうしたの!?」
翼くんは膝を抱えてしまっていて、その表情は見えない。
あたしが焦って翼くんの肩に触れようとすると、先生が翼くんの隣にどっかりと座り込んで頭をがしがし撫でた。
「よく頑張ったな」
それがスイッチだったのかな。翼くんの肩が震えだした。泣いている……?
「……ぼく、ぼくもあさみちゃんのこと、好きだった……。でもお兄ちゃんも、お兄ちゃんと一緒にいるあさみちゃんも、好きだったんだ……!」
そっか。そういうことだったんだ。
つらいよね。どっちも大切だもん。お兄ちゃんか、あさみちゃんか、選ぶのはきつかっただろう。言霊が憑いてしまうのも仕方がない。
あたしは先生とは反側の翼くんの隣に座りこんだ。
「翼くん、すごくかっこよかったよ」
そう言って背中を撫でると、泣き腫らした顔があたしを見た。
「ほんと……? ぼく、ちゃんとできていた……?」
「もちろん。二人のことを想える翼くんは、強い人だね」
笑顔でそう言うと、翼くんの顔が歪む。ありゃ、泣かせたいわけじゃないんだけど、これはしばらく止まらなさそうだ。
「ありがとう……。みちるちゃん、優しいね」
上目づかいであたしを見上げる翼くんは、泣き笑いだ。あーもう可愛いなぁ。最初に会ったときはナマイキな子と思ったけど、可愛いところがあるじゃないか。
あたしたちはそうやって、いつまでも翼くんを撫で続けていた。
*
泣き顔をお兄ちゃんたちに見られるわけにはいかないと、翼くんはトイレで顔を洗うと先に帰っていってしまった。
それからしばらくしてから、お兄ちゃんとあさみちゃんは柳井さんの家から出てきた。しっかりと繋がれた手は、うまくいった証だろう。
あたしとほのこは再び柳井家に通された。今度は居間で、柳井さんがお茶を煎れてくれる。先生には悪いけど、やっぱり柳井さんのお茶の方がおいしいや。
「そういえば先生、なんでブックカバーのこと分かったんですか?」
先生は漆塗りの箱を戸棚に仕舞って振り返る。
「あぁ、翼のラッピングをしたのは俺だったからな。メッセージカードに書いた名前が『翼』じゃなかったんだよ」
なるほど。あのコーナーを見て、お兄ちゃんの代わりに想いを伝えようと思ったのか。
あたしはちらりと先生の方を見る。
先生はキッチンの方で柳井さんと話していて、あたしの視線に気づいていない。
想いを伝えたお兄ちゃん。想いを伝えなかった翼くん。どちらも勇気がいっただろう。どっちが正しいとか、間違っているとかじゃない。選ぶ過程に意味がある。
あたしはどうしたいんだろう?
先生からすれば、あたしは子どもだ。小娘って呼ばれているくらいだし、大人な先生からすれば女子高生なんて眼中にもないだろう。
あたしは先生と付き合いたいのかな……?
あー、ダメだ。先生を見ていたら動悸がやばくなってきた。
今告白しても、きっと振られるだけだろうし、なんとか眼中に入るようにがんばんなきゃ。まずは脱・小娘!
「前途多難ね」
「まったくだよ……」
ってほのこさん? 心を読むのはやめよう?
「みちるが顔に出やすいだけよ」
ほらまたー!
あたしそんなに顔に出やすいかな!? 先生にも気持ちばれている!?
一人わたわたとしていたあたしは、「小学生相手に余裕がないですねぇ」と柳井さんが言っていたことに気づいていなかった。